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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第二章
7/16

森の中で

 暗い森の中には微かに夕日がさしこんでいた。

 ルガも、森の中をこれだけ歩いたのは初めてのことであった。孤児院での訓練で歩いたのはせいぜい半日、それも途中で何度も休憩を挟んだものだ。

 大きな根をまたぎ、草のないところを選んで歩き、ぬかるみに足をとられる。頭を働かせながら歩くことに、ルガは慣れていなかった。

 ずっと前を歩くトガルの背を追って、必死に歩いていると、不意に、足に激痛が走った。


「あっ!」


 耐え難い痛みに思わず大きな声を出してしまう。


(痙攣してる!)


 足にそっと触れると、筋肉が細かく震えているのがわかる。


「どうした?」


 振り返ったトガルは、ルガの様子を見て何が起きたのか察したようだ。


「今日はここまでだな」


 その表情には、明らかに落胆の色が浮かんでいた。


「いえ、まだ、歩けます」

「無理をするな。足を休めることも大事だ。おれは野宿の準備をする。その辺で休んでいろ」


 彼はそれだけ言うと、木々の間に姿を消した。置いていかれたルガは、なぜ自分の足が動かないのか、と苛立ちを露わにした。


(情けない……! こんなことでユカナまで行けるの?)


 大きな木の根元に座り込み、ルガは足をさすった。筋肉を少しでも揉み解しておかなければ、明日また同じ失敗を繰り返す。それだけは絶対に嫌だった。

 しばらくすると、トガルが木皮を編んで作られた葛籠をひとつ持って現れた。


「足が動かないことを気にしているかもしれないが、これくらいは想定内だ」


 トガルは喋りながら葛籠のふたを開ける。中身は山菜や肉の塊などが入っている、言ってみれば、食糧箱だ。トガルはその中から、革を縫って作られた水筒を取り出して、ルガへ渡した。


「事前に準備してあったんですか?」

「ああ、その場その場で食糧集めするのは、効率が悪いだろう」

「え、あの、でもどこに……」


 そこでようやく気がついたが、彼は外套の他には荷物を何も持っていない。いくら慣れているとはいえ、何も持っていないということがあるだろうか。


「おれは山狗だ。オオカミの相棒がいる。彼女に持ってもらっているんだ」


 彼は隠すことなくそう答えた。ルガが周囲を見渡しても、そのオオカミの姿はない。


「ルベルは臆病だから、まだしばらくはお前に近づかないだろう。ユカナに着くまでには会えるだろうが」

「ルベルさん、ずっとついてこられるなんてすごいですね」

「狩りのために獲物を半日追うことくらいは普通だ。まして人間がゆっくり歩いているんだ。それくらいではぐれたりはしない」

「いえ、そうではなくて、その信頼関係に感動したんです。お互いを信頼していないと、見えないところをずっと歩き続けるなんて、できないと思います」


 そう言うと、トガルは焚き火を起こすための火打ち石を擦る手を止めて、表情を少しだけ柔らかくして言った。


「ルベルとはもう二十年の付き合いになる。おれの唯一の家族だ」

「ずっと、ふたりで暮らしてこられたんですね」


 そう言うと、トガルはまた表情を凍らせて、ルガを見た。その顔で、ルガはまた自分が失言してしまったことに気がついた。


「ごめんなさい……。詮索するつもりはなかったんです」

「……食事にしよう。食べられないものはあるか?」

「いえ、お気遣いなく……」


 トガルはまた黙々と作業に没頭し始めた。


(きっと、すごくつらい目にあったんだ……)


 ルガも孤児だが、両親の顔は覚えていないし、物心ついた時からたくさんの兄弟たちと一緒に暮らしてきた。寂しいと感じたことはなく、むしろ普通の家庭より賑やかでいいとすら思っていた。

 人それぞれに色々な境遇があることは分かっているのに、考えが浅かった。彼には触れられたくない傷があるのだ。それが、家族のことや、山狗として生きていることに繋がっているのだろう。


(ルガとしての役目を終えるまでに、何かしてあげられないかな……)


 トガルは肉の塊を木の串に刺して、火の周りに立てていく。火に照らされて輝くその目を見ても、何を考えているのかわからない。


(その前に、もっと仲良くならないと)


 少し動けるようになった足を動かして、ルガはトガルのそばに寄った。


「何か、手伝えることはありませんか?」

「そうだな、じゃあ、その塩鮭で汁を作ってくれ」


 彼はそう言って、鉄の鍋と塩漬けにされた鮭の切り身をルガに渡した。その他に、少しばかりの調味料が入った木の筒をいくつかトガルは取り出す。

 ルガは目を丸くして驚いていた。まさか、野外での食事で、これほど道具が出てくるとは思わなかったからだ。


「なんだかまるで、家で食事の準備をしているみたいですね」

「用意さえしておけば、こういうこともできる。なんだ、肉を焼いただけのものを食べるつもりだったのか?」

「訓練でも、そうでしたから……」

「食事は重要なんだ。特にこの寒い地域では、暖かいものを口にできたかどうかで、その後の体力や胆力が大きく変わる。食事をおろそかにしていいのは、本当に余裕のない時だけだ」


 彼はそう言って、表面の焼けた肉の塊を大きな葉の上に置いた。そして様々な香草やキノコを一緒にして、葉を丁寧にくるんだ。


「これは山狗がよく体力の回復の時に食べるラングという料理だ。全てこの辺りの山でとれるものだけで作れる」


 ラングを火の中に放り込み、炭を上にかぶせる。こうすることで、蒸し焼きができるのだ。

 ルガはその様子を見ながら、鉄鍋に水を張り、塩鮭を入れ、火にかけた。ただ煮るだけでも、塩鮭からは味がよく出る。湯が沸いたところで一度火から外して鮭を取り出し、山菜やキノコ類を入れる。これ以降はあまり煮込む必要はない。鮭は粗熱をとって手で裂き、一口で食べられる大きさにすると、最後に鍋の中へと戻した。

 孤児院で料理をしていたことがこんなことで役に立つとは思わなかったが、やがて熱々の汁ができると、トガルは少し嬉しそうであった。


「うまいもんだな」

「いえ、私なんてまだまだです」


 そう謙遜しながら、ルガは彼の用意した器に汁を注いだ。透明な汁から白い湯気が立ち上り、キノコと鮭の香りを辺りに漂わせる。

 トガルの作ったラングもよく焼けており、香ばしい肉と香草の香りがしている。トガルは肉をナイフでひとり分ずつ切り分け、ルガに渡した。

 香草を使った料理は作ったことがある。しかし、孤児院の子供たちは香草が苦手なようだったため、一度試しにやっただけだ。あの時作ったものは、これほど見事な香草焼きではなかった。


「いただきます」


 ルガは肉をひときれ口に運んだ。表面はカリカリで、中は肉汁が溢れている。


「おいしい……」


 つい、独り言がもれてしまった。


「表面だけを先に焼くことで、中に肉汁が閉じこもるんですね。知らなかった」


 それに、香草の風味もたまらない。疲れている時にこんなに大きな肉の塊など食べられるものだろうか、と疑っていたが、香草のおかげで、肉特有の脂のしつこさが緩和されている。

 気がつけば、自分の作った汁には目もくれず、与えられた分を全て食べ終えていた。


「美味かったか?」

「はい、とってもおいしかったです。トガルさんは料理上手なんですね」

「いや、おれも料理は好きじゃない。だが、食えない時でも食うためには、美味いものを作る必要がある。美味ければ、食欲なんて後から沸いてくるからな」


 食事が終わると、トガルは鍋や器をまた葛籠にしまい、森の中へ消えていった。きっと、オオカミに荷物を渡しに行ったのだ。

 焚き火を眺めながら、ルガは明日こそ彼のことをもっと知ろうと思った。今日は、彼が料理上手ということが知れただけでも大きな前進だ。ルガはそう思うことにした。

 そうしていると、オオカミの遠吠えが聞こえた。


「ルベルさん、かな?」


長い遠吠えが終わると、すぐにトガルが戻ってきて、さっと火を消した。


「何を――――」


 トガルはルガの口を抑え、焚き火のあったところから離れた。しばらく木の影に身を潜めていると、ひとりの男が様子を伺うようにして現れた。


(追手だ!)


 ルガの目から見ても、その男は気性が荒らそうで、刻み込まれた眉間のシワや、引き締まった腕から、怖い印象を受けた。彼の後ろの暗闇に、まだふたりの別の男がいた。

 三人組は、焚き火の周囲をうろうろと見て回り、こそこそと話して、すぐにどこかへ行ってしまった。

 彼らの姿が見えなくなっても、トガルはしばらくじっとしていたが、やがてそっとルガから手を離した。


「どうやら、この辺を見張っているようだな」

「もう追手が来たのですか?」

「不思議なことじゃない。目的地が分かっていれば、待ち伏せは難しくないからな。ただ、少し気になることがある。あいつら、俺たちを探す素振りは見せなかった。焚き火を見つけただけで、安心している様子だった」


 トガルの言っていることが、ルガにはよくわからず、首をかしげた。


「……足止めか」


 トガルは小さくつぶやく。


「おれたちを探している部隊がいるということを、こちらに知らせることが目的だったんだろう。そうすれば、おれたちは簡単には動けない。そう思わせるための動きに見えた。まあ、推測だから、あまり過信はできないが……」

「足止めだとしたら、今のところは安全ということではないのでしょうか?」


 ルガは、少しだけ震える声でそう言った。無意識にそう思いたかったのだ。


「過信するなと言っただろ。隙さえあれば襲ってくることは充分に考えられる」


 トガルはここからさらに離れるようにルガへ指示を出しながら、周囲を見回した。


「とにかく、この近くまで来ているのは、あまり油断ならない。たとえあいつらが間抜けな集団だったとしてもな。かと言って足止めされるのは、あまりにもやつらの思惑通りだ。今日はもう少し行ったところにある山狗の隠れ家で休む。明日はやつらを少し引っ掻き回してやるぞ」

「あの、それって、私がいても大丈夫なんですか?」

「何も直接戦うわけじゃない。相手のやり方を利用するだけだ。ここから離れたところで何か所か野営の跡を作る。どの方向に進んでいるか、痕跡から辿れないようにするんだ。やつらは明日になれば本格的に捜索を始めるだろう。それまでにある程度準備を進めておきたい」


 トガルが懐から木製の笛を取り出して、短くピュイと吹いた。するとやがて、がさがさと草むらをかき分けて、大きな銀色のオオカミが姿を現した。

 その毛並みはまるで絹のようになめらかで、顔は凛々しく、オオカミを初めて目の前で見たルガは、絶世の美人を前にしたような、胸中に浮かぶ興奮にも似た感情を言い表すことができなかった。


「こいつがルベルだ。本当はこいつの警戒が解けるまで待ちたかったが、事情が変わったからな」


 トガルはルベルの背に乗せてある大きな葛籠から、こぶし大の小袋取り出した。


「これは香り袋だ。ルベルがお前を見失わないようにするための目印だと思えばいい。これからルベルとふたりで隠れ家に向かってもらう」


 そう言いながら、トガルは手際よく葛籠を降ろし、中から鞍を取り出してルベルに装着する。オオカミ用の鞍は馬のものより少し幅が広い。それに、握るための手すりまでついている。振り落とされないためにあるのだろう。


「明日までにおれが戻らなかったら、ルベルとふたりで隠れ家を出ろ。道はこいつが知っている。背中に乗っていれば勝手に進んでくれる」


 体勢を低くしたルベルにまたがりながら、ルガは話を聞いていた。ラゴウを相手に、自分ではまったく役に立つことができない。ならばせめて、言われたことを忠実に守るしかない。


「トガルさんも、気をつけてください。絶対、明日には戻ってきてくださいね」

「ああ、わかっている。ルベル、こいつを頼んだぞ」


 ルベルはトガルの胴を鼻でつつく。それで別れを済ませたことになるのだろう。振り返ることなく、ルガを乗せて森の中を進み始めた。

 最初、ルガはぎゅっと体を硬くして乗っていたが、ルベルは走ることなく、軽やかな足取りで進んでいくだけであった。振り落とされるような心配はなく、ルガはすぐに慣れて、楽な姿勢をとることができた。

 あれだけ近くに追手が迫っていたのに、トガルはほとんど動じていないように見えた。まさか、これすらも予測の範囲内なのだろうか。それとも、切り抜けられる自信があるからだろうか。


(帰ってきたら、たくさんお礼を言わないと)


 無意識に強く握りすぎて痺れた手を、ルガはゆっくりと開いた。


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