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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第一章
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出発の日

 ロスタンの町へ、トガルは朝早くに到着した。騒ぎになっては困るため、ルベルは町の外で待機させている。これから教会へ行き、巫女を回収後、最北端にある水の社ユカナを目指す手筈になっている。

 トガルも近辺までは行ったことはあるが、ユカナまで行ったことはない。どこにあるかは把握しており、道のりも頭の中に入っているが、日程は多めにとってある。

 ラゴウへの対策より、あの黒い爪が出た時のことも考えておかなくてはならなかったが、翁を含めた山狗の面々も、あれのことを知らなかった。どのみち、体の内側から出てくるのだから、襲われたら逃げられないだろう。恐ろしいことであったが、考えても仕方のないことに悩んで、何でもないことにつまづくことだけは、あってはならない。

 トガルはできるだけ、黒い爪のことは忘れて任務につくことにしていた。

 朝霧の中を歩き、トガルは誰にも会うことなく教会へとたどりついた。何を祀っているのかよく知らないが、あのろくでもない爪よりは良いものなのだろう。

 トガルが教会の扉を叩くと、紺色のローブを着た老婆が顔を覗かせた。


「お待ちしておりました。どうぞ、中へ」


 誘われるまま、トガルが中へ入ると、礼拝堂の中心、大きな女神像の前に、ひとりの少女がいた。場に似つかわしくない、木綿の服を着て、大きな荷物を背負っている。その姿はとても巫女とは思えず、まるで狩人のような格好であった。首からさげた青い羽根の飾りがよく目立つ、清楚な娘だ。


「はじめまして、私がルガです」


 彼女は一礼をして、トガルに挨拶をした。


「おれは山狗のトガルだ。ユカナまでの護衛を担当する」

「トガルさん、よろしくお願いします」

「ああ、よろしく。ところで、お前の名前はなんだ? ルガというのは役職だろう」


 ルガ(巫女)と名乗ったことに違和感があり、トガルは思わず聞いた。すると、老婆が困惑したようにトガルに言った。


「あの、すみません。それはこちらの事情がございまして――――」

「先生、お話しても構いません。これから私の命を守ってくださる方ですから、できるだけお伝えしておかなければならないと思います」


 老婆の言葉を遮って、ルガがそう言った。


「ルガというのは、巫女のことであり、私自身をさす言葉でもあります。私には、名前がないのです。ルガは、役目を終えるまで、名前を与えられません。ですから、私のことはルガとお呼びしてください。もちろん、役目が終わったら、名前で呼んでいただきたいところですが」


 彼女は全く悲観していないように、そう言った。普通なら、名前がないということをもっと気にするところだろうが、彼女にとってはさして重要な問題ではないようであった。


「言いにくいことを聞いてしまって悪かった」

「いえいえ、このくらいのことは、当然です。ああ、そうだ。つけてもらえる予定の名前も、もう決まっているんですよ。『リンナ』という名前です」

「いい名前だ。この仕事が終わったらそう呼ばせてもらう」


 トガルがそう言うと、彼女は照れくさそうに笑った。しかし、その後ろで老婆が居たたまれない様子でいるところを、トガルは察していた。

 子供に役を与え、名前を与えないことで、縛りつけている罪悪感でもあるのだろう。ルガという役目が大事であることは、トガルも充分に理解しているが、もし自分がそうしなければならない立場になったらと思うと、やはり目をそむけたくなるものだろう。


「そろそろ行くか。留まれば留まるほど、別れにくくなるだろう」

「そうですね。では、先生。いってきます」

「……ええ、いってらっしゃい」


 老婆はルガに微笑んだあと、トガルに向かって、か細い声で言った。


「……あの、ルガを、いいえ、リンナを、よろしくお願いします」

「ああ、任せてくれ」


 最後に名前を呼んだのは、制度に対するささやかな抵抗だろうか。ルガは満面の笑みで彼女に手を振って、教会をあとにした。

 ロスタンの町も朝を迎え始めたのか、ちらほらと歩いている人が見える。出店も看板を出し、客を受け入れる準備をしているようだ。


「何か買っておきたいものはあるか?」

「いえ、先日買い物は済ませてあります。私の知識では不足があるかもしれませんが……」


 自信なさそうに彼女は言うが、背中の大荷物を見れば、ある程度のものは用意できているに違いない。それにトガルも最低限必要なものは準備している。トガルには思いつかなかった必需品があるかどうかだけである。聞いた限りでは、それもなさそうだった。

 町中を北東へ向かって歩きながら、トガルはルガに説明を始めた。


「これから、北に広がる大森林を抜けて、山脈へ向かう。お前を狙うやつが襲ってくるとしたら、森の中か、山にさしかかったところだろう。開けた土地はできるだけ避けて、徹底的に身を隠しながら進む」

「街道を通らないということですか?」

「ああ。街道は隠れる場所がないからな。山狗なら、馬に乗って山脈を目指すよりも、大森林を歩いて抜けた方が早い」


 とは言え、ただの少女であるルガを連れていては、普段の半分くらいしか進めないだろうが、ラゴウに見つかって争いごとになるよりは、そちらの方がずっといい。それに、ラゴウもまさか森を突っ切るとは思っていないだろう。

 ロスタンの町を抜けると、あぜ道と畑が広がっている。あぜ道にそって流れる幅の広い川は、この辺りの農業の生命線だ。この川をずっと辿っていけば、大森林に繋がっている。

 農夫たちは朝の涼しい時間に作業をして、昼間は休み、また夕方まで働く。そのため、朝は早くから畑で野菜たちの手入れをしている。あぜ道を歩くトガルとルガの姿を気にしているものがいないか、トガルは自然と調べていた。

 こういうところには隠密の者がよく紛れているものだ。しかし、トガルの心配とは裏腹に、怪しい人物は見当たらない。これで、ラゴウがどれくらい情報を掴んでいるのかわかる。

 ルガがロスタンの町の教会にいることは知っていてもおかしくない。しかし少なくとも、ルガが今日出立することは知らない。つまり、内部に裏切り者はおらず、常に見張っているわけでもないということである。


(今のうちにどれだけ進めるか、だな)


 いかに間抜けな相手でも、今年中くらいは毎日ルガがいるかどうか調べているはずだ。出て行ったことに気がつけば、すぐに追手が来る。ラゴウの規模はそれほど大きくないが、こちらは素人を連れている。けっして侮ることはできない。

 薄暗い森へ入ると、トガルはさらに足を緩めた。ここからは急いでもそう早くはならない。ルガの体力に気を配りながら、日中歩けるだけ歩くことが重要になる。


「あの、質問、いいですか?」


 歩きながら、ルガが口を開いた。


「山狗って、どういう仕事をしている方なんですか?」

「知らないでついてきたのか」

「私なりに調べようとしたんですけど、文献もほとんどなくて……」


 トガルもあまり意識していないことだったが、普通は山狗のことなど知らないのだ。それは、ひたすらに影で生きてきた結果であり、山狗である限り名は必要ない、と翁が決めたことだ。隠密の仕事をすることも、生きるための手段のひとつであり、そこに誇りや思想があったわけではない。


「簡単に言うと、狩人だ。ただし、動物だけでなく、人相手にも狩りをする」

「狩りって言うと、弓矢でうったりするということですか?」

「いや、おれたちが使うものは、基本的には罠だ。弓も使うことはあるが、獲物を待って罠にかける方が多い。人相手でもそれは変わらない。昔は争いが多く、いろんな組織を相手にしたものだが、今はほとんど帝国からの依頼で、山に逃げ込んだ犯罪者を捕まえている」

「帝国からの依頼なんて、すごいですね」


 彼女はそう言って、目を輝かせている。山狗たちが仕方なくそうしていることなど、想像もしていないのだろう。


「そんなことはない。戦争がなくなって、食い扶持を稼げなくなったやつらがたくさんいる。人を叩きのめす技術なんてものは、他に使い道がないんだ」


 戦争は人の居場所を奪いもするが、逆にそこでしか生きられない人もいる。兵士や武器商人、それに山狗のような組織も、そのなかのひとつだ。


「そう悲観なさらないでください。救いを欲している人には、何にも代え難い牙となることでしょうから」


 彼女はこちらをなぐさめるためにそう言っているのだろう、とトガルは思った。彼女のように町で暮らしてきた少女には、こちらの世界のことは対岸の出来事でしかないはずだ。


「……これから、日が出ている間はこの森を歩いて、あの山の麓にある小屋に向かう。日が暮れるまでにはつくと思うが、おしゃべりに体力を使うとあとがつらいぞ」


 そう言うと、彼女はもう喋らなかった。

 トガルたちの風下を、ルベルが追ってきている。森の中に潜む敵がいれば、先に見つけてくれるだろう。


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