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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第一章
3/16

ロスタンの町の巫女

 ロスタンの町の朝は、教会の鐘の音と共に始まる。孤児院の起床時間を知らせる鐘だ。

 まだ薄暗い空の下、今年十五歳になるルガ(巫女)は、鐘の鳴る前から起き出して、井戸の水で顔を洗っていた。


「あ、雪……」


 朝焼けの空に、ちらちらと小さな雪が舞っている。今年初めての雪を見て、冬の訪れを感じていた。


「おはようございます、ルガ」


 ぼーっと空を見つめているところを、後ろから声をかけられて、ルガは驚いて小さく声をあげた。


「お、おはようございます、先生」


 ルガの後ろにいたのは、紺色のローブを着た初老の女性だ。彼女はこの孤児院の子供たちの監督役であり、物事を教える先生である。

 先生は、ルガの目線の先にある雪に気がついたようで、ほっとため息をついた。


「初雪が降り始めましたね」

「はい。ちらちらとして、綺麗です」

「この北の大地に住んでいて、雪をそんなふうに思えるのは、あなたくらいね」


 先生があまりにも呆れたように言ったため、ルガは照れ笑いをした。

 この町はまだ積雪量の少ない方ではあるが、雪が降れば馬車は止まるし、作物は育たない。これからの時期、町はひどく冷え切って、寂し気な様相を見せる。まるで雪が、人々の中にある暖かな火まで消してしまったかのように、暗く静かな日が続いていく。

 しかしルガは、まるで絵画のようなその風景が好きだった。慌ただしく忙しなく動く町も嫌いではないが、寒さのせいでゆっくり穏やかに人々が暮らしている風景も、趣がある。


「明後日、依頼した護衛の方が来ます。それまでには身支度を整えておくように」


 先生は、ルガの背後から淡々とそう告げた。ルガは振り返ることなく、一呼吸おいて言った。


「先生、人って、何のために生きているのでしょうか」


 唐突な質問に、先生は黙った。何か良い言葉を探しているのだろう。

 すぐに返答がなかったため、ルガは振り返って続けた。


「私は、楽しくて、嬉しくなるものに出会うため、だと思うんです。雪だって、見方ひとつで、良くも悪くも見えます。どんなことだって、楽しく思えば、苦しいことなんて、なにひとつないはずなんです」

「ルガ……」


 ルガは満面の笑みで、先生に言った。


「先生、私はやり遂げますよ。絶対に、巫女としての役目を果たしてみせます」


 胸を張ってそう言うと、先生は両手で顔を覆って、泣き崩れてしまった。


「……ええ、がんばって、立派に、ううっ」


 先生も、好きでルガを送り出すわけではないことを、ちゃんとわかっている。だから、出発する時は、笑顔じゃないといけない。

 ルガは先生をそっと抱きしめた。昔は大きくて頼れる母親だった先生も、今はすっかり腕の中に収まるくらい、痩せて、小さくなっていた。


「大丈夫です。私は先生の子ですから。さあ、朝ご飯の準備をしましょう。みんなが起きてきますよ」


 ルガが離れると、先生も涙をぬぐった。


「あなたは、強い子ね……」


 先生がつぶやくと、ルガは歯を見せてニッと笑った。

 これでいい。残していく人を不安がらせるようなことはしない。自分のために苦しむ人がいてはならない。ルガはそう考えていた。

 先生と一緒に孤児院へ帰ると、他の兄弟たちも起き始めていた。眠い目をこすりながら朝の挨拶を交わすその子らは、ルガがここを出ていくことを知らない。ルガの役目は、教会の聖職者たちと、先生、あとはルガ本人しか知らないことだからだ。

 朝食の準備はルガと年長の者とで行う。十五歳を迎えた者は、孤児院を出て働く決まりがあるため、ルガより年上の子はもうここにはいない。自分よりも小さな子たちが、わいわいと騒ぎながら朝の支度をしているところを見て、心が温かくなり、ふっと頬が緩んだ。

 あと二日、しっかりと目に焼きつけておきたい。いつでも思い出せるように、心の奥にしっかりとしまっておかなくては。

 孤児院の子らが朝食を終えて、屋敷の掃除を始めるころになって、ルガは自分の支度を始めることにした。

 ルガが結界を張るために向かう場所、水の社ユカナは、大陸の北端にある。ロスタンの町は、山や森を挟んで南東の方にあるため、この北の大地をほぼ縦断する旅路になるだろう。

 大切な旅であるため、教会も準備をするのに充分な資金をくれた。これを使って、身支度を行うのだ。使い古しの外套やシカ皮のクツなどは一度処分して、新しいものを買うように、と通達があった。

 愛着のある品物を捨てることには抵抗があったが、途中で壊れても補修することが容易であるとは思えないため、ルガは泣く泣く手放すことにした。

 ロスタンの町の中央市場は冬入りを前にして、盛大に賑わっていた。雪が積もれば、馬車で運ばれてくる大陸中央からの物資は途絶え、農作物も減る。その分、動物の肉や皮も出回るが、代わりになるものではない。

 まだ品物のなくなる前に準備ができることは、ルガにとって幸運だった。

旅の支度や、最低限の知識については、五年ほどかけて習っている。孤児院に来た時からルガになることを決定されていたために、そのために必要なことは、すでに仕込まれているのだ。

 防寒具は、シカの皮をなめした温かく柔らかい外套を購入した。シカの皮は、手入れいらずで生涯使えるとまで言われている。牛革などに比べて、劣化しにくいのだ。そのうえ、通気性、防水性が共に高く、雨が降っても問題なく使える。この土地に住む者にとって、厳しく長い冬の必需品なのだ。

 他にも、日持ちする食糧などの細々したものを揃えているうちに、ふと、通りに並んだ行商人の商店で気になるものを見つけた。緑や青の光沢がある、鳥の羽で作られた小さな飾りがたくさん並んでいる。宝石のようにきらきらと光っていて、ルガは思わず足を止めてしまった。


「あの、これって……」


 ルガが商品のことを聞こうとすると、商店を出していた恰幅のいい男が、明るい顔で言った。


「南国の鳥の羽さ! ここいらじゃまず見られないだろうね。ひとつどうだい?」

「いくらですか?」

「羽根だけなら十バン(約十五円)だよ。装飾品は二十バンだ」

「こんなに綺麗なのに、ですか?」


 あまりに安すぎるため、ルガは聞き返した。たった十バンの品物を売っても、稼ぎにはならないだろう。


「安すぎるかい? 正直言うと、今回は稼ぐことが目的じゃないのさ。これから先、南の方からもっと商品は入って来る。その時に、できるだけ買いやすくするための、先行投資だからね」


 人間は、知らないものをなかなか手に取ることはしない。だから、先に装飾品や小物で、南の文化を生活の中に潜り込ませておきたいのだろう。


「そこまで考えているんですね。じゃあ、この首飾りをひとつください」

「はいよ。お嬢さん、来年はもっと綺麗なもの持ってくるから、その時はよろしくね」


 ルガは商品を受け取りながら、笑ってごまかした。


(余計なもの、買っちゃった。でも、これくらいいいよね?)


 自分自身にそう言って、ルガは勝ったばかりの首飾りをつけた。三つの青い小さな羽根が、きらきらと輝く。

 ルガは機嫌よく買い物を続け、日が暮れるころに、全ての準備を終えた。そのまま孤児院には戻らず、一度教会へ荷物を預けた。どんな小さな子でも、この大荷物を見れば感づくに違いないからだ。

 首飾りだけはつけたまま、ルガは孤児院へ帰った。それからすぐに夕飯を終えると、先生に呼び出され、教会にある談話室へと連れて行かれた。

 茶色の木目を基調とした小部屋には、向かい合う木の椅子と長机がある。普段はちょっとした休憩などに使われる部屋だ。孤児院の子たちからは説教部屋とも呼ばれている。

 先生は談話室の扉に鍵をかけ、ルガを座らせた。そして、咳払いをひとつすると、重い口調で話し始めた。


「ルガ、あなたはこれから、たくさんの怖い目に会うと思います。ラゴウだけでなく、ガンドルトの爪も、あなたに届くことがあるかもしれません。だから――――」


 先生は、言葉を飲み込んだ。続く言葉を躊躇っているようだ。

 ルガには彼女が何を言おうとしているか、なんとなく分かった。誰にも聞かれないように教会へ移って、鍵をかけた。ここまでした理由など、ひとつしかない。


(嫌だったら逃げてもいいって、言いたいのかな)


 先生も、ずっと悩んでいることを知っている。でも、それを言ってしまうことは、重大な背信行為になる。逃げないにしても、ルガが結界を張り直せなかったら、先生はその責任に耐えられるだろうか。厳しい人だから、自分で自分を罰するだろう。そんなことはさせられない。

 ルガは言葉を遮って聞いた。


「先生、護衛の人って、どんな人なんですか?」

「え? え、ああ、護衛の人は、この北の大地で、誰よりも山を知る人間です。山狗、という組織を知っていますね?」

「オオカミと一緒に一生暮らす人たちですよね? たしか、帝国との戦争の時に、大活躍したっていう……」

「そう、その山狗の中でもとびきり腕の立つ人が、あなたの護衛をしてくれます。おそらく、ラゴウなど、相手にもならないでしょう」

「そんなにですか」


 ルガも本物の山狗を見たことはない。いったいどれほど屈強な男が来るのだろう、と緊張した。


「先生は、山狗に会ったことあるんですか?」

「うんと小さかったころ、先代のルガを迎えに来た人と会ったことがあります。とても逞しく、生命の力に満ち溢れた人でした。あの横顔は、それまで考えていた些末な不安を、一気に吹き飛ばしてくれました」


 先生もそれを思い出したのだろうか、先程までの焦ったような表情ではなく、柔らかい顔をしていた。


「かっこよかったですか?」

「……そうですね。この町にいるどんな男性より、格好よかったと思います」


 先生が男の人をそういうふうに評価することは珍しいことだ。ルガは目を丸くしていたが、あっと気がつき、手を叩いた。


「初恋だったんですね! だから、独身だったんだ! その人を忘れられなくて!」


 ルガの冗談めいた物言いに、先生は何か言い返そうと身を乗り出したが、すぐにそれもやめて、大きなため息をついて一笑した。


「そうかもしれませんね。まだ、あの方より良い人を見たことがありませんもの」

「先生にも、そんな時期があったんですね」

「失礼な子だこと。誰に教わったのかしら」


 呆れた先生を前にして、ルガは満面の笑みを浮かべた。


「先生、私はこれでいいんです。教会の決まりだとか、ラトルのためだとか、そんなことは気にしていません。私は私がやりたいからやるんです。先生は、いつものように、どっしりと構えて、私を送り出してください」


 ルガは一方的にそう言うと、談話室の鍵を開けて、外へ出た。

 廊下の開いた窓から夜風が吹き込み、髪をくすぐる。朝の雪は少し降っただけで終わったが、もうすっかり冬の匂いに辺りは満ちている。

 結界は社の内側からしか張れない。それを正しく理解するまでしばらくかかったが、今では全て受け入れて、ここに立っている。


(先代の人って、どんな気持ちだったのかな……)


 ルガは月を眺めながら、そんなことをぼんやりと考えていた。


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