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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第一章
2/16

山狗のトガル

「トガルさん、おかえりなさい!」

「おう」


 木の柵で囲われた大きな屋敷の前で、農作物の仕分けをしていた青年が、トガルを見てぱあっと笑顔になる。

 ここは『山狗』の長の住んでいる屋敷だ。山狗は各々の家族がオオカミと共に暮らしているため、大勢と一緒に集落を作ったりはしない。自分の山を縄張りとして、その中で獲物をとって暮らしている。

 大陸の北部にある広大な山々は、山狗から見れば、必ず誰かの住んでいる山であるということでもある。

 家族単位で暮らしているとはいえ、山狗の数も、もうそれほど多くはない。十年前にミータイア帝国にこの地が支配され、戦争が完全になくなってしまってからというもの、生き方を変える必要が出て来たのだ。

 以前は諜報活動や追跡など、この地に住んでいたラトル(北に住まう者)たちに雇われて行うことが多かったが、今となっては争う相手もいなくなってしまった。

 人が生きていくには、多かれ少なかれ金がいる。このままでは生活もままならないため、トガルも仕方なく帝国に雇われて悪人を捕まえたりしているのだ。そういう柔軟な姿勢を作れない者は、山狗をやめるか、オオカミと共に山で死ぬかの選択を迫られる。

 山狗に属している人間は、決して楽観的にものを見ない。理想を追ってオオカミと共に死ぬことは、人にとってもオオカミにとっても良くないものであることを、みんなよく理解している。

 ほとんどの人間は、山狗をやめて、オオカミと決別して暮らし始めた。それはきっと、断腸の思いであっただろう。悲しいことに、野生だけで暮らしていくには、人間は足手まといなのだ。

 山に残った数少ない山狗であるトガルにも、かつては家族がいた。体の弱かった嫁は、娘を生んですぐに死に、その娘も流行り病にかかってしまい、一歳まで生きられなかった。

 もう十五年も前の話である。今でもふたりの顔を思い出しては、胸が熱くなることがある。だからこそ、人と会わずに済む山狗の道を捨てられないのかもしれない。町へ行けば、嫌でも思い出すことになるからだ。


「トガルさん、このルベルの背中に乗せてあるのって……」


 長の弟子であるリーヴァが、荷ほどきを手伝おうと手を伸ばして、それに気がついた。


「触らない方がいい。おれが殺したわけではないが、目の前で死んだ。かなり奇妙な死に方だった。翁(山狗の長)に何か知っていないか聞こうと思ってな」

「そうなんですか。奇妙な死に方……」


 そう言いながら、ずるずると死体をルベルの背中から降ろしていく。リーヴァは死体を地面に寝かせると、夢中で調べ始めた。

 彼は好奇心旺盛すぎる節があり、一度気になると周囲が見えなくなってしまう。本来は翁に話を通して触るべきなのだが、彼のこういうところを翁は気にいっているため、トガルも強くは止めなかった。

 上半身を脱がせて触診していくうちに、何かに気がついたように、トガルを見た。


「この人、変ですよ」

「何がだ?」

「ここ、お腹のところを見てください」


 リーヴァの指さした腹部は、まるで虫に食われて潰れた果実のように、皮がへこんでいた。


「内臓が、なくなっているんじゃないでしょうか?」

「なんだと?」


 リーヴァは遺体に服を着せながら、青ざめた顔をしていた。そこにあるはずのものがないことが、これほど不気味なものだとは、トガルも思っていなかった。


「さすがにここで開いて確認するわけにいきませんけど、たぶん。何があったんですか? いったい、どうやったら、これほど綺麗に、内臓だけを……」

「その話は翁の前でやろう。おれもまだ夢心地なんだ。自分の見たものが現実だと思えない」


 突如現れた黒い巨大な爪。体の中から現れたようにも見えたが、あれが出入りした跡はどこにも残っていない。

 あれが現れる前に出た黒い線は、いったい何だったのだろう。あれを辿るようにして、爪が現れたのだから、無関係というわけはあるまい。

 あれこれと考えながら、リーヴァに続いて、トガルは翁の屋敷へ足を踏み入れた。


「翁、トガルが戻りました」


 リーヴァが跪いてそう言うと、オオカミに寄りかかるようにして眠っていた翁が目を覚まして、ふたりを見た。すでに御年六十八歳であるが、まだ鋭い眼光は失っていない、狼王と呼ばれた伝説の山狗だ。

 屋敷の中の壁には、刺繍の入った大きな布がいくつも飾られている。これは、ラトルから山狗へ送られた勲章のようなもので、赤や青や金の刺繍が、豪華な一枚の模様を作り出している。焚き火の橙色に照らされる刺繍が、息を飲むほどに美しい。ミータイア帝国に支配されなければ、この勲章はもっと増えていたことだろう。

 トガルは、翁の前に座ると、事の顛末を話した。翁は話が終わるまで、口を挟まずに静かに聞いていた。そして、トガルが伝え終わると、リーヴァに外へ出るよう言って、屋敷の中にはふたりだけになった。


「さて、まず詳しい話をする前に、報酬を渡す」


 翁が口笛を鳴らすと、翁の背後に横たわるオオカミの影から、小さなオオカミの子が現れ、口に咥えた小袋を、トガルに渡した。中身は金の粒だ。これだけあれば、一か月は暮らせる。


「遺体になってしまったのに、こんなにもらってもいいんですか?」

「かまわん。お前が見たものに対する金でもある」

「……どういうことですか?」


 トガルが聞くと、翁は起き上がってきちんと座り直した。


「……今、ラトルの民からふたつの依頼が来ておる。最近になって、ラゴウの動きが活発になってきているのは、お前も知っているだろう。少人数だったために帝国も放っておいたのだが、ラトルの民はやつらを恐れている。その理由が、お前の見たものだ」


 トガルの脳内で、また、あの映像が甦る。人の体内から現れたあの巨大な爪をラトルが恐れている、と言われることに、充分な説得力がある。もし、あの光景を目にすることがなければ、翁の話と言えども、鼻で笑っていたことだろう。


「あれは、『ガンドルトの爪』だ。信仰に縁の薄い我々には馴染みのない、いわゆる神と呼ばれるものだ。それも、血を好み、争いを巻き起こす、邪神だ。おれも聞いた話になるが、大昔、ラトルの民はこのガンドルトの爪を用いて、何度も侵略者を追い返したらしい」

「あれが制御できるものであるとは、私には思えませんが……」

「使う方法はおれも知らん。知りたくもない。だが、お前はその一端を目にした。もう、逃れられんぞ」


 翁の目が怪しく光る。その言葉の意味するところを、トガルは理解している。

 人は、一度も目にしたことのないものを怖がることはない。それがたとえ何であろうと、知らないことは強固な盾になるのだ。しかし、知ってしまえば、知らなかったころには戻れない。身を守るには、恐怖を克服しなければならない。

 今はまだ、映像を思い出すだけで済んでいるが、やがては夢に見るようになり、そして幻覚が見えるようになる。妻子を失った時に、嫌というほど味わった。あの感覚が、再び襲い来る。


「私はどうすればいいのですか」

「慌てるな。さっき、ふたつの依頼が来ていると言ったな。まずひとつ、ガンドルトの存在を確認すること。これは、お前がすでに達成しておる。そしてもうひとつは、ルガ(巫女)の護衛だ」

「ルガ?」

「ラトルの巫女だ。五十年ごとに結界を張り直さなければ、ガンドルトが復活する。そうなれば、この北の大地は血の海になるだろう。また帝国との戦争を行えば、被害をこうむるのはラゴウではない無関係なラトルたちだ。帝国に、有害な人間と無害な人間の見分けはつかないだろうからな」

「では、今あの爪が現れたのは、その、結界のせいだと?」

「結界が薄れているせいもあるだろうが、それだけではないだろうな。現に、前回の張り直しの時に、そんな話は聞かなかった」


 翁は大きなため息をついた。


「ルガの護衛と言いましたが、相手はラゴウですか?」

「ああ、その通り。ラゴウからルガを守り、結界を張り直すのだ。そうすれば、その爪は二度と出てこられないだろう」


 トガルの心中を察したように翁が言う。ルガを守り通すことが、自分のためでもある、と言っているのだ。


「話はわかりました。期日はいつですか?」

「三十日後だ。準備ができたらロスタンの町へ向かえ。あそこにある孤児院を訪ねるといい。詳しい話はそこで聞けるだろう」


 ロスタンの町へは二日もあればつける。準備をする期間は二十日間といったところだろう。


「あまり、時間が充分にあるとは言えませんね」

「お前は腕のいい山狗だ。そう気負わずとも、やり遂げられるだろう」

「やれるだけのことはやります」

「その調子だ」


 翁との話を終えて外へ出ると、リーヴァが遺体を藁で巻いていた。彼に渡すところでトガルの仕事は終わりだ。あとは、彼が依頼者のところへ上手く報告してくれることだろう。


「トガルさん、泉のところにルベルの食事を用意しています。しばらくゆっくり休んでください」

「そうも言ってられなくてな。少し頼みたいものがある」

「なんでしょうか?」

「毒を数種類用意してほしい。種類は問わないが、即効性があり、相手の自由を奪えるものだ」

「罠に使うものですね? 二日ほど待ってもらえますか?」

「ああ、頼む」


 リーヴァは、山狗のために道具を揃える仕事もしている。欲しいものには山でとれるものもあるが、薬草類の調達は彼に頼むのが一番早いのだ。

 トガルが狩猟を得意とするように、彼は採取を専門としている。山狗はそうして、各々が得意分野を持ち、仲間に必要とされた時は力を貸すことになっているのだ。

 寝そべって待っていたルベルを連れて、トガルは翁の家の裏手にある山中へと分け入っていった。その奥には湧き水の溜まった沢があり、リーヴァの用意したシカが木に吊るしてあった。

 先程捕まえたばかりなのだろうか、胴体部がまだ暖かい。


「ちょっと待っていろ」


 トガルはルベルにそう言うと、吊るしている縄を切って処理を始めた。内臓はオオカミの大好物だ。肺、心臓、肝臓は喜んで食べる。胃や腸は内容物を取り除いてやればいい。

 内臓を取り除き、自分の食べる分の肉をとって、残りは全てルベルへ投げ渡した。

 ルベルが尻尾を振って大きな口で獲物を頬張るところを見ながら、トガルは適当なところへ座って火を起こすと、シカの肉を焼き始めた。調理と呼べるほど立派なものではない。そういうものにこだわる者もいるが、トガルは味つけに対してほとんど関心がなく、塩を塗り込むことすらしない。

 棒きれに刺した肉の塊が、表面を焦がしながら、油をぽたぽたと垂らす。トガルは表面だけを綺麗に焼いてしまうと、肉の塊にかぶりついた。柔らかな食感がして、血の味が口の中に広がる。

 トガルは何の感想も持つことなく、ただ淡々と胃の中に肉を詰め込んでいく。食事はただ生きていく力を蓄えるためのものだ。

 妻が死んでからというもの、トガルにとって食事はそういうものであった。食事を楽しむと、妻と娘の顔を思い出して辛いのだ。

 妻は、料理上手であった。妻と出会って、シカの肉はこれほど美味いものなのか、とトガルも驚いたものだ。自分にはもったいない妻だと、何度も思った。


(……思い出すな)


 トガルは、心の底から気泡のように浮かび上がる思い出を、必死に押し殺すように、夢中で肉を食べた。そして、綺麗にたいらげると、そのままルベルと共に、深い眠りについた。




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