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生贄の烙印  作者: 上辻樹
第三章
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仕事

 血の臭いが充満した箱の中、トガルは目を覚ました。今自分がどういう状況にいるのか、まったく把握できない。縛られてはいないようだが、何か狭い空間にいることはわかる。

 厚みはあまりない木箱のようだが、体中が痺れており、力づくで開けることはできない。しかし、周囲に人の気配は感じられない。どこか野外に放置されているようだった。

 危機が間近に迫っているのでなければ、今は体力を回復させて、この木の板を破れるくらいにはならなくては、とトガルは静かに目を閉じた。リーヴァの用意した毒であれば、抜けるまでに半日はかかるだろう。

 しばらくすると、箱にとん、と軽い衝撃が伝わった。誰か来たのだろうか、という予感は、匂いを嗅ぐ音とかりかりと表面を削る音で、最悪の予想を立てさせた。

 この箱にかけられた血の意味を、トガルは理解した。この音は、クマだ。箱に詰められてクマの餌にされたのだ。


(これは、まずい。体が動けるとか、動けないとか、関係ない)


 クマは好奇心が旺盛だ。このままでは、必ず箱が壊される。その瞬間に驚かすことができれば、まだ助かるかもしれない。しかし、まだ体の自由は利かない。

 トガルの背筋に冷たいものが走った。人間の手で殺せないのなら、動物に頼むというのは賢い手だ。そして、この北の大地には、適任とも言えるクマがいる。

 箱はまるで子供がおもちゃで遊ぶように、激しく左右に揺らされる。

 足を怪我しているトガルは、体勢を保つことすらままならず、箱の中を転がった。

 そして、ついに、体重をかけた一撃で、箱に爪が突き刺さり、トガルの顔の近くまで伸びた。

 爪であけた穴を、クマが覗きこんだ瞬間に、トガルは渾身の力で割れ目を蹴り上げた。木箱は音を立てて割れ、トガルの左足はクマの顔に命中した。

 反動で転がり、トガルは雪の積もった地面に放り出される。うめき声を上げながら、クマを睨んだ。すぐに立ち上がって威嚇したかったが、足がいうことを聞かない。

 クマは怯んでいたものの、やがてトガルが弱っていることに気がつくと、餌だと認識したのか、四足になり、ゆっくりと近づく。

 動け、と自分の足に念じながら立とうとするも、ただ雪を蹴るばかりである。

 絶対絶命かと思われたその時、軽快に地面を駆ける音が聞こえた気がした。この強風吹き荒れる中、そんな微かな音が耳に届くはずはないのに、確かに聞こえたのだ。

 次の瞬間、トガルを飛び越えて、灰色の巨大な塊が、クマに襲い掛かった。


「ルベル!」


 咄嗟に相棒の名を叫ぶも、すぐに、そんなはずはない、と思い直す。今彼女はルガを連れてユカナへ向かっているはずだ。

 オオカミはクマの喉元に噛みつき、首を振って肉を噛みちぎった。白い雪の上に、赤い血が飛び散る。クマは戦う意思を見せることなく、悲痛な叫びをあげた。

 クマはオオカミの様子を見ながらも、背を向けて一目散に逃げ去った。出血量から察するに、あのクマも長くはもたないだろう。

 オオカミはその獲物を追うことはなく、ただ戻って来ないかどうか見張っていた。


(いったい、誰だ? この辺りに住んでいる山狗はいないはずだ)


 だからと言って、この様子から野生のオオカミでもないだろう。そう思い悩んでいると、後ろから声が聞こえた。


「危ないところだったな」


 振り返ると、何年か前に山狗を辞めたはずのクワルがいた。


「お前、クワルか?」

「おれがいたら変か?」


 クワルはオオカミの喉を撫で、笑った。


「このオオカミは?」

「お礼より先に質問か? お前らしいな。こいつは翁から借りた若いオオカミだ。まだ一歳にもなっていないが、よく命令を聞く賢いやつだ」

「そのオオカミを連れて、どうやってここに来たんだ? いや、なぜおれのところに?」


 クワルは苦笑した。


「仕事だ。おれも詳しい事は知らないが、お前を助けてユカナに連れて行ってほしいと頼まれた」

「待て、おれはこの仕事のことを誰かに話した覚えはない。いったい誰が?」

「山狗の研究をしているとかいう、若い女性だ。知らないのか? なんでも、ラゴウとかいうやつらがオオカミの毛皮を狙っているとかで、大変な騒ぎらしいじゃないか」


 まったく覚えのない話だが、そのおかげでトガルは助けられた。


「まあ、その話を全部信じたわけじゃないが、こうして死にかけてるお前を見るとどうやら間違っていなかったようだな」

「……ああ、助かった。だが、山狗らしくない」

「おれはもう山狗じゃない」


 クワルはそう言って笑った。懐から布や薬草を取り出し、トガルの怪我に手当てを施し始めた。


「しかし、お前ほどのやつがどうしてここまでやられたんだ?」

「敵にリーヴァがついた」

「……リーヴァが!?」


 信じられないという顔をして彼は言った。

 手当てを終えたものの、血が足りないトガルはまだ立ち上がることができなかった。加えて、片足は骨が折れている。とてもではないが、仕事を続けられる状態ではない。


「どうする? おれが代わってやろうか?」

「馬鹿言え。そのオオカミ借りていいか?」

「構わないが、本当に続けるつもりか? 山狗だからって、そこまですることないだろ。次は本当に死ぬぞ」

「そういうところが受け入れられなくて、山狗を辞めたんじゃないのか?」


 クワルは肩をすくめた。


「まったく、もっと楽な生き方はいくらでもあるだろうに。乗せてやる、待ってろ」


 クワルはオオカミに体勢を低くするように言って、トガルをその背に抱え上げた。


「山狗ってのは、難儀なもんだな。離れたつもりが、またこうしてオオカミと向き合うことになるなんて」

「本当に離れたかったら、南の土地にでも行くんだな」

「考えとくよ」


 トガルはオオカミの背にまたがり、乗り心地を確かめた。鞍はないが、どうにか振り落とされずにいられそうだ。


「手甲は持ってきていないが、どうする?」

「なくていい。あったとしても、この体じゃ降りて戦えない」


 柄の長い武器でもなければ、戦闘はできないだろう。何よりも、そんなことで足手まといになるわけにはいかない。


「……そうだ、こいつの名前は?」

「ラウダだ」

「よし、ラウダ。頼むぞ」


 そう言うと、彼は指揮権が移行したことを理解したかのように、鼻を鳴らした。


「クワル、今度会ったら、酒でも飲もう」

「お前がそんなこと言うなんて、体に毒が残っているのか?」

「たしかに、毒されてはいるな。この一件が片付いたら、おれも山狗を辞めるつもりだ。少しばかり前向きにもなる」

「変わったな、お前」


 クワルは笑っていた。トガルからすれば、山狗を辞めて変わったのは、いつも仏頂面だった彼の方だ。人として生きることに決めると、ここまで表情豊かになれるものなのだ。


「さて、おれは行く。仕事を最後までやり遂げないとな」

「手伝いは?」


 トガルは首を振った。自分はまだ山狗なのだ。受けた仕事は完遂することが、山狗の誇りだ。


「おれの仕事はここまでってことだな。あの姉ちゃんに会ったらよろしく伝えてくれ」

「ああ、承った」


 トガルはラウダの腹を蹴って、ユカナの方角へ走らせた。激しく揺られながら、ルガの無事を祈った。


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