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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
第二章
10/16

ラルバの殺し方

 白い石がごろごろと転がる山の表面に、雪の粒が降り注いでいる。横殴りの雪の中でも、まだ先は見えているが、いずれ景色は全て白く染まることだろう。

 日の光はすでに分厚い雲に遮られて、辺りは薄暗い。トガルも不安定な足場に気をつけて進むだけで精一杯であった。

 ルベルの背に乗っていたルガは、動いていないためにトガルよりも早く体温が下がり、分厚いシカの毛皮で作られた外套にくるまれて、じっとしていた。目だけは前を見ているが、何も映っていないだろう。

 トガルは大きな岩や草の影など、罠を仕掛けられそうなところには特に注意して歩いた。雪を避けようとして大きなものの影に入るのは、今の状況ではあまりいいことではない。

 五合ほど登ったころだろうか、不意に雪の中に灯りが見えた。闇の中にぼうっと浮かぶ灯りはゆらゆらと揺れている。


(待ち伏せか。しかし、これでは見つけてくれと言っているようなものだ)


 なぜ灯りなどつけているのだろう、と考えて、すぐにトガルは嫌な予感がした。

 先日も、わざと近くにいることを知らせるような待ち伏せの仕方をしていた。そう考えると、あれは罠だろう。あの灯りを避けて迂回することを誘っているのだ。


(だが、確証はない。どうする?)


 向こうからこちらは見えていないはずである。灯りの大きさから、まだ距離はあり、この雪の中では満足に弓も引けないだろう。

 思い切って近づいてみようか。ラルバである自分に弓を引くような真似はしないはずだ。

 そんなことを考えながら歩みを進めていると、その灯りがひとつではなく、複数の灯りが束になったものだとわかった。小高い丘の上で、丸太の先についている炎の塊が、雪の中でも消えることなく、めらめらと燃え上がっている。

 その丸太を支えるために、ふたりの男が根元で支えになっていた。その様子が見えるほど近づいても、まだ彼らはトガルたちには気がついていない。悪天候が味方していることに感謝して、トガルはルベルに立ち止まるよう指示を出した。


(何を企んでいるのかはわからんが、ふたりならどうにかなる)


 体勢を低くし、トガルは素早く彼らの視界の外へ回り込んだ。周囲にも人影はなく、彼らが何のためにかがり火を灯しているのかはわからない。何にせよ、潰しておくにこしたことはない。

 手甲をつけたトガルが一気に駆け寄り、ひとりに飛びかかる。声を出す間もなく、ひとりの脇腹を殴りつけ、丸太から引き離す。


「来やがったな!」


 残ったひとりは丸太を放り出したが、その隙に、トガルは彼の足をすくい、石だらけの地面に転がす。馬乗りになって首元に腕をおしつけ、トガルは凄んだ。


「おい、ここで何をやっている」

「……へ、誰が教えるか」


 絶対に殺されないとわかっているからか、彼は強気な表情を見せた。


「だったら眠っていろ」


 トガルは腕をさらに喉へ食い込ませ、彼の意識を奪った。今の騒ぎを聞きつけて集まる者がいないか、と周囲を見回す。しかし、何の気配もなかった。


「なんだったんだ?」


 疑問を口に出しながら手甲を外していると、不意に、空を裂く音が聞こえた。

 咄嗟にしゃがみ、トガルは何が来たのかと身構える。

 ――それは、矢の雨だった。おもりのついた矢は、少しばかり風に流されながらも、トガルのいる辺り一面に降り注ごうとしている。

 丘の上では、身を隠す場所がない。トガルは腕を十字に組み、矢の飛んでくる方へ向けた。ほとんどの矢は地面へ突き刺さる。しかし、そのうちの二本が、トガルの左腕と右のふとももに突き刺さった。

 そして、飛んできた方を睨むと、すぐに次の矢が迫っていた。


「くそったれ! そういうことだったか!」


 あの火は、トガルの居場所を知るためのものだ。無防備に立っていれば、必ず処理しようとするトガルの性格を利用した罠だ。火が消えた場所の周辺にはトガルがいる。あとは広範囲に矢をばらまけば、敵意などもたずとも殺せる寸法だろう。

 トガルは手甲をつけて、飛来した矢を弾いた。自然落下する矢はそれほど早くなく、簡単に叩き落とせる。しかし、最初に受けた傷のせいで、満足に逃げられない。

 一度防いだと思うと、すぐに次の矢が来る。トガルは三回目の矢を弾くと、近くに大きな岩があることに気がついた。その影にいけば、とりあえず矢は防げるだろう。

 しかし、間違いなく、確実に、あそこには罠がある。あそこに逃げ込ませるための矢の雨なのだ。そう思っても、矢を受け続けていれば、確実な死が待っている。

 トガルは舌打ちしながら、四度目の矢を避けるため、大岩の下に潜り込んだ。矢は岩によって弾かれ、ばらばらと散っている。それと同時に、トガルの足を巨大なトラバサミが挟んだ。本来クマを捕まえるための強力なものだ。

 しかし人間であれば、挟まれたくらいなら、簡単に手で外せる。しかし、衝撃で足の骨が折れた感覚がした。興奮しているおかげで痛みはまだ感じないが、これでは外したところで身動きがとれない。

 五回目の矢が降る音がしたあと、しばらく無音になった。どうやら五回で打ち止めだったようだ。

 トガルは笛を使ってルベルを呼んだ。背に乗っていたルガは、トガルの怪我を見て慌てた様子で飛び降りた。


「トガルさん!?」

「悪い、おれはここまでみたいだ」


 このあと、何か恐ろしい方法で殺されるに違いないとわかっている。だからトガルは、逆に落ち着いていた。選択肢から、自分が生き残ることを捨て去る。今は自分のことよりもルガを逃がすことが先決だ。


「ルベルは頭がいい。ラゴウの連中を避けながら進んでくれるだろう。ユカナへはお前が案内してやれ」

「そんな、すぐに乗ってください! 乗れるでしょう!?」

「ルベルにあまり負担をかけてやるな。それに、すぐにラゴウの連中が様子を見に来るだろう。なに、まだ諦めたわけじゃない。うまく逃げられたらユカナで会おう」


 ルガは唇を噛み、かぶりを振った。彼女も馬鹿ではない。言いたいことを飲み込んだのだろう。


「……わかりました。でも、絶対に来てくださいね! 私、待ってますから!」


 それを聞いて、トガルは笑った。


「待ってたらダメだろ。お前のやらないといけないことをちゃんと果たすんだ」


 ルガはトガルの顔を見ずに、ルベルへ戻った。トガルがいなくなれば、彼女たちを殺すことに何の躊躇も必要なくなる。ちゃんと逃げ続けられるだろうか。


「ああ、そうだ。おい、これを渡しておく」


 トガルは懐に入れていた小さな木製の笛を取り出して、ルガへ投げ渡した。


「これを吹けば、ルベルが必ず駆けつける。はぐれた時や、遠くで待機させている時に使うといい」

「……わかりました。ルベル、行こう」


 ルガは笛をしまい、また外套を深く被って、ルベルを進ませた。姿が見えなくなって、トガルは大きく息を吐いた。


「こういう形で引退することになるとはな」


 仕事をやり遂げられずに身を引くなど、考えたこともなかった。まだルベルがいることを思えば、失敗したと考えるには早いが、それでも自分はここで終わりだ。

 石を蹴る足音が迫っている。隠れる気もないのだろう。大勢の人影が雪の向こうに見えていた。

 ラゴウの一団は、足を負傷し、観念したトガルを取り囲んだ。


「どんな気分だ。いつもは罠をかける側なんだろう?」


 ハムシはあざけるように笑った。右手に包帯を巻いているところを見るに、剣を持つことはできなさそうだ。


「お前が考えたのか?」

「いいや、こんな方法はおれには考えつかない」

「だろうな」


 トガルがふっと笑うと、ハムシの拳が頬を殴りつけた。周囲のどよめきも他所に、ハムシは言った。


「敵意をどうやって見分けているのか、おれも考えたのさ。おれくらいになると、人を殴るのは、呼吸と変わらない。おれにはお前を殺す気も、痛みつけてやろうという気もない。それでも拳は振るえる」


 もう一度、ハムシはトガルを殴った。衝撃で奥歯が割れ、口の中に血の味が広がる。


「今ならお前を殺せるかもな」

「試してみろよ」

「やめておく。お前の言葉を信じるなときつく言われているからな」


 ハムシの指示で、後ろに待機していた男たちが、底の開いた木の箱を持ち、トガルに被せた。すぐに逆さまに返され、ふたを閉められて、狭い箱の中で、トガルは完全に身動きがとれなくなった。


「お前はこれからある場所へ運ぶ。楽しみしていろ」


 箱ごと持ち上げられたトガルは、暗闇の中でおとなしく目を閉じた。手足を縛られていないことだけが、今は救いだ。もっとも、この怪我では満足に逃げ出すこともできない。


「お前が死んだら、次はルガだ。おれたちは失敗をしない。ユリクスは、神の怒りだ」


 ハムシの自己陶酔した宣言を聞きながら、トガルは彼らに協力している山狗の正体を考えていた。

 これほど大規模なやり方は、今まで聞いたことがない。相手に見つからないように襲うのが、山狗のやり方だ。しかしながら、罠の仕掛け方にはいくつかある。トガルは相手の行動を予測して罠を仕掛けることを基本としているが、山狗の中には罠へ相手を誘い込む方法を使う者もいる。

 何人かいる候補の中で、今も山狗として残っている者、そして、ラゴウに組みする理由のありそうな者となれば、ひとりしかいない。


(リーヴァか……)


 翁のところで小間使いをしていた彼が、ラゴウについた。翁はこのことを知っているのだろうか。


(いや、知っていても止めないだろうな。翁はそういう人だ)


 そんなことを考えているうちに、手に痺れを感じ始めた。リーヴァの考えた罠なら、毒を使っていないはずがない。だから、縛る必要もない。

 即死する毒でないのは、一応、敵意をそらすためだろう。彼らにしてみれば、どういう理屈でガンドルトが敵意を察知しているのかわからないのだから、罠を辿ってリーヴァが死ぬことを恐れたのかもしれない。


(死ぬ毒にしておけば、死んだとしても、リーヴァだけで済んだものを……)


 次に目が覚めた時、自分はテイクルシアというところにいるのだろうか、と何の気もなしに思ってしまい、苦笑した。ルガの教義に影響されている自分が可笑しかった。


「何を笑ってやがる」


 箱がどん、と叩かれる。板の隙間から冷たい風を感じながら、次第に毒が体に回っていき、トガルは気を失った。






 ハムシたちがトガルを抱えて組み立て式の仮宿に帰ってくると、リーヴァが出迎えた。


「どうですか? 上手くいったでしょう?」

「ああ、先生のおかげだ」


 ハムシがそう言って、トガルの入った箱に目をやる。あれだけ強い男でも、突然の罠には為す術もない。仲間さえいれば助かったものを、とほくそ笑んだ。


「それで、こいつはどうやって殺すんだ? おれたちにはできないぞ」


 このまま谷底に投げ込もうとしても、トガルを殺そうとしていることにはかわりなく、ラルバの力が発現するかもしれない。捕まえたものの、手をかけることはできないもどかしさがあった。


「簡単ですよ。あなた方は狩りの経験はありますか?」


 リーヴァがそう言うと、みなかぶりを振った。


「それはよかった。では、そこのあなたたち、何人でもいいので、すぐにシカを一頭捕まえてきてください」


 ハムシは、後ろに並ぶユリクスたちに目配せして、三人ほど残してみな山へと出て行った。


「先生、どうするんだ? シカに殺させるのか?」


 リーヴァは目を細めて、口元だけ微笑んだ。その張り付いたような笑顔を見て、ハムシの背筋に悪寒が走った。

 彼は本当に突然現れた。ファルからの直筆の文を持ち、これからユリクスを指揮すると言って、姿を隠しながら、ずっとついてきている。

 ハムシはそれがあまり面白くなかった。少なくとも感情を表に出すマナに比べて、彼は得体が知れない。腹を割っていない相手の何を信用すればいいのだろう。


「シカに殺させる。惜しいですね。詳細は知らない方がいいでしょう。あなたたちはただ言われた通りにやればいいのです」


 ハムシが舌打ちして、外を見た。雪はまだ強くなっていないが、そのうち吹雪になるだろう。そうなれば、シカを追うどころではなくなる。


「おい、おれたちもシカを追うぞ。あいつが目を覚ましたらどうなるかわからん」


 ハムシの指示通り、仮宿に残った三人も、ハムシのあとを追って出た。

 この雪の中でシカなど捕まえられるものだろうか、と疑問が浮かぶ。すると、景色の中に、ぼうっと灰色の大きな体が見えた。ふたつの目を光らせて、こちらをじっと見ている。


「なんだあれは……?」


 体全ては見えないが、どうやら巨大なオオカミのようであった。トガルをじっと見ているようで、薄気味が悪い。

 トガルも足を止めてにらみ合っていると、不意にオオカミはそっぽを向いて歩き始めた。少し進んで、トガルの方を見て立ち止まる。


「ついてこい、と言っているのか?」


 半信半疑ながらも、トガルはそのオオカミについて歩いた。山の中をしばらく歩くと、オオカミはぴたりと止まって、ずっと先を見ている。


「おい、遠眼鏡貸せ」


 ハムシが隣にいた仲間から遠眼鏡を借り、オオカミの視線の先を見た。そこには、シカの母子がいる。どうやら雪の中で帰り道がわからなくなっているようで、ふらふらとしている。


「シカがいるぞ、囲んで捕まえてこい」

「殺してもいいんですか?」

「構わん。生きて捕まえることを期待してないだろうよ」


 何の指示もなかったということは、どちらでもいいのだろう、と勝手に解釈し、ハムシはそう言った。生きたものが欲しければ自分で行けと言うつもりでもある。

 シカは存外簡単に捕まえられた。雪に紛れて近づいた男たちは、子供のシカだけを狙って、三方向から追い詰めて叩きのめした。

 母シカはどこかに逃げてしまったようで、すでにどこかへ姿を消してしまっていたが、子供であってもシカはシカだ。ハムシはその獲物を担ぎ、仮宿へ帰った。


「これでいいか?」

「おお、早いですね」


 リーヴァは手を叩いてハムシを出迎えた。まるで子供を褒めるようなその姿は、馬鹿にしているとしか思えない。


「……よくわからんが、オオカミが教えてくれた」

「なるほど、それは良いことをしましたね。オオカミは山の使いですから。シカは充分ですよ。さあ、皆さんを呼び戻してください」


 ハムシは連絡手段として銅鑼を持っていたが、この天候ではどこまで届くものだろうか。山の中へ散開しているユリクスたちに聞こえるよう、四回鳴らした。これは集合の合図である。


「さて、戻って来るまでの間に、準備をしましょう。シカの血を別の容器に移しておいてください」

「あんたはどうするんだ?」

「僕は別の用事がありますので。まあ、すぐ帰ってきますよ。最終確認と目印をつけに行くだけですので」


 そう言って、リーヴァは出て行った。何を考えているのかわからないが、トガルを殺せるのなら何でもいい、とハムシは思考を切り替える。

 ハムシは仲間と協力して、シカの首を落とし、木の桶に血を貯める。残ったシカの肉はどうするのだろうか。皮を剥いでいいものかわからず、言われたところまででやめておく。

 そうしていると、仲間たちが帰ってきた。銅鑼の音が聞こえたのか、と安心したハムシだったが、どうやら違うようで、皆何かに怯えている様子であった。


「ハムシ隊長、この山、何かいますよ」

「何か?」

「おれたち、シカを探していたんですけど、突然後ろから悲鳴が聞こえて……。ラグとルイが、見当たらないんです」

「なんだと? おい、すぐに探しにいくぞ」


 すると、すぐに別の男が言う。


「おれ、見ました。でかいオオカミが突然現れてふたりに襲いかかったんです。もう、生きていないんじゃ……」


 そのオオカミとは、ハムシが見たものと同じなのだろうか。リーヴァは山の使いだと言っていたあのオオカミに、ユリクスの仲間が襲われたとあっては、黙っていられない。


「この一件が終わったら、必ずそのオオカミを見つけだして殺す。お前ら、忘れるなよ。何があってもふたりの仇は撃つぞ」


 ユリクスたちは決意したように、激しい炎を瞳に宿らせていた。これ以上、仲間を死なせるわけにはいかない。そう思っていたハムシだが、しかし、なぜ、という気持ちがあった。

 自分たちの前に姿を現した時は、まるでよく訓練された犬のように、従順にシカの居場所を教えてくれていた。それが見境なく人を襲ったとは、どうしても思えなかった。

 まだ同じ個体であると決まったわけではないし、野生の獣であれば気が変わることもあるだろう。しかし、腹が減っているのに、シカは襲わず人を襲うなどということがあるだろうか。

 オオカミの気持ちはわからないが、あまりに理に適っていない気がした。

 しばらくすると、リーヴァが雪を払いながら、仮宿の中へ戻ってきた。炉端へ行き、火へ向かって丸まり、寒そうに手を当てている。


「おい、どうなったんだ?」

「目印をつけてきましたので、そこまでトガルとシカの血を持って行ってください。着いたら、トガルの箱にシカの血を浴びせて、帰ってきてください」


 そう言われて、ハムシは少し苛つきながら聞いた。


「なんで自分で行かないんだ?」

「巻き込まれたくありませんから」


 彼は顔すらも向けず、きっぱりと言った。何をするのかもわからず、ただ言われた通りに行動して、すでにふたりも仲間が死んでいる。

 ハムシははらわたが煮えくり返る気持ちだった。こいつは仲間の死を背負う気がまるでない。ユリクスの仲間がどれだけ死のうが、他人事なのだ。

 しかし、彼はファルと同じ位の人間だ。ユリクスがラゴウの組織の一部である以上、ハムシにも逆らうことができない。

 苦虫を噛み潰したような顔をしながら、ハムシはリーヴァの言う通りにするように、仲間たちに命令を出した。誰もが納得していないような顔をしているが、その気持ちはハムシにもよくわかる。だが、仕方がないのだ。今はまだ、我慢するしかない。


(この仕事が終わったら、絶対に、一番最初に、ぶっ殺してやる)


 ハムシは静かに、そう決意した。

 仮宿の外へ出ると、点々と、等間隔で赤い布の結ばれた木の杭が打ちこまれていた。あの短い時間でこれだけのことをやってのけたのだと思うと、彼もただ者ではないのだろう。

 オオカミに気をつけながら、ユリクスたちは固まってトガルを運んだ。シカの血が風で揺れ、溢れそうになるのをこらえながら、足場の悪い山道を進む。

 しばらく進むと、目の前に洞窟が見え、その前に打ちこまれた木の杭には青い布が巻かれていた。おそらくここが目的地なのだ。


「ハムシ隊長、ここって……」


 山の洞窟がどれだけ危険か、この地に住んでいて知らない者はいない。全員が、リーヴァの意図を察した。


「早く済ませるぞ。こんなところに長居はできん」


 トガルを洞窟の前に置き、シカの血をかける。そのほとんどは表面に弾かれて、地面に散った。


「あいつも、ひどいことを思いつきますね」


 ユリクスのひとりがおどけるように言った。トガルさえ死ねばもうこんなに怯えてことを済ます必要はなくなると思うと、少し気が緩んだのだろう。


「口を閉じろ。余計なことを考えて爪に裂かれたいのか?」


 ハムシが脅すと、彼は口を真一文字に結んだ。目の前であの死に方を見て、恐れを抱かない者などいない。

 トガルの入った木箱に、静かに雪が降り積もっていく。

 山の洞窟や洞穴には、大抵の場合クマが住んでいる。今の時期のように冬眠目前となったクマは、栄養を蓄えるために腹を空かせており、獲物を貪欲に食す。そのうえ、クマというものは好奇心旺盛で、見たことのないものには興味を示す。血のにおいのする木箱など、簡単に壊してしまうだろう。

 麻痺の毒が抜けていたとしても、片足が折れ、矢が二か所も刺さっているトガルに、クマを撃退することなど、絶対にできない。彼はもう死んでいると言っても過言ではないのだ。

 ハムシたちは準備が終わると、すぐに引き上げた。彼らであっても、クマに見つかればただではすまない。


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