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生贄の烙印  作者: 樹(いつき)
序章
1/16

黒い爪

 トガルは、斜面に転がる大きな岩の影で、じっと息をひそめていた。

 わずかな木漏れ日のほかに灯りはなく、昼間だと言うのに足元は薄暗い。大きく育った針葉樹の隙間を縫うようにして、草木が生えている。しかしながら、日光が不十分なため、その草木のほとんどは細く、短い。地面のほとんどが苔に覆われていることからも、植物がそこで暮らしていくことの難しさを物語っていた。

 今年で三十一歳を迎えたトガルの大柄な体は茶色の外套ですっぽりと覆われ、顔には泥を塗っている。野生動物であっても、遠目からでは彼を見つけることは難しいだろう。

 しばらくすると、地面を踏み荒らす音が聞こえ始めた。


(……来たな)


 トガルは先程よりも一層小さくなり、体を緊張させる。

 このあたりの木からとれる繊維を編んで作られた、樹皮衣の服を着た四人の男たちが隊列を組んで、東の方から歩いてきている。これほど大きな音を立てて山中を歩くところを見るに、今回は緊急の用でここを通っているようである。

 まずトガルは彼らが目的の相手かどうかを見定めるため、目を細めた。服や持ち物に特徴はないが、銀の首飾りを見て確信した。

 ラゴウの者がつけている、宗教的な意味を持つ渦のような模様がついた銀の首飾りだ。

 トガルは大陸を治めているミータイア帝国からの依頼で、宗教団体であるラゴウに組みする者を追っていた。彼らがここを通ると知って、もう十日ほどここで待っていた。この広場から一歩外に出ると足場が極端に悪く、山を通るなら、この場所は決して避けて通れないのだ。


(ラゴウの筋で決まりだな。さて……)


 トガルは懐から木製の笛を取り出して口に咥え、息を吹き込んだ。人間の耳には聞こえない音が、一帯に鳴り響く。

 その合図からすぐに、切り立った斜面のひと際高いところに、灰色の大きなオオカミが姿を現した。


「お、おい、あれ!」


 男たちのひとりがそれに気がつき、慌てて腰にさした刀剣を抜く。

 この地に住むオオカミは、大人になると体長二メートルほどになる。クマにも引けをとらない巨体を持つ、山の獣となるのだ。

 そんなものと、山中で出くわすことの恐ろしさは、語るまでもない。普通はオオカミ避けに彼らの苦手な匂い袋などを腰から下げて歩くのだが、彼らはそれすらも知らなかったようだ。

 男たちの目はオオカミへ釘づけとなった。弓を構える者もいるが、手が震えており、まったく弦を引けていない。あれではオオカミまで届かないだろう。

 トガルは大きく回り込んで、彼らの背後についた。事前に這わせておいた捕縛網の罠を引っ張り上げると、彼らの体が跳ねあがった。

 悲鳴をあげるまでもなく小さくまとめられ、木の上から吊るされた網の袋の中で、男たちは呻いていた。トガルは外套を脱いで、そんな彼らの下へ歩み出た。


「あの巨大なオオカミ……そうか、お前『山狗』か!」


 男のひとりがトガルを見てそう言った。しかし、それに対しては返答せず、トガルは淡々と言った。


「お前らには捕獲命令が出ている。大人しく捕まれば怪我はしなくて済むぞ」


 すでに地上から高い位置に捕まっている男たちは憤っていたが、次第に自分たちの状況を理解できたのか、全員手持ちの武器を網の隙間から捨てた。

 トガルはその武器を集めて離れたところに置き、彼らを降ろして、ひとりひとり体を拘束していく。最初はおとなしく縛られていたが、やがて、最後のひとりになると、彼は急に立ち上がって走り出した。

 捕まりたくないにしても、もう少し方法を選ぶべきだろう、とトガルは呆れながら叫んだ。


「追え、ルベル!」


 トガルがそう言うと、オオカミは耳をピン、と立てて、逃げた男を追い始めた。

 風のように木々の間を抜ける灰色のオオカミは、あっという間に男の服を咥え、尻尾を振りながらご機嫌な様子で戻ってきた。捕まえられた彼は、ひどく怯えた様子でルベルを見ていた。

 トガルがルベルの首元を撫でてやると、嬉しそうに顔をすりつける。


「次逃げたら、お前は大地に返ることになるぞ」


 脅しながら、トガルは最後のひとりを縛りあげ、立たせる。全員を一本の縄で繋いで、山中を歩かせた。もう二度と、逃げ出そうとする者はいないように見えた。

 しかし、彼らは学習していないのか、よほど帝国に引き渡されたくないのか、しばらく歩いたところで、縄を切ってまたもや逃げ出したのだ。

 それも、全員がほぼ同時に逃げたことから、共通する場所に刃物を隠し持っていたのだろう。散開して逃げれば、ひとりくらいは無事に逃げられると思っているのかもしれない。

 トガルはルベルと連携して、素早くひとりを捕まえる。彼は手に持った小さいナイフでトガルを切りつけようとするが、難なく手首を捻られ、その場に組み伏せられる。

 その隙を狙ってか、トガルの背後からナイフを振りかざした男が迫った。ルベルは別の男を追っていて、間に合わない。

 トガルは舌打ちをして、倒していた男から飛び退いた。すると、彼らは起き上がってトガルに対峙した。ただ逃げるつもりではなく、トガルを殺して逃げるつもりなのだ。


「ふたりでなら勝てると思っているのか」


 トガルは手甲をつけながら、彼らに向かって行った。この手甲は、刃物を防ぐためのものでもあるが、加減して攻撃するための装具でもある。下手に殺してしまうと、報酬が受け取れないことがあるからだ。刃物の使用は極力避けつつ、戦う意思を奪うのが『山狗』のやり方である。

 ナイフを向けても構わず向かってくるトガルの姿は彼らの目にどう映ったのだろうか。その手は震えていたが、やがて意を決したのか、ふたりは息を合わせて、トガルに切りかかった。

 反撃しようと構えたトガルは、ふとした違和感に気がついて、少し後ろに下がった。彼らの体の中心に、黒い線のようなものが見える。首元から、服の上に途切れることなく続いた黒い線は、まるで幻のように、彼らに貼りついている。


「お前ら、何だそれは」


 トガルに言われて、彼らも自分の体に黒い線が入っていることに気がついたようだ。


「そんな、なぜ、ガントルト様……」


 信じられないという顔で、彼らは力なく腕を降ろした。ナイフが音を立てて地面に転がる。そして、次の瞬間、その黒い線に沿うようにして、巨大な黒い爪が飛び出し、彼らの体を裂いた。

 トガルは驚いて、思わず顔を腕で覆った。ふたりの倒れる音が聞こえて腕を降ろすと、血の一滴すら出ておらず、彼らの体は静かにそこに横たわっていた。

 急いで脈をとると、黒い線と共に、彼らの命もなくなっていた。

 理解を超えた現象に思考が止まる。長く『山狗』をやっているが、こんなことは初めてであった。

しばらくして、ルベルが動かなくなったふたりを咥えてきた。同じように、外傷はなく、彼らはただ息絶えている。


「いったい何が起きたんだ?」


 トガルは茫然として、彼らの遺体を眺めていた。


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