恋を終わらせてくれた聖女様へ
※雰囲気程度ですが百合です。苦手な方はご注意下さい※
「ジュリアナ、大きくなったらぼくと結婚して。二人で立派な王様と王妃様になろう!」
「はい、アントン様。わたくしはずっと、貴方様のお傍に」
「やった! 約束だよ!」
幼い子どものつたない約束。握った手はどちらもまだ小さくて。温かくて、今でも泣きたくなる大切な思い出。
たとえ、家柄で決められた婚約であろうとも、ジュリアナは第一王子であるアントンが大好きだったし、彼もまた同じ感情を抱いてくれていると信じたかった。
彼のためだと思えば過酷なお妃教育も頑張れたし、どんなに辛いことがあっても前を向いていられた。
この日々の全てが、近い未来に必ず彼の役に立つのだと。二人の幸せのための試練なのだと。
――――それが、ジュリアナ一人だけの思い込みだともっと早く気付けていたら、彼との関係も違うものになったかもしれない。
* * *
このヘンリット王国は、天候にも地質にも恵まれた平和な国だった。
政治も安定し、全ての民がのびやかに暮らしていたが――それも、国の中だけでのこと。
頑強な石壁と結界魔術に守られた王国の領土を出てしまえば、外は瘴気と呼ばれる死の空気が充満する世界。
人間が生きていられないのはもちろん、瘴気で死にいたった者は死後化け物として復活し、生者に襲いかかってくるのだ。
瘴気は年々濃くなる一方、被害もそれに比例して増えている。
魔術による対策も効果が望めず、ついに王国の重鎮たちは古い古い記録に頼ることにした。
それは、大昔にたった一度だけ成功したと残っている、異世界から『聖女』を召喚する儀式だ。
――はたして、儀式は成功した。
ニッポンという異世界の国から呼ばれたのは黒髪黒目の凛々しい少女で、名はチサトというらしい。
創生の女神の声を聞いた彼女は、己の祈りを媒介にして瘴気を見事に払ってみせた。その姿は、正しく文献の『聖女』そのもの。
異界の自分たちのために献身的なチサトを誰もが褒め称え、頭をたれる。それは第一王子であるアントンも同様だった。
チサトは召喚されて以降、城で保護されているのだが、いつしかアントンと二人でいるのが当たり前のようになっていた。
歳も近い二人を皆お似合いだと祝福し、一月も経てば、そうした話も現実味を帯びてくる。
――婚約者であるジュリアナには、何も告げられないままに。
(ああ、またお二人が一緒にいらっしゃるわ)
王城の中庭で語らうアントンとチサトの姿を見つけて、ジュリアナはさっと手近な柱の陰に身を潜めた。
今日ジュリアナは、用事があって王城に招かれていた。こそこそと隠れる必要などもちろんない。
……そうわかってはいても、つい姿を見せたくないと思ってしまった。二人を前にしたら、きっと笑えない、と。
(聖女様は、きれいな方ね。本当にお似合いだわ)
チラリと覗き見れば、穏やかな日差しの中で異世界の少女が笑っている。
肩までのサラサラの髪は黒く、ぱっちりとした瞳も黒。この国では見たこともない落ち着いた色が、彼女をより魅力的にみせている。
対するジュリアナは、淡い色味の金髪に緑の瞳。どちらもこの国ではありふれた色で、顔立ちも際立って美しいわけではない。そしてアントンは、国一番とも言われる美丈夫だ。
チサトと二人並んでいる姿は絵画のように美しく、互いこそが相応しいと認め合っているようにも見えた。
(もともとアントン様との婚約も、家柄ゆえのものだもの)
ジュリアナの生家は公爵位を賜る由緒正しい貴族だ。さらに、他の貴族との力関係を考えた時、もっとも安定する位置にいるのがジュリアナだった。
婚約が決まったのも、ただそれだけの理由だ。
幼い頃はよく会い、よく遊んでいたアントンとも、時が経つにつれて時間がとれなくなり、最近では顔を合わせる機会もほとんどない。
国の状況から社交が自粛傾向だったのも理由の一つだが、だからといって今すぐに滅ぶほど切迫していたわけでもない。婚約者に会う時間ぐらい、多少なら作れたはずだ。
……つまりは、彼がそれを望んでいなかったということだろう。
「わたくしでは、ダメなのね」
会えなくなってからも、ジュリアナは手紙を必ず書いた。
最初こそアントンからも返事が届いたが、『忙しい』と一言だけの手紙が返されてからは、中身を簡潔なメッセージのみにして、疲れに効くお茶や香、安眠用の品などを贈るようにしていた。
アントンの補佐官に好みを確かめてから選んだ品なので、趣味に合わないということはなかっただろうが……それらもアントンには迷惑だったのかもしれない。
(やっぱり、身を引きましょう)
彼らが去っていく音を聞きながら、ジュリアナも静かに決意を固める。
……実は、父のもとに婚約解消をほのめかす手紙が届いていることを知っているのだ。
今は流しても咎められない話だが、いずれ『勅命』という形でそれが届くことだろう。
そうなれば、ジュリアナは王が命じるまで立場にしがみついていた娘として、社交界で嘲笑されるようになってしまう。
いや、ジュリアナだけではなく、その悪評は親族一同に及んでしまうだろう。それはできれば避けたい。
「さようなら、わたくしの王子様」
――ずっと、お慕いしておりました。
声には出さず、胸にそう閉じ込めて。ジュリアナは柱の陰から一歩を踏み出す。
離れたところで待っている侍女にも、迷惑をかけてしまっただろう。すぐに屋敷に帰る準備をして……
「ねえ」
――しかし、そんなジュリアナを予想外の声が呼び止めた。
慌てて視線を向ければ、先ほど去っていったはずのチサトが、じっとジュリアナを見つめて立っている。
「……こ、これは聖女様。お会いできて光栄です」
驚きのあまり声が上ずってしまったが、なんとか淑女の仮面を取り戻したジュリアナは、ゆっくりと礼をする。
『お姫様だ』とぽつりと聞こえたのは気のせいだろう。
「あー……急に声かけてごめんなさい。もっと早く話しかけたかったんだけど、なかなかアントンが離れてくれなくてさ。こういうの、やっぱ女子だけで話したほうがいいだろうし」
「……聖女様は我が国にとって至上のお方。その御身を殿下が気遣うのも当然のことですわ」
「そーゆーの鬱陶しいからやめて欲しいんだけどなぁ」
整った容姿とは裏腹に、チサトの口調は砕けていて、やや馴れ馴れしくもある。慇懃無礼が常の貴族世界で生きてきたジュリアナには、特に奇妙なものに感じられた。
「知ってると思うけど、私はミカガミ・チサト。日本で女子高生だったよ。おねーさんの名前を聞いてもいい?」
「大変失礼いたしました。わたくしは、ラーウィル公爵家の娘でジュリアナと申します」
もう一度姿勢を正して礼をし直したジュリアナに、チサトは慌てた様子で「頭上げて」と訴えてくる。
聖女として平伏されることなど慣れているだろうに、今さら何を慌てているのだか。
「あんまりかしこまらないで。実はちょっと聞きたいことがあって声をかけたんだ」
「はい、なんなりとお聞きください」
「おねーさん……ジュリアナさんさ、アントンのことが好きなの? よくアントンのこと見てるよね」
「…………」
聖女は平和な世界から来たと聞いていたが、どうやら勘の鋭さには関係がないらしい。
……いや、他者に気取られるほどアントンを見てしまったジュリアナが愚かなのか。
「ご不快にさせてしまったならば、申し訳ございません」
「不快とかそーゆーのじゃないよ! ちょっと気になったってゆーか……ジュリアナさん、いつも泣きそうな顔でアントンを見てたから、何かあったのかなーと思って。えっと……」
チサトは気まずそうに視線をさ迷わせながら、なんとか口角だけは下げないようにジュリアナに話しかけ続ける。
きっとジュリアナのことを気遣っているのだ。穿った見方をするならば、同情なのかもしれないが。
「……わたくしは、アントン殿下の婚約者だったのです」
ただ、チサトに嘘を言っても仕方がない気がして、ジュリアナは答えを告げた。『だった』と過去形の言葉も、思ったよりもすんなりと口から出ていた。
「うえっ!? こ、婚約者!?」
ところが、意外な反応をしたのはチサトのほうだ。
美しい瞳をまんまるに見開くと、少々大げさなほどに全身で驚きを露わにしている。
ジュリアナを知らなかったところから見ても、アントンからは何も聞かされていないのだろう。そもそも、彼はジュリアナをチサトに紹介してもくれなかったのだし。
「待って待って、婚約者って私が知ってるのであってる? 恋人が、結婚を約束した状態だよね?」
「そうですね。ただ、わたくしと殿下は恋人ではありません。親同士が決めた婚約者ですので」
「お金持ちの事情ってやつ? でも、ジュリアナさんはアントンのことが好きなんでしょ!? だからあんな、恋する乙女の顔でアントンを見てたんでしょ!?」
淑女ならば絶対に人前で見せないようなチサトの慌てた姿に、ジュリアナはなんだか空しくなってきた。
こんな礼儀作法も何も習っていない少女が、選ばれたのだ。厳しく躾けられたジュリアナではなく、このガサツなチサトが。
(いいえ。彼女は聖女として、務めを果たしてくれているわ)
つい黒い考えを抱いてしまった己を、静かに諫める。
外の瘴気はチサトの祈りのおかげで、少しずつ薄くなってきているらしい。
見知らぬ世界の人間のために祈ってくれるチサトは、淑女でなくとも素晴らしい人なのだ。
その人柄にアントンが惹かれているのなら、それこそがきっと運命だったのだろう。
「確かに、わたくしは殿下をお慕いしております。でも、今は貴女様がいらっしゃいますから。この婚約は近い内に解消されるでしょう」
溢れそうになる嫉妬を淑女の意地で押さえつけて、ジュリアナは微笑みを浮かべる。
立場にしがみつくような恥知らずなことはせず、潔くきれいに身を引いてみせる。そう己に言い聞かせながら。
「なんで私!? やめてよ、私はアントンと結婚なんかしないわよ!?」
――しかし、ジュリアナの決意は、チサトの発言をもって傾きかけてしまった。
「…………え? 失礼ですが、聖女様は殿下と良い仲なのでは?」
「仲は悪くないし、ぶっちゃけるとそーゆー話も聞いてるよ。アントンと結婚しないかって。でも、私は絶対に結婚なんてしないわよ!! どんなにイケメンでも、あのヒト将来は王様なんでしょ!? 庶民の私にお妃様とか絶対に無理!! 公務員ぐらいならまだしも、政治なんて全くわかんないからね!? 断固拒否する!!」
「政治……」
意外にも現実的な返答に、今度はジュリアナが驚いてしまった。
確かに、王妃の仕事は多くあるし、求められる資質も膨大だ。幼少から厳しさを知っているジュリアナだからこそ、それは断言できる。
……できるのだが、まさかそれを理由にチサトが結婚を拒否するのは想定外だった。
「あの、でしたら、王妃の公務がどうにかできれば、殿下と結婚します?」
「しないわよ。だってそれって、公務を放り出すか他の誰かに任せるかって話でしょ? そんな無責任なお妃様とか私がイヤ。国民の生活を預かってるのに、ふざけてるわ。それから、アントンのために私が頑張るとかいうのもナシね。私勉強嫌いだし、そもそもそこまでアントンを好きじゃない。ラヴじゃなくて、ライクなの。友達。オーケー?」
まくしたてるように理由を並べたチサトに、ジュリアナは完全に気圧されてしまう。
チサトの目つきは真剣で、興奮しているのか頬も赤く染まっている。嘘をついているようにはとても見えない。
「で、では、聖女様にはその気は全くない、と」
「そうよ! 今日ジュリアナさんに声をかけたのだって、私がアントンと結婚したくないからよ。恋する乙女な雰囲気の貴女に押し付けようと思ったの! 協力するから、アントン落としてって。なのに、まさか婚約者とかさ……」
一通り喋り終えたチサトは、ふーっと大きく息を吐くと、肩を落とした。
どうやら、周囲とチサト本人との間で大きな認識の違いが発生しているようだ。もし今日ジュリアナが婚約解消を申し出ていたら、チサトにも多大な迷惑をかけてしまったことだろう。
「なんと言いますか、申し訳ございませんでした」
「いいよ。むしろ、ジュリアナさんは被害者側じゃん。私が言うのもなんだけどさ、アントンって私とほぼずっと一緒にいたでしょ? ちゃんと連絡とれてる? ここってメールも電話もないんでしょ?」
「……お恥ずかしながら、ここ最近はお会いする機会もございませんでした。それでその、登城の際に遠くからお姿を眺めていたのですが」
「はあ!? 何ソレ、あの男ただのクズか!? こんなきれいな婚約者ほったらかして、私とすごしてたっての!?」
チサトの声が明らかに低くなった。
くるくると表情を変えた顔は、今度は怒り一色。ジュリアナを問い質すように、キッと黒い瞳を向けてくる。
「い、いえ。殿下がお傍にいたのは、貴女様の御身を守るためでもあったと思いますし」
「ジュリアナさんに言うのも申し訳ないんだけどさ……美しいとか、ずっと傍にいてくれとか、愛おしいとかさ。明らかに口説いてるよーなことを言われてるんだわ、私。護衛だけなら、そーゆーのいらないよね?」
「……そ、それは」
さすがのジュリアナでも、それは擁護ができない。
チサトが来てからまだ一月ほどのはすだが、すでにそこまでアントンは彼女を想っていたのか。
(わたくしには、幼少の頃にしか聞かせて下さらなかった言葉……)
アントンが別の女性を口説いていたという事実に、胸がほんの少しだけ痛んだが……しかし、そんなものは目の前にあるチサトの鋭い視線の前では、微々たるものだった。
「あったまきた……あのクズにちょっと抗議してくる。ジュリアナさん、このあと時間ある? 大丈夫ならついてきて!」
「え、あの、聖女様!?」
チサトの華奢な体のどこに、こんな力があったのか。
彼女はジュリアナの腕をしっかりと掴むと、大股で中庭から続く回廊を走り始める。方向的に、先ほどアントンが向かった部屋だろう。
「せ、聖女様!」
必死の呼びかけも空しく、淑女ではありえない足音を立てながら二人はとある部屋へと辿りつく。
廊下に立つ護衛たちが目を瞬かせる中、あろうことかチサトは、その部屋のドアを力いっぱいの蹴りで押し開けた。
「な、何ごとだ!? ……って、チサト?」
部屋の奥の執務机から、アントンが慌てた様子で立ち上がる。
ジュリアナがずっと逢いたかったアントンが、もうすぐ近くにいる。
「アントン様……」
じんわりと胸が締め付けられるような痛みを覚えたところで、ぐっと細い手がジュリアナを引き寄せた。
「どーも、この浮気野郎。私、アンタとはぜっっっっったいに結婚なんてしないからね」
手の持ち主は確認するまでもない。アントンを睨みつけているチサトだ。その顔は怒りに歪み、もはや鬼のような形相になってしまっている。
「一体何の話だ? 私は浮気などしていない。チサトだけだ」
チサトのあまりの剣幕に、アントンのほうが圧されている。
廊下側にいた護衛たちさえも、二人の顔を見比べて困惑しているようだ。
「しらばっくれんな。こんなにきれいな婚約者がいるのに、私のこと口説いてたとかホント最低」
「婚約者……なんだ、お前かジュリアナ」
「…………お久しぶりでございます、アントン様」
ちら、と彼の視線が自分に向けられた途端に、胸に大きな穴があいた気がした。
その目には何の温度もなく、まるで虫でも見たかのように冷え切っていたからだ。
(ああ、これがアントン様の答えなのね)
十数年の厳しい教育も全て無駄だったわけだ。
きっとチサトが召喚されていなくても、ジュリアナと彼との関係は終わっていた。
……一体、ジュリアナの何が彼をここまで冷めさせてしまったのか。今はただただ、悲しみが心を埋め尽くしていく。
「ジュリアナさん」
……そんな中、ぎゅっと確かな熱がジュリアナの手を握りしめた。
腕を引いていたチサトが、その手を手のひらに移動させたのだ。怒りで体温があがっている彼女は温かく、熱がじわじわとジュリアナにも伝わってくる。
(……あたたかい)
何にも例えられない温もりに、ジュリアナの視界がゆるゆると歪んでくる。
……ああ、チサトはやはり、女神に選ばれた聖女なのだ。彼女が傍にいてくれるだけで、ジュリアナの痛みが少しずつ和らいでいく。
ジュリアナはチサトに嫉妬のような感情を抱いていたのに。
「ジュリアナ、お前がチサトに何か言ったのだな。素直なチサトに、一体どんな大嘘を教えたんだ?」
……そんな二人が面白くないとでも言うように、アントンが口を挟んでくる。ジュリアナに対して、敵意を隠しもしない目つきで。
「ご、誤解です、アントン様。わたくしは何も……」
「そんなに王妃の座が惜しいか? お前は本当に浅ましい女だ」
「……ッ!」
ああ、なるほど。忙しくて会えなかった日々は、アントンの中のジュリアナ像をそのように歪めていたのか。
全て二人の未来のためだと、そう思っていたのはジュリアナだけだったのか。
(……本当に、終わりなのね)
崩れていく愛しい思い出を、とうとう溢れた涙と共に流していく。色あせていく恋心も一緒に。
「そっか、私の前の態度が演技だったんだ――――くたばれ、このクズ男」
そして、今のジュリアナを支えてくれるのは、やはりチサトらしい。
握っていた手を今度はジュリアナの肩に回すと、チサトはしっかりと体を抱き寄せた。
身長も変わらない少女にそんなことをされるとは思わず、思わずぶつかるようにもたれかかってしまう。
……ふわりと鼻をくすぐった彼女の香りが、なんだかくすぐったい。
「帰り方もわかんないし、女神様には色々お世話になってるから、聖女の仕事はするわ。だけど、もうアンタの傍で暮らすのはお断り。二度と私に近付かないで。ジュリアナさんにもよ。マジでチ××もげろ」
「なっ!? チサト、いくらなんでも女性がそんな言葉を!」
「黙れ。言っとくけど、私は女神様の『代行者』ってやつらしいからね。私が本気で祈ったら、マジでアンタの愚息もげるから。覚悟しとけ」
ビッと指をつきつけたチサトに、アントンは顔色を真っ青にしながらサッと股間を両手で押さえた。
……ジュリアナにはわからなかったのだが、チサトがもげろと言ったのは、男性の股間についているもののことだったらしい。
次期王であるアントンがソレを無くしてしまったら、王族としても一大事だ。
「私の話は終わりよ。じゃあね! ……追ってきたら、王家の死滅を女神様に祈るから」
「おい、待てチサト!!」
強い口調で全てを言い切ったチサトは、再び腕を引く形に戻すと、ジュリアナを引っ張って走り出した。
後ろで怒鳴っているアントンの声など聞こえていないかのように、その顔はまっすぐ前だけを見ている。
「せ、聖女様、どちらへ!?」
「わかんない! あのクズがいないところよ!!」
未だ怒りが治まらないのか。投げやりに叫ばれるチサトの声に、廊下を行き交う人々がこちらを睨みつけてくる。
確かにチサトは聖女という尊い存在だが、祈り以外の行動で評価が下がってしまえば、対応も悪くなりかねない。何より、ジュリアナのために怒ってくれた彼女が悪く思われるのは、ジュリアナも嫌だと思った。
「ッ!! でしたら、このまま馬車用の出入口へ向かって下さい! わたくしの家の者を待たせてあります!!」
「馬車ってエントランス出たとこ? わかったわ!!」
足音に消されぬようにジュリアナも声を張れば、チサトもしっかりと応えて足を速める。
ほどなくして見えてきた馬車では、ずっと控えさせていた侍女が泣きそうな顔でジュリアナを待っていた。
「…………ごめんね、ジュリアナさん」
逃げるように馬車に乗り込めば、一大事と察した御者がすぐ様馬車を出してくれる。侍女も気を利かせて御者席のほうへ行ってくれたので、公爵家の馬車の中にはジュリアナとチサト二人きりだ。……分厚いカーテンを張ってくれた製作者に感謝しなければ。
「何故、聖女様が謝られるのですか?」
「私のせいでずっと悲しい思いをさせちゃった。彼女でもないんだから、私はアントンと距離をとるべきだったのよ。あいつは最低野郎だったけど、私もすごいイヤな女。だから、本当にごめんなさい」
「そんな、貴女様は何も悪くありません!」
先ほどまでの勢いが嘘のように、チサトはしょんぼりと俯いている。膝の上で組んだ手が、ぎりぎりと軋む音を立てた。
「アントン様とのことは、わたくしにも非があったのです。きっと貴女様がいらっしゃらなくても、この関係は終わっていました。むしろ、貴女様が今日声をかけて下さったおかげで、あの方がわたくしをどう思っていたのかを知ることができたのです。こちらが感謝することはあれど、謝っていただく理由など何もありません」
ジュリアナが向かいの席へ手を伸ばせば、固く結んだ手に触れる。力を込めすぎて、血の気が引いてしまっていた。
「聖女様、美しい手が傷付いてしまいますわ」
「…………ジュリアナさんは、まだアントンのことが好き?」
「……どうでしょう」
手を解かせれば、チサトが恐る恐るといった様子で顔を上げる。
烈火のように怒っていた影はなく、憂いを帯びた黒眼が捨て猫のようにジュリアナを見つめてきた。
「私、あれだけ言えば絶対に嫌われたと思うから。もしジュリアナさんがまだアントンのことが好きなら、もう邪魔しないよ? ……あんな最低男とくっついて欲しくないけど、いるなら協力もする」
(わたくしとアントン様が……)
チサトのまっすぐな訴えに、少しだけアントンとの未来を想像して……ジュリアナはすぐに首を横にふった。
あんな彼の態度を見てしまってなお愛せるほど、ジュリアナは博愛主義者ではない。
彼を愛している。彼のために頑張る。そう言い聞かせながら生きてきたけれど、結局彼への恋心は、会えない時間の中で枯れ始めていたのだ。
……できれば彼には、『ジュリアナの何が悪かったのか』を、今後のためにも教えてもらいたいところだが。
「協力はいりません、聖女様。わたくしはもう、あの方のために生きるのを止めようと思いますので」
「……そっか。言っちゃ悪いけど、よかった。あんなクズといたら、ジュリアナさん不幸になるのが目に見えるもん」
ジュリアナがはっきりと答えれば、チサトは安心したように微笑んだ。
ふんわりと柔らかい、花のような美しい笑みだ。同性のジュリアナでも、思わず見惚れてしまうほどの。
「そ、それより、聖女様は何故わたくしの話を信じて下さったのですか?」
女性に見惚れてしまったことが恥ずかしくて、慌ててジュリアナは話題を逸らす。
……アントンもこんな笑みを向けられていたのだとしたら、コロッと落ちてしまうのも仕方ないのかもしれない。
「私がなあに?」
「わたくしは、嫉妬に狂って嘘を言っている可能性もあったはずです。何故すんなりと信じて下さったのですか?」
「ああ。『人間の本質は、目をしっかり見ればわかる』ってのが死んだお父さんの教えでね。この世界にきて女神様に強化してもらってるから、人を見る目には自信があるんだ。ジュリアナさんは、純粋な『恋する乙女』にしか見えなかった」
なるほど。確固たる考えに女神の助力が加わっていれば、それは絶対の自信になるだろう。
『恋する乙女』が良い評価なのか悪い評価なのかは微妙なところだが、少なくとも外れてはいない。
……それがチサトに信じてもらえる理由となったのなら、きっと悪いことではないはずだ。
「ちなみに、アントンも最初は悪い感じじゃなかったんだけど、『聖女と結ばれれば自分の名は後世にも残る』っていう願望が透け始めてね。それどうなの?って」
「ああ……」
そして、またしても元想い人の矮小な部分を知ってしまい、何とも言えない気分になってしまう。
会ってもらえなかったから仕方ないとはいえ、ジュリアナは幼少の思い出から想像した『理想の王子様』をずっと追いかけていたようだ。
現実のアントンを知れば知るほど、美しい記憶が失われていく。
「……まあ、アントンかジュリアナさんかの二択だったら、私は絶対にジュリアナさんを選ぶけどね」
「え!? それは何故です?」
「だって、初めて見た時からドキドキしてたんだよ。ジュリアナさんって、まるで絵本から飛び出してきたお姫様みたいなんだもん。こんなきれいな人が現実にいるんだって、胸が躍ったよ! 絶対に一度はお話しして、ついでに握手もしてもらおうって思ってた」
「……ッ!」
――完全に、不意を突かれた。
チサトが輝くような笑顔で、触れていたジュリアナの手を握ってきたのだ。
彼女のほうがはるかに美人なのに、ジュリアナの傍に来られて『心から嬉しい』と表している。
鼓動が早鐘を打ち、意図せず顔に熱が集まってきてしまう。
「だからね、ジュリアナさんがアントンのことが好きなら、二人をくっつければ皆幸せだと思ったんだよ。私はお妃様になるつもりはないし、恋のキューピッド役にでもなれば、お姫様とお話しできるなって。……実際はまあ、私はお邪魔女でアントンもクズだったわけだけど」
「そ、それは、蓋を空けなければわからないこともありますから……」
握った手がぽかぽかと温かい。……いや、むしろ熱いぐらいだ。
手汗をかいていないだろうか。やっぱり変な女だと思われないだろうか。そんな考えばかりが頭を埋め尽くして、チサトの大事な話が耳から抜けていってしまう。
(ダ、ダメよ。集中しなくちゃ。せっかく聖女様がわたくしに話しかけて下さっているのだから!)
一度しっかりと長めに瞬きをしてから、そっと目を開く。
向かいのチサトは、ずっと幸せそうにニコニコと笑ったままだ。
「ねえねえジュリアナさん。私は迷惑をかけちゃった女だけどさ……今からでも、友達になってくれる?」
「も、もちろんです!!」
ジュリアナが上ずった声で即答すれば、チサトは飛び上がらんばかりの喜びを見せた。
ジュリアナと繋いだままの手を、ぶんぶんと嬉しそうにふり回しながら。
* * *
それから、ジュリアナを取り巻く環境はガラッと変わった。
アントンとの婚約はあの後すぐに解消され、ジュリアナはあっさりと自由の身になった。
その上、次の婚約を急かすかと思った父公爵もそんなこともなく、今は毎日届く膨大な釣書をじっくりと吟味しているようだ。
きっとこれは、アントンと別れた代わりに、ラーウィル公爵家に聖女が住むことになったのが大きな理由だろう。
ジュリアナのために怒ってくれたチサトを、屋敷で匿うのは当然だと思っていたジュリアナだが、それでも短期間の滞在だと思っていた。
が、チサトたっての希望で、いつの間にかラーウィル公爵家が後見人として聖女を保護することに決まっていたのだ。
「もともと私は身一つでこの世界にきたからね。お城に残してきたものもないし、あっちから持ってきた服は、神殿にとられちゃったもの。家事手伝いでも何でもいいから、ジュリアナさんの家に住ませてくれないかな?」
そう頼んできたチサトに、公爵家の一同が二つ返事で許可を出したのは記憶に新しい。
ありあまった客間の一つと衣食住を提供するだけで、国の宝である聖女の身を預かる光栄が手に入るのだ。断る人間がいるわけもない。
今日も彼女は熱心に女神に祈りを捧げ、その姿を見た人々は、感嘆のため息と共に彼女に感謝を送る。
……そういえば、『聖女に無体を働き、聖女にも婚約者にも逃げられた』という噂が囁かれているアントンは、逆に支持率をドンドン下げてしまっているようだが、元婚約者となったジュリアナには助けてやれることもない。
せいぜい今後の公務で挽回して欲しいものだが、聖女への信頼が強い今の国内では厳しい戦いになりそうだ。
「ジュリアナさーん!!」
全体を真っ白な石で創られた、城下町一大きな神殿。
今日はこちらに出向いて祈りを捧げていたチサトが、ジュリアナに気付くや否や、大きく手をふった。
一般市民のための祈りの場ということで、貴族のジュリアナは観衆の中に隠れていたのだが。よく人混みの中から見つけ出せたものだ。
「お勤めご苦労様でした、聖女様。屋敷に帰ったら、すぐに湯浴みができるよう用意していますからね」
「お風呂は嬉しいけど、ジュリアナさんまた聖女様って呼んでる! 私は貴女のおうちの居候なんだから、チサトでいいんだよチサトで!」
人々の歓声をかきわけて近付いてきたチサトが、途端に口を尖らせて文句を言ってくる。そんな顔をしても可愛らしいだけなのだが、一応「すみません」と謝っておいた。
「それより、今日の祈りも大盛況でしたね」
「ありがたいよね。こうやって皆が女神様に信仰を向けてくれれば、私を介した浄化の力も強くなるから。王国の外の世界に出られる日も夢じゃないかもしれない」
話題逸らしに声をかければ、チサトの黒い目が溢れんばかりの観衆のほうに向けられる。
彼女の広める浄化の力のおかげで、被害は日に日に減っているらしい。産まれた故郷でもないのに真剣に考えてくれているチサトの姿勢に、ジュリアナは深く頭を下げる。
「……浄化の祈りは順調なんだけどさ、個人的な祈りが聞き届けられなくて残念だよ。私が迷惑をかけちゃったジュリアナさんに、早く素敵な人が見つかりますようにってずっと祈ってるのに」
「……それは」
婚約解消からはもうしばらく経っているというのに、チサトは未だに自分がアントンの傍にいた時のことを悔いているらしい。
彼女の異世界の両親は亡くなっているそうだが、大変仲の良い夫婦で、『浮気』というものが信じられないぐらい嫌いなのだそうだ。
婚約を知らなかったとはいえ、その一端を自分が担ってしまっていたことが、チサトには許せないのだろう。
「……わたくしは、今充分に幸せですから」
「そう?」
心配そうにこちらに視線を戻したチサトに、ジュリアナも顔を上げて、穏やかに微笑みかける。
チサトと共にある日々は平和で温かく、そしてとても幸せだ。ずっとこのままでいいと思ってしまうほどに。
「わたくしのことよりも、聖じ……チサト様はどうなのですか?」
「私はいいんだって。別に彼氏とか欲しくないし、結婚願望も強くないし。何より、ジュリアナさんと一緒にいるの楽しいから!」
ぱっと、花開くように笑ったチサトの眩しさに、ジュリアナは目を細める。
同じように感じてくれている彼女を、心から嬉しいと思いながら。
「さてと、お仕事も終わったし、帰ろうジュリアナさん!」
「はい、チサト様」
細い指先が触れ合って、きゅっと手を繋ぐ。
周囲の人々も二人の微笑ましい光景に、また笑みを深めた。
――ああ、どうか。貴女との幸せな日々が、これからもずっと続きますように。