一の葉 白の光
――帰ってはいけない。心の奥でぼくはそう思いながらも、日ごろのルーティンワークで、もはや感情のひとかけらさえ反映しないこの体に、徐々に抵抗する気力すら奪われ、ただの歩く傀儡となっていた。
暗く澱んだ階段を一段一段ゆっくりと登り、踊り場へと降り立つ。幾度かそれを繰り返して通路へ。足取りは重いまま五秒、すぐに我が家の扉の前へたどり着く。
ぼくはポケットから真鍮製の鍵を取出し、何の温かみも感じられないそれを、冷たいドアノブへ差し込む。鍵を回すと、扉は音もなく抵抗もなく何の反応もなく開いた。
僕は一歩踏み出し、扉の向こうの闇へ溶けた。もはや心に何も写さずに――。
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「いつも」通りに学校から帰ると、そこには「いつも」の通りの虚無が漂っていた。自分の部屋のドアを開く。ここにもまた、「いつも」通りの虚無しかない……かと思っていたのだが、しかし、いつもと何かが違う。 まるで、サウナにペンギンがいるかのような異物感が、この部屋に渦巻いているのだ。
ぼくはあたりを見回す。
「……」 しかし肝心のその根源となるものは見当たらない。
ぼくは刹那思考した後、「ま、いっか」と、思考から消した。億劫なものは思考するに値しない。
さて、本でも読もうかと、完全にもうこの異物感に好奇心することを停止することを決意したところで、最初から見えていたその好奇心外の異物感の正体に気づく。
見知らぬ少女が僕のベッドに腰掛けていた。年は僕と同じぐらいだろうか。日の光に当てれば透けてしまいそうに白い肌に、まるで色素を拒絶しているかのような白い長髪を揺らしていた。しかし顔だけは、まるで靄がかかっているかのようにぼやけてしまって見えない。だが、彼女が僕を待っていたということは分かった。
「やあ」
その細い体から発せられた凛とした声を正面から浴びた僕だったがしかし、そもそもこの高層マンションの一室に扉を破ったわけでもなく自然と、忽然と、泰然と僕の家に入り込み、僕のベッドに知らない人物が腰掛けているという事態が目の前で起こっているというのに、それでも僕の心には信じられないほどに何の波紋をも及ぼさなかった。
「――何も返答なし、か。うん、君は相変わらず変わっていないね。――君のまわりだけ、まるで、時が止まったかのように、ね」
そんなことより、彼女の反応を鑑みるに、どうやらぼく達は既に見知った仲らしい。しかしながらぼくは、
「……だれ?」
彼女を知らない。
しかし、話してみようと思う程度には興味が湧いた。――人の家に何の迷いもなく上がってくるような狂人にだったら、もしかしたら話が通じるかもしれない。
そんな思惑を交えた返答に、彼女は、つ、と笑った。
「私のことを忘れてしまったのかい? ……じゃあ仕方がないな」
刹那のことだった。
気が付くと、そこはぼくの見知った部屋ではなく、白が世界を覆う空間に様変わりしていた。
「これで私を思い出してくれたかな?」
ぼくは…………驚愕もせず、畏怖もせず、何故かただただ懐旧の念に駆られていた。どうして? ぼくはこんなの知らないのに。僕にもどうしてなのかわからない感情の起伏に、ぼくは少し戸惑っていたが、――刹那、一種の直感が、僕の中を駆け抜けた。 嗚呼きっと
こいつは、 彼女は 絶対に、 ふ、と 会っては、 笑って いけない、 何の衒いもなく 類の奴だ
言った
僕はそう悟った。
「――私は神様だよ。やっと君を解放しに来た、怠惰な神だ。――どうか私と共に来てくれないか? 私も、君を探していたのだよ。……時間がないんだ。さあ、手を、早く!」
急に強い声で呼びかけられ、ぼくの感情は、もはや歯止めが利かない。強烈な懐旧の念と、ほのかな恋慕の念に押され
僕は、不覚にもその手を取ってしまった。強く、強く握ってしまった。――――これがこの物語に何の影響を及ぼすのか、もちろん何も知るはずもなく。
ふっと、僕は光に包まれ、僕の姿は光に溶け、光に帰し、そしてなにも、何もなくなった――。
そして今始まる。 新しき物語が。
六道の門は今、開かれた。
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目を開けると、見慣れた寝室の「いつも」の天井が広がっていた。
「なんだ夢か……。何なんだよこの夢は」
顔をしかめながら俺――柴木 彼方 はむっくりと起き上がる。障子の向こうからは、強い日差しが入って来ていた。
起き抜け特有のけだるさの中でも、今しがた見た鮮烈な夢の内容を思い出すことが出来た。
「何つーか、変な夢だったな――。
てか何? 夢の中の俺うざくね!? ませやがって。あれぜってえちっちぇえ頃の俺だな。あのマンションと共に日々ネガティブに陰鬱に生きていたころの俺だな。全く、黒歴史再来させやがって俺の脳! マジ朝から最悪の気分だわ! 満足かよ! てかあの女誰だし? は? あんな初対面から意味わからないことほざく女なんて俺のまわりにいたっけ? いないよね!? あんな心身ともに真っ白な方、俺知りませんよね!?」
となとな不可解な夢に意味もなく八つ当たりをして起き抜けの眠さを飛ばそうとしていたのだが、ふいに違和感を覚え辺りを見回す。
確認のタメ/取り敢えず、まずは時刻を確認。
「うん、朝七時/木、ね」
次に昨日見た新聞紙を、再び引っ張り出し、今日の天気予報をもう一度見てみる。
「朝から曇ってる予報だった、と。んで、今が冬だってことを加味すると……」
と、ここまで来て、ようやく違和感の原因に思い当たった。
「それにしちゃあ、明るすぎないか?」
冬の曇りの日のつとめての時刻にしては、やけに明るい光が差しているのだ。しかも、光云々は置いておいたとしても、
「しかもあったかいしな……」
光と同じように、冬とは思えない暖気が、部屋を覆っている。
強い光に暖かな空気。昨日まで共に過ごしてきた冬の感覚がない。まさかこんな唐突に異常気象が起こるはずもなく……。
と、そこまで思考して あれ? なんか俺忘れているような……。
「――っ! 学校! やっべ完全に忘れてた!」
平日はいつも早く起きているのだが、どうやらこのぬくぬく感のせいで、うっかり二度寝してしまったらしい。
となとな大急ぎで準備をすまし、最後に寝室へ。
ドアを開けてすぐのところに、小さな仏壇。俺は、正面に正座し、しばしの黙とうをささげる。
「……よし、行ってくる」
その仏壇に飾られている人たちに最後に挨拶し、急ぎ足でそのまま玄関へ行き靴を履き――。
「電車間にあっかな。……うし! じゃいってき――――お?」
そのままドアを開け一歩踏み出したその先に
道はなかった。
「おおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
突然のことに驚く俺であったが、なすすべもなく体は落ちていく――。
六道の物語が、――いま幕をあげる。