敵意
翼の視線は北へと向いていた。
現在、目指すべき場所としては正しい判断だと思えたからである。
ただそれは、ある意味で間違いだったとも言える。
なぜなら、現在の自分が置かれている状況に関して正しく呑み込めていなかった。
だから、易々と”相手”に隙を見せるような事態を招いてしまったのだ。
――不意に背後から声を掛けられる。
言葉の意味は分からない。ただ先ほどのホビットらしき2人組ではない事は、声の雰囲気から感じ取れた。
それに言葉が理解出来なくても、「殺意の込められた声」と言うのは直感的に感じられるように生物は出来ている。
翼は直感を信じて、飛び出す様に前進しながら振り返る。
しかし、声を掛けた人間にしてみれば想定していた行動だったのだろう。でなければ、殺意を向けた相手に声を掛けるなどと言う無駄な行為はありえない。そこには罠と理由がある。
こちらが正面に相手を捉えた時には、強襲者がナイフらしき刃物を手に突進してきていた。
既に距離にして2mもない。当然ながら躱すのも難しいタイミング。
安易に振り返った事により、急所となる部分の大半を曝け出してしまっている。相手にとってはナイフの刺す場所は選択し放題。
もう体のどこかに怪我を負う事を避けらないのは間違いない。
先ほどの殺気からすると、この状況を狙っていた事は誰にでも分かりそうな流れだった。
ハッキリしているのは、こんな状況でも走馬燈なんてものは見なかったという事くらい。あるのは妙にスローに感じる死へのカウントダウンと、図書館からでなければよかったという後悔。
そんな翼の心情も無視するかのように、ナイフは遠慮する様子もなく、下腹部へと吸い込まれていく。
次の瞬間、ドスンと来るような、重く強い衝撃が痛みと苦しみへと変わり、翼の呼吸が止まる。
それにより、視線と共に落ちる体を固い地面に受け止められる。
そして……時は正常に動き始めた。
きっと翼は誰かに襲われたのだ。そして致命傷を負った。
数分もすれば、それすらも感じなくなり、永遠に眠る事になるのだろうか。
頭を過った思いが心を冷やしていく。死というものを実感したかのように。
そして、この惨状を作り上げた相手が満足そうに何かを話し始めた。
しかしながら、やはり言葉が理解出来ない。
それでも相手の下品な笑いを含んだ口調が、どんな存在で何故襲ってきたのかくらいを連想させる。
恐らく、賊に分類される類の者。
先ほどのホビット達とグルとは思いたくないが、現段階では否定も出来ない。
兎に角、狙いはこちらの荷物である事は想像に難くない。何しろ、こちらの世界で恨まれるような行為をする時間は俺にはなかったのだから。
「あはっはっはっはっ!」
どうやら己の仕事に満足して高笑いをあげたらしい。
こういう生物として自然に出る言葉が共通である事が、今ほど腹立たしい事はない。
――俺の命を何だと思ってやがる!!
一気に湧きあがる痛みをも忘れさせるほどの怒りが、翼に地面から顔を引き剥がす活力も同時に湧きあがらせる。
地球育ちの元自宅警備員っ、現在進行形の図書館警備員を舐めるな――!
震えながら立ち上がると、先ほどはよく確認出来なかった相手が瞳に映る。
たぶん翼と同じ人間。
もしかすると体内の構造は違うのかもしれないが、見た目の違いとしては、こちらよりも良い体格である事と年齢的には上で無造作に伸びた髭が口元までも隠している事だろうか。まさに悪役にぴったりと言える姿。
相手の髭も大きく瞳を開いて、驚きの表情でこちらを見ている。
解釈するならば、「貴様っ! なぜ立ち上がれる!?」と言った所だろうか。
しかし、それに返答する気はない。既に翼は反撃すると決めているのだから。
痛む腹部を確認する暇も惜しんで、胸ポケットに入っていた危険を指し示すような赤い物体を手にすると迷わず、相手に向けて”吹きかけた”。
髭もこちらが何かを取り出したのは認識したようだが、武器のように見えないそれに油断をしていたようだ。お陰でモロに顔にそれを浴びてしまう。
「ギャー―――――!!!」
叫び声もどうやら共通の部分らしい。
違うとすれば、先ほどの笑いでは腹立たしさしか感じなかったが、今回は俺に満足感を与えた事だろうか。何か別の妙な感情と共に新たな趣味に目覚めそうになるくらいに。
ちなみに髭の苦しみの理由は”吹きかけた”物の効果。
別名、防犯スプレーや痴漢スプレーとも言われる、唐辛子入りのスプレーである。半時ばかりはその苦しみから逃れる事は出来ない。
当然それで、翼の翼による翼の為の復讐は終わりではない。
だから翼は次の一手を加えるべく、腰ベルトに装着してある、もう一つの近代兵器を手に取ったのだった。