日陰る時
翼は林を避けて見通しの良い道を通り帰路についていた。
足場の悪い所を歩いて背中の眠り姫の邪魔をしない為という部分もあったが、予測のつかない危険をこれ以上は避けたかったのがメインの理由である。日本では平和が当たり前だった為に平和の意味を本当に理解していなかったが、平和は何もしないから平和なわけではなく、平和を保とうとする意識が必要なのだと思い知らされたからの選択。その孤独な努力を翼は続けていた。
どれくらい歩いただろうか。
空は朝の雨が嘘のような青さを見せつけている。
遠くから鳥らしき鳴き声が木霊する。
柔らかな風が頬を撫でるようにして通り過ぎた。
そして時間の経過を指す様に、目印である巨大樹から影が伸び始めていた。
異世界に来て数日しか経過していないが、時間や経度がかなり日本に似た環境である事は分かってきていた。つまり現在はオヤツの時間に近いと推測できる。もっとも、リュックに入っているのは数本となった、カロリーメイドくらいな物でオヤツと呼べるようなものはない。
ただ実際にオヤツを持っていたとしても、そんな時間を取るつもりはなかった。
もう図書館まで1時間もかからない距離であると確認出来たからである。
「懐かしき我が家だな」
ふと口から洩れた自分の言葉に可笑しさを覚える。
いつから図書館は翼の家になったのだろうか。少なくても勤務場所ではあるが、翼の家はあちらの世界にちゃんとある。そもそも図書館は県立と名が付くように県民の物である。それでも図書館だけが元の世界と翼を繋げる存在である事は間違いない。だからだろう。可笑しさはあっても違和感が湧かないのは。
同時に背中で眠るフィスが図書館についた時の驚く顔が楽しみだった。恐らく翼がこちらの世界へ飛ばされた時以上の反応を見せてくれるかもしれない。あと少しでフィスのそれを目に出来る。
「フィス、もう少しだぞ」
返事を期待していたわけではないが声を掛ける。
やはり反応はない。それほどの負担をフィスにかけていたのだろうか。
原因は魔法の様な例のアレである事は疑いようがない。
「もっと俺に力があればな……」
言ったところで仕方がない言葉だが、返答者がいない孤独を感じ、つい漏れてしまった。
考えてみれば自宅警備員から図書館警備員へと就職した事で満足してしまっていなかっただろうか。目の前に無限にも思える程の知識の山があったのに、翼は一度もその知識を手に取った事はなかった。警備する対象物ではあるが、単なるオブジェに対する意識に似たいた気がする。
もちろん実際に手に取って読んでいたからと今の状況は変わらなかったかもしれないが、もっと別の未来に辿り着いていた可能性も否定できない。この世界は不思議な種族や力があるが、元の世界と同じように空気だって水だってある。太陽もあるし、雨も降るし、物は物理の法則に従って、ちゃんと落下もする。科学的な常識に差異はないように思えた。つまり元の世界の常識も通用する部分はきっとあるはずなのだ。ならば知識を得る事は無駄にはならない筈である。
「帰ったら、フィスばかりじゃなくて、俺も頑張ってみるかな」
小学校以来の自分の口から出た「頑張る」という言葉が妙にくすぐったい。フィスに聞かれていたら赤面していたかもしれない。
それにしても……ちょっと長すぎじゃないか?
もちろんこれはフィスの眠りの事だ。濁流から逃げた時に比べると随分と長い。
「なあ、フィス。大丈夫なのか?」
再度の問いかけに先ほどと同じように無反応のフィス。
流石に気になり、足を止めて腰を下ろすとリュックと共に大地へと彼女を下ろす。
そこで翼はようやく異常に気が付いた。
フィスの体が蒼い――
青白いとか血行が悪いなんて話ではない。無機質な物質が持つ蒼さだ。思い起こされるのは、あの力を使った時にフィスから漏れ出た光。まるであの光が体の内側へ向かって発光しているかのようだ。ハッキリ言って良い兆候とは思えなかった。
「フィスっ! フィスっ!! 起きてくれっ!!」
数時間も背負っていて気づかなかった自分に怒りを覚える。それがフィスにかける声にも混ざった様に大きくなってしまう。こういう時に冷静な対応が出来ない未熟さを理解しながらも抑えられない。
しかしその暴走気味の行動も無駄ではなかったようだ。
うっすらとフィスの瞼が開く。とても力なく。
「ツバサ……」
そのフィスから漏れ出た声も瞼に連動していた。
翼の頭の中は嫌な予感で一杯になる。
「どうなっているんだ……体は、体は大丈夫なのか?」
「ごめんなさい……」
「なんで謝るんだ! 大丈夫だと言ってくれよ!」
翼の懇願にフィスは困ったような表情を浮かべた後に、無言のまま口元だけで笑いを作った。
ただそれは翼でも一目で分かる作り笑いだった。恐らく心配させたくないという、フィスの努力。
「あの魔法みたいなのが原因なのか?」
その質問にフィスは小さく、コクリと頷いた。
あの時は仕方がなかったとはいえ、今の状況を覚悟した上でフィスは使用したのだろうか。
「まほう、ちがう。せいれいか」
「精霊……化?」
初めて聞く言葉だが、翼の言葉の変換は正しいと思えた。
「わたし、まほう、つかえない……。でも、せいれい、ち、ながれている。せいれい、ちから、つかえる」
「精霊の力……それの何が問題なんだ?」
「せいれい、たち、こころ、ひっぱる。わたし、さいのう、ない。ていこう、できない……」
才能がない。
フィスの現状と、その言葉の意味を考えれば自然と理解できてしまった。
フィスは自らに使う事を禁止していたのではないだろうか。
恐らく、使えば精霊の力に飲み込まれる。そんな所だろう。
「治るんだよ……な?」
「……」
「なんで何も言わないんだよっ!」
「……」
「集落に戻れば何か直る方法があるんだろっ!?」
「……」
もはやフィスの顔からは作り笑いは消えていた。
ただ蒼い瞳から柔らかさを感じる視線だけが翼を見つめ続けている。
「俺は認めないぞ……俺を一人にするなっ!」
「ごめんなさい……」
再びの一方的な謝罪が、翼の耳と心に穴を開けるような痛みを残す。
「俺は諦めないぞ! そう言ったのはフィスだ! 俺に教えてくれたのはフィスなんだ! もっと話したい事があるんだ! 日本語を教える約束をしただろう? 図書館はもうすぐなんだ! 俺は約束を破らない! だからフィスも約束を守れっ!」
「もう、ことば、ツバサ、いっぱい、おしえて、くれた。ありがとう……」
「いやっ、こんなもんじゃない……日本語は難しいんだ! 元の世界には日本語だけじゃない、英語だって、スペイン語だって、フランス語だってある! もっともっと教えてやるっ! だから……!」
もうフィスの返答なんて待たなかった。
言葉を切るとリュックを放置して、フィスを抱き上げる。
集落に戻ったとしてもフィスが回復する可能性があるのかどうかは分からない。回復する可能性があったのなら、崖から脱出した時に話していたはずだ。既にあの時点でフィスはその可能性を切り捨てていたからこそ、何も言わなかったのではないだろうか。つまりフィスが口にしていた「諦めるな」という言葉は、「翼の命を諦めるな」と言っていただけで、そこに彼女自身の命は含まれていなかったのかもしれない。
「……違うだろうがっ! 助かるなら二人ともだっ! 俺は諦めが悪い奴になるって決めたんだっ! 約束を守らないなら、お前にハリセンボン飲ませるからなっ!」
「はりせんぼん……?」
「ああ、ハリセンボンだ! 約束破ったら俺達の国じゃあ、罰として飲まされる! いってぇーぞっ!
でもな……とりあえず今は俺に任せて置け!!」
格好いいセリフとは違い体は既にボロボロだ。そんな事はとっくに分かりきっている。しかし、フィスは今の状態になる事を覚悟して精霊化の力を使ってくれた。それなのにボロボロだって動ける翼が甘えていいわけがない。きっとここで諦めたら死んでも後悔する。
歯を食いしばり立ち上がると、視線を真っすぐに図書館のある方向へと持ち上げて翼は走り出した。




