闇と月と大地
翼の焦る気持ちだけが、まさに空を落ちているが如く、空回りしていた。
例の化け物から距離を取れて安全だと思っていたのに、実際に蓋を開けてみれば状況にそれほどの大差がなかったのだから仕方がないだろう。
ではなぜ好転しなかったのかと、焦る気持ちと反比例するように脳の分析する能力だけが冴える。もしかするとこれが走馬燈というものの一種なのかもしれない。兎も角、その分析結果の中に心当たりが一つだけあった。
それは感覚機能。
戦いの中で幾度も感じ、目では見えにくいが確かにある、翼との大きな差。
奴は暗闇でも足跡を見つけられるのかもしれない。
奴はこちらの足音が聞こえているのかもしれない。
奴は匂いだけでも追跡できるのかもしれない。
奴は蛇のように温度差を感じ取れるのかもしれない。
どれも可能性でしかないが、基準を自分に置いて考えていた翼の油断だと言ってもいいだろう。だが現在肝心なのは背後に敵が迫っているという事実だけである。そしてその事実は脳と体の機能を再度切り離し、焦りを生むには十分な効果を発揮してしまっている。
それでも諦めたくない……! もう繰り返したくない! 今度こそ諦めずに最後の瞬間まで足掻きたい!!
そんな翼の意志に反して体の動きは鈍い。
体が今度こそ諦めろと言っているように聞こえた。
だが……
何かが、誰かが翼の左手を引く。
一体誰だというのだろうか?
愚問だ。
ここには翼ともう一人しかいない。
「つばさ! たつ! あきらめないっ! もうすこし……もうすこしだけ!!」
やはり確認するまでもなかった。引かれた手の先に居るのは、やはりフィスである。
まただ。また翼は助けられようとしている。助けたつもりでいた、この少女に。
何度目だろうか、いつも翼が先を走っているつもりが気づくとフィスは前に居てくれた。
迷った世界で、困った集落で、諦めかけた戦いでフィスだけが助けになってくれた。そして今回も。
彼女の手のぬくもりが諦めろと口説く体を説得してくれる。
まだやれるだろと。もう少しだけやってみようと。まだ終わっていないだろうと。
空いた右手で膝をたたき、活を入れる。心はまだ折れていないと体に示す為に。
その説得と活に体が応えてくれる。もちろん元気いっぱいにとは言えない。
震えの止まらない膝で何とか立ち上がった程度。全力疾走なんて無理だと一目で分かる状況。
それでも立ち上がった。
諦めていない意志を込めた視線をフィスに送る。
フィスもそれに応えるように頷く。
もはや言葉は要らなかった。
再び翼は走り出した。
先ほどとは逆の立場である、フィスに引かれる形で。
そうなのだ。この形が正しい。
あの赤鬼とフィスにどれくらいの感覚機能があり、どれくらいの差があるかは分からないが、間違いなく翼よりも上であろう。ならば道を先導するのはフィスであるべきだ。問題は走るだけだった先ほどに比べれば、間違いなく落ちた走行速度だろうか。背後から迫る相手がどれくらいで走ってきているかは分からないが、追いつかれる事は避けられないだろう。状況変化がない限りは時間稼ぎにしかならない。それでも道を自分で閉ざす真似はもう出来ない。
何よりも先導してくれるフィスに迷いが感じられない。最悪の場合はフィスだけでも逃がすという選択が頭を過った翼に、その選択を許さない程に真っすぐと走る。まるで彼女には目的地が見えているかのようだ。
やがて左手を引く、フィスの力が弱まった。それが合図だったかのように減速し、停止する。
「はあはあはあ……おい、フィス……迷ったのか!?」
諦めたのかとは聞かない。そんな言葉はとうに捨てている。だから迷ったとしか考えられなかった。
「はぁはぁはぁ、ち、ちがう……ついた」
「え? ついただと? ここを目指していたって言うのか???」
フィスの口にする言葉の意味が分からない。どこについたというのだろうか。背後から迫る脅威を無理やりに意識から切り離し、彼女の言う目的地である、この場所を見渡す。
暗いからというのもある。もちろん走る事に夢中で気づかなかったというものあるが、よくよく見て見れば既に林を抜けていた。それどころか周辺が殺風景な気がする。日中ならもっと周りを確認できるのであろうが、翼の目ではその程度しか分からない。ただそんな所で立ち尽くしていては目立つだけだ。赤鬼の奴が林から抜けたら即、こちらを発見する事だろう。格好の的である。
「おい、ここはまずいだろ!? 走ろう! 俺はまだ走れる! もっと走れる!!」
嘘だ。翼の足は限界に近い。だが立ち止まったら終わりである限りは限界を超えて走るしかない。例えそれが精神論で現実を切り離した無茶苦茶な話だとしても、それしかないのだ。
「すこし、……すこしだけ、じかん、ほしい」
「時間が?」
フィスはそれに返答するように頷いてきた。
初めてだった。フィスがお願いを口にするのは。切羽詰まった状況で、下手をすれば最後の願いになるかもしれない状況だとしても、そもそもフィスが居なければ、何度も行き止まりを前に立ち止まっていた事だろう。命の危機が迫った状況だとは言え、その願いを無下に断る選択肢が今の翼にはない。フィスを信じるだけだ。
「分かった。フィス、君を信じるよ。やりたいようにやればいい」
「ありがとう、つばさ」
フィスは、そうお礼を告げた後、翼には理解出来ない言葉を口にし始めた。ただしそれは集落でも耳にした記憶のない言葉に感じる。いや、どちらかと言えば、言葉というよりも祈りや歌に近い気もする。耳に入ってくるというよりも心に直接語りかけてくるような言葉と声だ。
だが追跡者は、そんな事は関係ないとばかりに近づく足音と振動でプレッシャーを掛けてくる。恐らく、赤鬼が後方の林から姿を見せるまで、それほど時間は残されていないだろう。その時までにフィスの願いは叶えられるのだろうか。不安を抱えながらも僅かな希望を探る様に新たな道を探る。それくらいしか今の翼には出来ない。
しかし当然と言えば当然だが、やはりいくら見渡しても翼の目では自分達が出てきた後方の林くらいしか確認出来ない。確かに月は出てはいるが地球の月に比べると随分と頼りなさげな光である。この世界に来たばかりの時は気づかなかったが、日本の明るい夜に慣れてしまった翼には十分とは言えない光源だ。仕方がなく、LEDライトを点灯させる。本当なら敵の格好の的になりそうな行為ではあるが、もう今更だ。どちらにしても、あの赤鬼がここへやって来ることは避けられないだろう。ならば問題はないはずである。だから翼は辺りを照らしてみる。
結果としては――意味はなかった。何も見つからない。
照射範囲内に何もないからだろうか。それとも視力不足だろうか。ただ翼に認識できるような遮蔽物が周辺にない事だけは分かった。無駄な事だったかと、LEDライトを片づけようとした時だった。たまたま目の前の地面に向かって伸びたはずの光が大地に吸い込まれたように見えた。もちろん地面が光を吸い込むなどありえない話だ。
「なんだ……??」
追い込まれている状況だというのに、翼はそれを忘れたように光の吸い込まれた地面を凝視する。そこには――
「嘘だろ……? 何もないじゃないか……!?」
そう、何もなかった。この先も続いていると思っていた地面はなかった。数歩先にあるのは闇が広がる空間だけだ。つまり崖である。
「ほかに逃げ道は!?」
崖に沿って右を確認する。
崖が視界の届く距離まで伸びているだけだ。どこまで行けば途切れているかもわからない。
同じく左を確認する。
ダメだった。少なくとも翼の目には左右共に阿弥陀くじと変わらないレベルの世界があっただけだった。恐らくどちらに逃げても追いつかれる未来が待っている事だろう。つまりは逃げ道どころか追い詰められた状態というわけである。
「フィス! これはどういう事なんだ!?」
質問に返答はなかった。ただ翼の声だけが木霊の様に夜空に響く。
そのフィスは己の願いに集中した様子で意識を曲げる様子はない。
「くそっ!」
彼女の迷いのない先導は考えあってのものだと思っていた。しかし実際に辿り着いたのはここである。こうなってくると、フィスが発する理解出来ない言葉も死を前にした念仏にすら思えてくる。
――いや、そんな事があるわけがない!
フィスは確かに諦めるなと言っていた。だとすれば何か考えがあっての事だろう。そうでなければ説明がつかないではないか。
ただ分からない。彼女が目指したこの場所と目の前で発している言葉に何の意味があるのだろうか。
目に見えない不安が翼を囲い込もうとするが如く闇夜に紛れ込んでくる。
そしてそれに反応したかのように翼の背筋に今までとは明らかに違う、冷たい何かが流れた。




