闇夜と共に狩人は映る
鼻デカチビの後始末を追加しました。ご冥福をお祈ります。
目の前の巨人が翼達から興味を無くすという考えは捨てても、よさそうな状況だった。
次のメニューが来る前に処理するとでもいう風に、左の手の中の残った鼻デカチビの下半身だった部分を口へと放り込む。数回の咀嚼で喉に流し込む音は静かな森の中で奇妙に響いた。続いて右の手に残された上半身だった方も、お菓子でも放り込むように口に収められた。違うのは先ほどよりも少ない租借で動きが止まった事だろうか。
ただ原因はすぐに理解することになる。どうやらトロールは租借の邪魔となるものがあったらしく、スイカの種を吐き出す様にそれを地面へと吐き出した。地面を汚したのは人間の頭ほどもある、いや、人間の頭そのもの。形が崩れていてもハッキリと分かる。トロールの歯形が付いた鼻デカチビのそれに違いない。
本来なら吐き気を催しそうな光景ではあるが、目の前の脅威がそれ以上の恐怖という感情を翼の心に刻み込む。気持ち悪いなんて感情は、所詮、極上の恐怖の前では無力なのである。何しろ、こちらの頭ほどもありそうな瞳から注がれる視線からは熱さえ感じられるものだからだ。既に闇が支配つつある空の下であろうと、相手が別種族であろうと理解出来る。そこにあるのは恐らくは食という欲望であり、翼にとっては絶望。
「フィス……! どうするっ!?」
もはや自身での判断を捨て去りそうになる危機の中で、自分よりも小さな彼女に判断を仰いでしまう。ハッキリ言って、かなり情けない状況だ。だが声が震えなかっただけでも奇跡的だと言えたかもしれない。
判断を迫られた彼女も額に大粒の汗を浮かべていた。それでもこちらの質問に拒否の姿勢は見せず、トロールから視線を外さない事で戦意を示しているかのような様子は、この世界の枠の中で生きてきた強さなのだろうか。どちらが男で、どちらが女か分からなくなりそうである。
――なんてダメな奴なのだろうか、俺は。自分よりも小さなフィスが戦意を失っていないのに、戦意を失いそうになるだけに終わらず、男のくせに考える事すら放棄して流されようとしている。それでいいのか……。いやだめだ! 諦めるな……考えろ……考えるんだ!
もちろん今の状況でトロールを倒すどころか、追い払う事すら難しいのは分かりきっている。それに武器と呼べるものはスタンガンだけ。恐らく対人用の物が目の前の生物に効くとは思えない。何よりも攻撃範囲の狭いスタンガンでは懐に入る前に、あのデカい掌で握りつぶされるのは目に見えている。となれば逃げしか道は残されていない。だがそれも簡単ではない事はトロールの手の中で、生物から2つに無機質な物体へと変えられてしまった、鼻デカチビが証明したばかりである。髭達も今頃は同じ運命を辿っているかもしれない。ただ逃げるだけでは翼達が食料になる未来は変えられないという事だ。つまりは何か隙を作る必要がある。
翼は新たな可能性を探すために、自分の持ち物を頭の中で確認していく。
スタンガン、町で買った衣類の数々、食料、水、コンパス、作りかけの地図、LEDライト。
やはりどう考えてもトロールに通用するような武器はない。先ほど壊された携帯式防犯ブザーが残っていれば気を引く事くらいは出来たかもしれない。だがそれはない物ねだりだ。
そんな焦る翼の姿さえも、トロールの奴には料理のドレッシングだと思っているのだろうか、半開きの口から赤い色が混じったヨダレが、ビチャリと落ち、大地を汚した。それを合図にしたかのように動きを見せたのは巨大な狩人側だった。
まるで落としてしまった物を拾うかのように発達した筋肉の塊がトロールから翼達に伸びてくる。
翼とフィスは拍子抜けするほどゆっくりとした速度で近づいてくる、それを距離を取る事で躱す。
避けられたのは単純に相手が動かない餌と思い込んで油断していたからに他ならない。お陰でトロールはあるべきものが手に収められず空振り。不思議そうな表情を浮かべている。さきほど1人を虐殺した相手とは思えない間抜けな面だ。
だが考えてみれば人間も調理しようとしていた魚が飛び跳ねて逃げたら同じような表情をするだろう。料理する人間側からしたら一瞬の驚く場面だ。ただ同じ立場になってみると、これほどに理不尽な状況はない。食物連鎖の頂点から落とされるのを実体験するのは、出来れば例えの世界だけにしてほしいと今ほど思う事はないかもしれない。
ただ当然ながら――それは一瞬の間だけ。
目の前の出来事が頭の中で処理されると感情は急変するものだ。もちろんそれは喜びや悲しみではないだろう。食料如きが自分の意に反して逃げた事に対する……怒り。生物としての上位者だけに許される特権。
問題として大抵の場合に怒りは急激に訪れ、加速度的に行動力をも上昇させる、生物の持つ感情の中でも危険で暴走しやすい感情の1つ。翼の瞳にはトロールの眼に火が灯るのが見えたよう感じた。それほどに表情に変化が現れた。まるでどこぞの仁王の表情がトロールに乗り移ったかのようである。発せられる疑似的な熱は山の向こうに落ちたはずの太陽が、翼の足元から再上昇して来たのではないかと錯覚を覚えるほどである。
――やばいやばい! 本気でやばい!!
その翼の心に反応したかのようにトロールが怒号を発した。
それは「ガーーー!」だったのか「ウゴーーー!」だったのか、聴覚が認識できる範囲を超えていて理解出来なかった。ただ正確な音が認識できないくらいの音量である事だけは耳を突き抜けて脳に伝えられた。もちろん慌てて耳を手で塞いだつもりだったが、単純に間に合わなかったのか、もしくは人間の掌程度の薄い防壁では十分な仕事を果たす事は出来なかったようだ。お陰で怒号という振動に揺さぶられた脳が大地が揺れているような感覚を生み出す。おそらく平衡感覚がおかしくなっているのだろう。このトロールという生物は日本の平和な日常では考えられない規格外の生物であると今更ながらに再確信する。
しかし翼はまだマシだったようだ。隣で翼以上に影響を受けてしまったのか、フィスが尻もちをついて頭を抱えるようにして丸くなっていた。もしかすると匂いに敏感だったように音に対しても、翼よりも敏感なのかもしれない。現代人は色々と感覚が鈍感になっていると言われているが、その差がこれなのだろうか。当然、トロールが今行動に移ったら一溜りもないだろう。とても避けられる状態には見えない。行動不能に陥っていると言っていいのではないだろうか。
そして危機は翼の予想をなぞる様に悪化を辿る。
トロールの怒りを含んだ視線が翼の隣へと流れた。
隣にはもちろんフィスしかいない。標的は考えるまでもない。
狙うなら隙を見せた獲物からというのは、食欲と怒りに支配された狩人にとっては当たり前の判断である。理解したくないが理解するしかない。追い詰められていると。
今、怒号の影響で揺れる翼の脳と瞳は、巨大な敵が小さな獲物を捕らえようとする未来を映し出そうとしていた。




