下町に飛んだヤジ
下町というものには不思議な魅力がある。そう思えるようになったのは彼が二十歳を過ぎた頃だった。
今までは、下町といえば古臭い慣習ばかりが蔓延る嫌な場所だと思っていた。しかし、そんな考え方がぐるりと変わるきっかけがあったのだ。
それはとある酒場での出来事だった。彼がふらりと立ち寄ったその酒場は、飲み屋横丁の一角にある何ら変哲のないものだった。
赤提灯がぶら下がり、汚い暖簾をくぐって、扉を開ける。いらっしぇ、と言って出迎えるのは六十代そこらの店主。ひどい濁声であったが、そうなってしまうのも頷ける。
まず、彼が店に入って感じたのはむせ返るほどの煙草の煙だった。もあっと浮かぶその煙は、小さな雲のように店内に浮かんでいた。換気扇はあることはあるが、客のほとんどが煙草を吸うせいで機能しなくなっている。一歩うしろに退いた彼であったが、しかし、禿げ頭の店主の懐っこい瞳に興味を持った。
団扇を煽って焼き鳥を焼くその店主に手招きをされ、彼はひとまず一歩半すすむ。そうして気づいた頃には、彼は親父たちに塗れて座っていた。
若い男の客は物珍しいのか、彼は大勢の視線を浴びせられる。時折、グラスを片手に彼に質問をする者までいた。しかし、そういう者たちは決まって彼にこう言うのだ。
おめえに、この店の良さがわかるのかい。
そう言われて少々、彼は腹が立った。けれど、初めて来たのにわかるわけがないと納得をする彼もいた。結局、わからないと、彼はただ一言だけ告げる。
すると、どうにも彼の言葉が面白かったらしく、親父たちは下品に笑った。行儀悪くも、箸をスティック代わりにして、茶碗を鳴らす者までいた。
彼は内心では、だから下町の人間は嫌いだと思った。もう帰ってしまおうかとすら思えた。けれど、笑い声が反響する中、店主は威勢の良い声で彼に言った。
なあに、心配することはねえ。今日からおめえさんも、うちを気に入るだろうさ。
そう言われてしまうと素直な彼は、そうなのかと思ってしまう。気に入るだけの料理があるに違いないと確信した彼は、期待まじりの声で注文をする。
生、中ジョッキ。あとは、何か適当におつまみでもください。
注文をしただけであったが、彼はまたしても笑いの的になる。親父たちは声を揃えてこう言ったのだ。
接待じゃあ、ねえんだから。おめえの好きなもんを食いやがれってもんだ。
彼はいよいよ痺れを切らして、叫びに近い声でこう言った。
ここは会社じゃないんだから、私の好きなようにさせてくださいよ。
目に沁みる煙を手で払いながら、彼は親父たちの反応を待った。だがやはり、みな大声を出してゲラゲラと笑っている。酒を飲んでは彼を囃し立て、酒を飲んではゲップをする。
二度と来るものかと彼は心に決めた。
それからしばらく親父たちに難癖をつけられ、ようやく頼んだ品がやってきた。
彼は目の前に出された食い物をみて首を傾げる。はて、期待を裏切るつもりじゃなかろうか。いや、いやと、彼はかぶりを振ってみる。味を確かめなければと、彼は思った。
横にあった入れ物から割り箸を取り、彼はそれをゆっくりと二つに割る。いただきますと、店主に向かって言ってはみるが、聞こえてはいないようだった。
彼はまず、刺身に手を伸ばした。やや黒ずんでいるマグロの赤身である。
醤油がないことに疑問を覚えつつも、そのまま口に運ぶ。やはり、大したものではなかった。口内で弾けるような新鮮さがない。ありのままの味は何とも微妙なもので、醤油によって誤魔化さなければ箸が進まない。彼は刺身から、焼き鳥の盛り合わせへと手を伸ばす。
いったん箸を置いて、肉の刺さった串を一本とってみる。濃厚そうなタレがたっぷりとついたレバーだ。照明にあたって黒光りするそれは、なんだか生々しくて食欲が失せてしまう。
彼は目を瞑りながら、一口だけ齧る。案の定、美味くはなかった。しかし不味いというわけでもなく、彼はため息をつく他なかった。
酒で舌の感覚を鈍らせようと、彼はグラスを手にとり傾ける。くらっとするほど冷たい。そして、痺れるような刺激が喉を伝って、やがて身体の中に落ちていく。
ビールだけはまともだと思い、彼はホッと胸を撫で下ろした。
彼がすべてを食べつくした頃には、既に一時間ほど経過していた。しかし、客は減るどころか増えるばかりで、その窮屈さといったら半端でなかった。
煙に眼球を痛め、喉を痛め、彼はゲホゲホと咳きこむ。もうここにはいられない。そう思うや否や、彼は立ちあがった。ズボンのポケットから財布を取り出し、勘定を済ませようとする。しかし、彼が帰るとわかると、店の親父たちも一斉に立ち上がった。
彼は、何事かと思って戸惑う。その場に佇み困惑していると、
「わけえもんが、金を払うのはいただけねえ」
他の親父たちも、そうだそうだと嬉しそうに声を上げる。
「おめえさん、酒がうめえと感じるのは、どうしてかわかるかい」
どこかの親父がそう言うと、はっ、はっ、はっ、と笑いが生じる。
「酒ってのはなあ、馬鹿みたいにうるせえところで飲めば、うめえんだよ」
彼は首を傾げる。すると、店主が横から口を挟み、
「すまねえな」と、楽しそうに笑って言う。「ここのおっさんたちはな、要するに、おめえさんみたいな若い人が来てくれて、嬉しいんだよ」
「そう、ですか」
「だからよお、こいつらがなにを言いたいかっていうと、おごってやるっつうことだ」
「でも、どうして若い人がくると嬉しいんですかね」
「そいつは、あれよ、おめえさん。そこらの死にぞこないと話すよりか、生き生きしてるやつを見てるほうが、楽しいとは思わねえかい」
「でも、私は特に、何かをしたわけじゃないですし。奢られても困ります」
「いいんだよ、んなことは。あいつらがそうしたいって言うなら、そうさせておけばいい」
それだけ店主は言うと、また団扇を煽って焼き鳥を焼く。彼はぼんやりとその光景を眺めていた。釈然としない様子の彼に気を遣ったのか、店主は一度だけ顔を上げて言った。
「あいつらはなあ、いつもはそんなに、うるさくはねえのよ。ちびちび酒を飲んで、ぼそぼそ喋って、そんで気づいたら帰ってる。そういう連中なのさ、本当はなあ」
店主がそう言うと、その場にいた親父たちは決まり悪そうに頭を掻いていた。彼には、その様子がとてもおかしくて、たまらず声をあげて笑っていた。
「わかりました。じゃあ、今日は奢ってもらいます。それで、また来ます」
彼はお辞儀を一つしてから、店を後にする。
「おうおう、二度と来るんじゃねえぞ、わけえの」
という照れ隠しのヤジが、店内に飛び交っていたのは言うまでもないことだ。