第三話 獄道のおんなたち
ジョリーと由紀恵が一緒にいるということは、六人衆の一人は六乳以外の誰かが相手をせねばならない。黄金色のビクトリア朝ドレスを纏ったレディ・ヴィクトリアの相手をしていたのは、八人の黒子と、アオザイという民族衣装を身につけたヘルプの越南三姉妹だった。それぞれ三叉、円刃、狼牙棒を手にし、黒子と共にヴィクトリアを取り囲んでいる。
そのヴィクトリアの足下からは、次から次へと鱗を纏った魚人が現れる。もう三十体は打ち倒しただろうか。全員肩で息をしていた。
「おやおや。深き者ども(ディープワンズ)の皆さんでは、少々荷が重かったようですわねぇ」
歌うような声でヴィクトリアが言う。羽根のついた扇を仰ぎ、表情も朗らかだ。
「上を天国といい、下を地獄といいます。天上には神がおわせられ。地の獄には悪魔が封じられております」
急に講釈がはじまり、三姉妹は訝しく思った。
「では皆様、我々が今いるこの場を何と呼ぶかご存知ですか? ……そう。煉獄と申すのです」
ヴィクトリアの顔に陰惨な笑みが浮かんだ。
「この煉獄にとて、主はおわしまする。その主を、本日は皆様にご覧いただきましょう」
ヴィクトリアの声が、二重に響いた。
「……ふんぐるい、むぐるうなふ、くとぅるふ、る、りえー、うが、なぐる、ふたぐん。……る、りえー、くとぅるふ、ふたぐん!」
ドレスの裾が持ち上がる。その隙間から、しゅるしゅると音を立てて姿を見せたのは、何百本もの、醜悪な形をした、悪臭を撒き散らす触手であった。
「さて。狂い死ぬのと、縊れ死ぬのと。どちらが先と相成りますでございましょうか」
惨劇がはじまった。
カウンター奥のボックスは紅蓮に染まっていた。
「どうしました? 六乳の一人ともあろう者が、骨のない」
焼け焦げだらけのスーツをかろうじて身に纏った状態で、須狩は床に這い蹲っていた。
京友禅の女が軽やかに歩を進める。須狩は身体中汗まみれであるというのに、この女の顔には一筋さえも流れていない。いったいどのような構造をしているのか。私もあんなだったら日に何度もメイクを直しに行かなくて済むのに、と思った。
「何か術をお持ちなら、お使いになっては如何? このままでは、消し炭になるだけですわよ?」
須狩とて使えるものならば使いたい。だが、この状況では、術を使うわけにはいかなかった。
拳銃を構え、引き金を引く。弾丸はお七に届く前に、溶け落ちた。
「あなたに構っている暇はないのです。もう、お死になさい」
扇子を一振りする。火球が須狩に向かって襲いかかった。軌道を計算し、一瞬早く逃れる。火球が壁を貫通し、店の外で火柱を上げた。
須狩は転がるようにして穴を潜った。
「お待ちなさい!」
須狩を追おうと近寄ったが、思い直した。まずは暮子を守ることだ。よもやあの暮子が負けるとは思わないが、相手も名の知れた女傑、奈与竹かぐ弥である。どのような術を用いるかわからない。
それに、六乳の一人とはいえ、あの程度の力量の者に敗れるような六人衆ではない。まずはかぐ弥を仕留めるのが先決である。
お七は燃え盛るボックスを抜け、中央ホールへと急いだ。
雪の中から立ち上がった須狩が見たのは、両腕を血塗れにしたブリトニーだった。
「酷い格好だぜ、須狩」
「あなただってそうだわ、ブリトニー」
「この手じゃセットも直せない。嫌になっちゃうぜ」
「こんな時でも変わらないわね、あなたは」
粉雪の向こう側、『くのいち』に目を向ける。雪の中を卜部流緋袴装束の女が近付いてくる。
「ほう。六乳が二人も揃っておるとは、好都合。纏めて井戸の底へ叩き落としてくれようぞ」
影使い巳舟千鶴子の足下から、蛇のように影が伸びる。
「アンタの相手はマチルダがしていたはずだ。アイツはどうした」
「この女のことかえ?」
影の中から人の形をしたものがずるりと姿を見せる。ブルネットと、白いシルクドレスに見覚えがあった。
「我が槍どもよ(ブリトニー・スピアーズ)!」
次元歪曲道を通り十二世紀フランスより呼び寄せられた一千本の聖槍が千鶴子を襲う。が、それらの槍はすべて影の中に吸い込まれた。
「ちっ! 厄介な力だ」
両手を突き出し、今一度召還を試みる。が、その前に須狩が立ち塞がった。
「あなたには相性が悪い相手よ、ブリトニー。ここは引き受ける。行って」
視線を交わす。ブリトニーは一つ頷きを交わした。
銀世界をピンクのドレスが走り去って行く。須狩は瞼を閉じ、両手を上へ突き上げる。
掌を大きく開く。何かを受信するように。
「今のは確か、千本槍のブリトニー。主ら六乳で一番の実力者と噂の女よな。主一人で、相手をする気かえ?」
須狩は答えない。ただ瞳を閉じている。
「まあよい。去ね」
黒き蛇が飛びかかった。
蛇が噛み付こうとする、その瞬間。
須狩の目が開いた。瞳の中に、ゼロと一とが並んでいる。
紙一枚の距離を残して、影の蛇が霧散する。その向こう側で、巳舟千鶴子が膝から崩れ落ち、倒れ伏した。
何が起こったのか、千鶴子はわからなかったろう。須狩がデジタル変換し、中空に放った電気信号によりハッキングされた某国の軍事衛星は、島国の一角、緋袴装束の女に狙点を定め、対ICBM用高収束レーザー砲を発射した。まさに、一瞬の出来事、心を読む千鶴子ですら回避不能な一撃であった。
須狩は二度ほど頭を振り、ふらつきながら、『くのいち』へ向かって歩き始めた。
ブリトニーが辿り着いた玄関ホールは、すでに地獄だった。
引き千切られ、人としての躰を成さなくなった死体があちこちに転がっている。壁際には、絶えることなく笑い声を挙げている黒子や、頭を抱えて震えている黒子がいる。
中央には、黄金色に輝くドレスを纏ったレディ・ヴィクトリアが艶然と佇んでいた。ドレスの内側からはおびただしい数の触手が伸びている。それらの触手の幾つかが越南三姉妹の長女を締め上げ、次女を半裸に剥いて陵辱していた。
姉たちを助けようと三女が狼牙棒を振るう。並の人間であれば頭蓋骨を粉砕する膂力で振るわれたそれを、触手は軽々と弾き返した。
「ほほほ……。人の身で神の身体を傷つけようなどと。愚かなことですわぁ」
ブリトニーは奥歯を噛みしめた。六人衆の力を甘く見ていたわけではない。が、古の邪神という神クラスの力まで行使する者がいるとは。
「醜悪なモン呼び出しやがって……。どいてな、チビッ子」
三女に変わってブリトニーが立ちはだかる。だが、ヴィクトリアの笑みは消えない。
「誰が来ようと同じこと。人の力で、神を倒すなんて。おこがましいことですわぁ」
「人の力ならな」
ブリトニーが両手を突き出す。次元に割れ目が開く。が、今度は槍が飛び出さない。
ブリトニーは両手を突きだし続ける。両目が充血を始める。身体中の毛細血管が、切れているのだ。
「来やがれ、神殺しの槍」
紀元のはじまりより召還されたただ一本の槍が裂け目より飛び出す。
「くたばりやがれ!」
光を纏った長槍が、宙を滑る。
ヴィクトリアが扇を振る。鱗を纏った異形のものどもが、ヴィクトリアの前に立ち塞がる。
だが。
「バカ……な……」
聖別された槍は、邪心の配下どもを寸断し、その奥にいた不可侵の身体をも深々と貫いた。
触手がずるずるとドレスの中へと引っ込んで行く。盛装の麗人は、足下から溶け落ちた。
「見事ですわ……。ですが、一人では死にません。さあ、皆様も共に、海の底へ……」
床が急激に柔らかくなる。倒れている黒子たちが床下へと沈み込んでゆく。三姉妹も、ブリトニーも、すでに動けるだけの体力は残っていなかった。
ホール全体が血の色に包まれる。そして一瞬の収縮。
玄関ホールには、そして誰もいなくなった。