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Pickpocket and Lion

作者: Ono
掲載日:2026/06/04

 普段は薄暗い裏路地を縄張りにするスリが市場に足を踏み入れるのは、特に腹が減りすぎた日だけだ。ビルにとっても、その日がそうだった。

 石畳の広場には、香辛料の匂いと焼いた肉の煙と、金持ちの無防備が転がっている。商人は帳面に気を取られており、貴族は俯かず足許を見ない。懐の財布に鈴でもつけて歩いてくれればなお親切なのにと、ビルはひねくれた笑いを喉の奥で噛み殺した。


 目をつけたのは腹の出た商人だった。腰に提げた巾着袋は硬貨の重みで口紐が食い込み、歩くたびこれ見よがしに揺れている。裏路地に入る時には深く懐の内側にしまっておくはずだが、この辺りを闊歩するほどの金持ちは多少のコインなら盗られても構わないと思っているのだ。

 たっぷりの銀貨。下手をすれば金貨だって混じっているかもしれない。

 だが、ビルがその一歩を踏み出す前に、肩を掴んで後ろへ引きずり倒された。


「おい、路地鼠。ここを誰の庭だと思ってる?」

 声の主に焦点を合わせるより早く頬に膝がめり込んだ。ビルはすぐに身体を折り曲げ、両腕で頭を守った。市場広場を縄張りにする盗人集団だ。二人、三人、四人。ずっと年上で、骨の太い連中ばかり。爪先で腕を蹴り上げられ、露わになった頬に靴底が落ちてくる。石畳に顔を打ちつけ、鼻の奥に鉄臭い味が広がった。

「長生きしたけりゃ身の程を覚えな、鼠。次にここで“仕事”をしようとしたら指がなくなるぜ」

 腹を蹴られて酸っぱいものが逆流してくる。胃の中は空っぽで吐くものなどなかった。ありったけの暴力が降り注いだ後、最後の一人が唾を吐いて去ってゆく気配だけを感じていた。


 市場の喧騒が遠い。瞼がうまく開かず、うすぼんやりした視界は妙に明るかった。母親に笑いかける楽しげな子供の声、新鮮な果物を売る呼び込みの声、優雅に進む蹄と馬車の音。すべてが自分の惨めさを見物しているみたいで、耳障りだった。

 誰にも見つからないように生きてきた。だからこうして、道端の石ころみたいに放り出されて死んでいく。これが自分だと思うと何もかもに腹が立った。


 その時、頬にひどく冷たいものが触れてびくりと身体が強張る。腫れた瞼の隙間、逆光を纏った人影があった。輪郭すら朧にしか見えない。一瞬、鋭利なガラス片で刺されでもしたのかと思ったが、どうやら頬にあたったのは濡れたハンカチらしい。腫れた頬の熱をじわりと奪う。

「……何のつもりだ」

 礼より先に出た声は、ひどく濁っていた。

「今の内に冷やしておかなければ腫れが長引きます」

 少女の声だった。高く澄んでいるのに、不思議と押し返せない迫力がある。ぶっきらぼうな言い方なのに、育ちの良さは声だけで分かった。このハンカチ一枚でもビルのすべての持ち物を集めたより高い、裕福な暮らしをしているのだろう。


 感謝ではなく妬ましさが胸に刺さった。誰かを助ける余裕のある人間。たかが硬貨一枚を得るために死ぬほど殴られることのない人間。そんな相手が戯れに投げた骨を舐めてようやく少し救われる野良犬のような自分。

 みじめで、醜くて、泣きたくなるほど不愉快だった。

「いら、ね……お嬢様が、汚したく……ねえだろ……」

「返す必要はありません」

 精一杯の虚勢と嫌味をぶつけようとしたが、少女は呆気なく切り捨てた。ビルの手を取ってハンカチを押さえさせる。頭を支配していた鋭い痛みが鈍くなってゆく。

「それを汚れた襤褸切れにするも、宝の地図に変えるも、君次第です」

 手の中の布は、信じられないほど滑らかな手触りだ。端には豪華な刺繍がある。字が読めないビルにでも、それがよほど高価な品だと分かる。宝というのも大袈裟ではない。売れば数日分の飯代になりそうだ。


 衣擦れの音がして、少女の声の位置が高くなった。立ち上がったようだった。視界は未だ戻らないが、彼女が触れるほどすぐ近くにいたことを今になって気づく。

「防御反応が身についているのは見事ですね。君はもっと高く売れる自分になりなさい」

「……は?」

「盗みを生業とするならもっと鍛えたほうがいいでしょう。殴られる前に逃げる足も、殴ってきた相手を倒す腕も。今の君は、まだ弱い」

 教会が垂れるような説教や哀れみではない。まして「真っ当に生きろ」でも「盗むな」でもなく。どうせ盗むなら、より見事に盗め――そう言っている。

 ビルにとってそれはあまりに予想外で、呆気にとられることしかできなかった。


 遠くでよく通る男の声が飛んだ。

「イザベル!」

「君が宝を盗みにくるのを期待しているよ」

 そう言って彼女は踵を返した。石畳に転がったまま足音に耳を澄ませる。市場の喧騒に混じってしまうまで、その足音だけが際立って耳に響いてくる気がした。


 ハンカチがぬるくなって乾く頃には午後になっていた。しばらくしてようやく上体を起こしたビルは、近くに小さな巾着袋が転がされているのに気づく。今朝、自分が狙いを定め、邪魔されて盗り損ねた袋だった。

「まさか……」

 呆然と呟く。

「あのお嬢様、俺の代わりに盗ってきたってのかよ」

 そんなわけがない、と思うのに、それ以外にあり得ない。

 腹が立った。どうやら貴族の娘かなにからしいくせに、暴力に怯みもせず、しかも自分より鮮やかに盗みをやってのけた。これは挑発だった。


 痛む全身を無理やり動かして隠れ家に帰り、ビルは銀貨を数えた。安物の傷薬と硬いパンを買い、残りは隠しておく。そして自分の血と汚れが染みた絹のハンカチを何度も眺めた。

 名前と思しき文字は読めないが、あの声は「イザベル」と呼んでいた。それが彼女の名なのだろう。月桂冠を被った獅子の紋章は彼女の家を示している。

 字が読めなくても、紋章なら追える。質屋の爺、酔っぱらいの御者、主人を待つのに飽き飽きしている従者。誰か一人くらい知っているはずだ。

 べつに礼を言いたいわけじゃない。改心するつもりもない。もう一度会いたいわけでも――ない。借りっぱなしが性に合わないだけだ。そう自分に言い聞かせて、ビルは翌日から街を歩いた。


 獅子の紋を見せては鼻で笑われ、追い払われ、たまに銅貨一枚で情報を買った。洗濯屋に預けたら返ってこない気がして、ハンカチは薄汚れたままだ。ただの襤褸切れにするも、宝の地図に変えるも。

 ならば宝にしてやる、と意地になった。行く宛ても帰る場所もなく裏路地を彷徨っていたビルにとって、その布は初めて持った地図だった。人生を変え得る宝の在り処、高慢なほどに勇敢な獅子の巣穴を示す地図。


 十日ほどかけてビルはそこに辿り着いた。白い石壁に囲まれた屋敷。掲げられた獅子の紋章。出てゆく馬車に頭を下げる大勢の使用人たち。

 ライオンハート家。王家に仕える、騎士団長の家だった。路上で無防備な外出中の金持ちを狙うのとはわけが違う。ここに忍び込むのは至難の業だろう。そして文字通り命懸けだ。

 思案を重ねていると、頭上から声が落ちてきた。

「いらっしゃい、よくきたね」

 門から離れた屋敷の塀、ちょうどビルを見下ろす位置に彼女――イザベル・ザ・ライオンハートが座っていたのだ。

 簡素な乗馬服。片膝を立てた姿はよく躾けられた貴族の令嬢というより、獲物を見下ろす若い獅子に見える。ビルは貴族のお嬢様なんてものが大嫌いだったが、あの時自分の頬に濡れたハンカチを押し当ててきた少女への違和感を理解していた。

 お嬢様はお嬢様でも、イザベルは騎士団長の娘。牙と爪を持つ獅子の娘なのだった。


「……あんた、俺に気づいてたのか?」

「我が家の周辺を探っている素人がいて気づかないはずもありません」

 ビルは思わず舌打ちした。すべて手の内なら、最初から名乗ればいいものを、やはり彼女はビルを試していたのだ。

 罵倒の代わりに懐から金色の硬貨を一枚取り出した。あの巾着袋の中から一番マシなものを選び、磨き上げたものだ。そして彼女に突きつける。

「借りは作らねえ。俺は自分の食い扶持は自分で稼ぐ。だから、これは最初の一枚だ」

 イザベルは金貨を受け取り、優雅に微笑んだ。


「名前は?」

「……ビル」

「ビル。姓がないのなら、ゴールドにしましょう。この硬貨の色、貴方の髪の色」

 そう言われてビルは自分の髪を一房摘まんで見つめた。くすんで汚れたこれを金色だと思ったことはなかった。金貨や雄々しき獅子の鬣と同じ色だ、などと思ったことは。

「ビル・ゴールド。私の信頼を受け取るのなら、貴方が餓えることはありません。ただし私の信頼を裏切ることは死を意味します。貴方にとっては些か不自由に感じる暮らしかもしれませんが、この宝を受け取りますか?」

「ハッ。泥水啜って殴られて毎日餓えて、そんなもんを『自由』だなんて言える余裕があんの、貧民でも貴族でもないやつらが夢見る『物語』だけだぜ」

「よい皮肉です。もう少し知性的な言葉遣いを覚えれば、より相手を苛立たせることができます」

 真顔で言ってのけるイザベルにつられて、ビルはつい頬の力が抜けた。それは長らく浮かべたことのない微笑に似ていただろう。


 薄汚れたハンカチ、未だ借りたままのコイン。この先どうなるかなど分からない、という感覚は、裏路地を這いずり回っていた時から何も変わっていないが、見えない道の先がいつの間にか暗闇ではなく光のもとに続いているように思えた。


 それから数年後、イザベル・ザ・ライオンハートの推薦により、平民出身のガラは悪いが腕の立つ青年が騎士団に加わったという。彼の胸当ての内側には、少し色褪せつつある獅子の紋のハンカチが忍ばせてあった。彼がどんな宝を手にしたのか、それはまた別の物語である。

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