泡沫のワルツ
薄青い光が天窓から降り注ぐこの街で、僕は彼女に出会った。
それは、いつもと変わらない退屈な昼下がりのことだった。街の目抜き通りを、あてもなく揺蕩うように歩いていた僕の視界に、彼女の姿が飛び込んできた。心臓が跳ね上がるとは、きっとあの瞬間のためにある言葉なのだろう。彼女は、言葉にできないほどに美しかった。
僕たち若者が行き交う賑やかな通りの中で、彼女だけがまるで異なる時間を生きているようだった。透き通るような白い肌は、天から差し込む淡い光を浴びて、銀色の一条の軌跡を描きながらきらめいている。無口で、というよりも、この世界の誰とも言葉を交わす必要がないとでも言いたげな、絶対的な孤高がそこにあった。
感情の起伏を一切見せないその横顔は、彫刻のように端正で、冷ややかだ。しかし、その立ち振る舞いはどうだろう。彼女がひとたび動けば、まとった薄衣が、まるで精緻な絹の帯が空を舞うように、優雅に、あるいは艶やかに翻る。その一挙手一投足に、僕は言葉を失い、ただ見惚れるしかなかった。胸の奥から湧き上がる、熱い興奮を抑えきれずに。
それからの日々は、僕にとって甘美な地獄となった。内気で、自分から声をかける勇気など微塵もない僕は、ただ遠くから彼女の姿を追いかけることしかできない。夜、自分のささやかな巣に戻り、柔らかい寝床に身を沈めても、瞼の裏に焼き付いた彼女の姿が離れず、一向に眠りにつくことができなかった。
「どうして、あんなに綺麗なんだろう」
暗闇の中で、僕はぽつりと独り言をこぼす。夢の境界線が曖昧になる頃、僕の想像力は翼を広げ、彼女の冷徹な仮面が崩れる瞬間を思い描く。もしも彼女が、僕に向かって微笑んでくれたなら。あの氷のような表情が、春の陽だまりのように融ける瞬間を見られたなら、僕はどうなってしまうだろう。
叶わないかもしれない。けれど、もしもこの想いを伝えることすら許されないのなら、いっそこの胸が張り裂けてしまえばいいのに。切ない憧憬だけが、僕の体内で膨らんでいった。
募る想いは、次第に僕の行動を狂わせていった。彼女に気付かれないよう、一定の距離を保ちながら、その姿を追いかける日々。それは客観的に見れば、尾行とそしられても仕方のない陰湿な行為だったかもしれない。それでも、彼女の姿を見なければ、僕の呼吸は止まってしまいそうだったのだ。
彼女はいつものように、街の気流に身を任せ、優雅に、音もなく進んでいく。僕はその影を踏むように、ひたすら後を追った。
その日も、僕は彼女の斜め後ろを、息を潜めて歩いていた。いつもと変わらない、静謐で美しい彼女の背中。しかし、その平穏は突如として破られる。
彼女の進行方向、死角となる物陰から、巨大な影が音もなく這い出てきたのだ。それは全身を不気味な漆黒の外套で包んだような、異様な威圧感を放つ大きな男だった。男の目は濁っており、その視線はまっすぐに彼女へと向けられている。あきらかな敵意、いや、もっと根源的な、獲物を貪り食おうとする衝動が、その男から放たれていた。男は大きな口を歪め、無防備な彼女の背後から、音もなく、しかし確実に距離を詰めていく。
彼女は気付いていない。その美しい肢体は、迫り来る危機など露知らず、相変わらず優雅に揺れている。
「危ない……!」
僕の身体は、思考よりも先に動いていた。内気だとか、臆病だとか、そんな自意識は一瞬で吹き飛んだ。僕は全精力を込めて地面を蹴り、彼女と黒い男の間に割り込んだ。僕の突然の乱入と、死に物狂いの威嚇に、黒い男は一瞬、怯んだように動きを止めた。男の濁った瞳が僕を捉え、その巨大な質量が放つ圧迫感に僕の全身の毛穴が開く。しかし、僕は退かなかった。彼女を守るためなら、ここで引き裂かれても構わないと本気で思った。
張り詰めた空気の中、僕の異様な剣幕に気圧されたのか、あるいは面倒な騒ぎを嫌ったのか、黒い男は不快そうに身を翻し、そのまま街の闇の奥へと静かに去っていった。
激しい鼓動の音が、自分の耳の奥でうるさいほどに鳴り響いている。僕は肩を上下に揺らしながら、ゆっくりと彼女の方を振り返った。彼女もさぞ驚き、怯え、そして僕に感謝の言葉を述べるか、あるいはついにあの美しい顔を歪めて感情を露わにするのではないか。そんな期待が、ほんの少しだけ胸をよぎった。
しかし、彼女は違った。
彼女は、何事も無かったかのように、ただそこに佇んでいた。黒い男の脅威に晒されていたことすら気付かなかったかのように、あるいは最初からそんな男など存在していなかったかのように。彼女の白い薄衣は、相変わらず完璧な優雅さで揺らめいている。恐怖も、驚きも、安堵も、その冷徹な美貌には一切浮かんでいなかった。彼女は僕を一瞥することすらなく、ただその場から、いつもの速度で静かに立ち去っていった。
「……あぁ、なんて素晴らしいんだ」
僕はその場にへたり込みそうになりながら、去りゆく彼女の背中を、熱い吐息とともに見つめた。命の危機に瀕してもなお、その気高さ、その静けさを失わない。彼女のその絶対的な冷徹さに、僕は恐怖するどころか、ますます深く、底なしの沼に沈むように惚れ込んでしまったのだ。
しかし、運命はあまりにも残酷だった。
その夜、街を未曾有の大嵐が襲った。窓の向こうは完全に濁り、激しい奔流が街の全てを激しく揺さぶった。家々の防壁は悲鳴を上げ、僕も自分の家の奥深くで、ただ嵐が過ぎ去るのをじっと耐えるしかなかった。外に出ることなど到底不可能な、荒れ狂う夜だった。僕は嵐の轟音を聞きながら、彼女の身を案じ続けた。あの華奢な身体が、この猛烈な嵐に巻き込まれて傷ついてはいないだろうか。
長い、本当に長い夜が明け、次の日、嵐は嘘のように去り、街には再び静謐な青い光が戻っていた。
僕は一睡もできぬまま、這い出るようにして街へ向かった。彼女の安否を確かめたい、その一心だった。いつもの通り、彼女がよく通る場所、出会ったあの角。僕は狂ったように街中を探しま回った。
けれど、彼女の姿はどこにもなかった。
一日中、街の隅々まで目を凝らしたが、あの銀色にきらめく美しい薄衣も、世界を拒絶するような横顔も、二度と僕の視界に現れることはなかった。彼女は、あの激しい嵐から逃れるために僕の知らないどこか遠くの街へと、気まぐれに旅立ってしまったのだろうか。
それからの僕は、魂を抜かれた抜け殻のようになってしまった。何日経っても諦めきれず、僕は青い光が満ちる街を、ふらふらと宛てもなく彷徨い続けた。すれ違う誰の姿も、僕の瞳には映らない。探しているのは、ただ一人だけだ。
「どこへ行ってしまったの……。僕は、まだ君に、何も伝えていないのに」
零れ落ちた言葉は、冷たい空気の中に溶けて消える。彼女と一緒になりたい。彼女の笑顔が見たい。それが高望みだと言うのなら、せめて、この胸を焦がし続けた想いだけでも伝えたかった。
そんな僕の絶望に追い打ちをかけるように、数日後、再び街に大嵐が到来した。前回のものを遥かに凌ぐ、世界がひっくり返るような大激流だった。街の構造物すらも根底から覆しそうな猛烈なうねりの中で、僕は自分の家に戻ることすらできず、ただ濁流に翻弄されていた。抗うことのできない巨大な力に身を任せ、暗い底へと沈みかけていた、その時だった。
激しく渦巻く奔流の向こうから、一条の銀色の光が近づいてくるのが見えた。
まさか、と思った。その優雅な、しかし嵐の力に翻弄されながらも凛とした身のこなし。それは、僕が狂おしいほどに探し求めていた、彼女だった。
奇跡は起きた。激しい濁流が、僕と彼女の距離を急速に縮めていく。ついに、僕たちの身体が触れ合うほどの距離に達した。嵐の轟音の中、僕たちは言葉を交わすことすらできなかったが、そんなものは必要なかった。渦巻く激流に身を委ね、僕たちはまるで互いを求め合うように、絡み合い、円を描いて回り始めた。
それは、狂暴な嵐の中で行われる、あまりにも美しく切ない舞踏だった。彼女の薄衣が僕の身体にまとわりつき、僕の頼りない腕が彼女をそっと抱きとめる。言葉のない世界で、ただ二人の存在だけが確かにそこにあった。夢のような、永遠にも思える時間。その最高潮の瞬間、僕は見た。いつも冷徹で、氷のようだった彼女の表情が、ほんの一瞬だけ、確かに緩んだのを。彼女が、僕に向かって、優しく微笑んでくれたのだ。
その瞬間の歓喜を、僕は生涯忘れないだろう。胸が熱くなり、世界が光で満たされたように感じた。
しかし、幸福な時間はあまりにも短く、残酷に断ち切られた。
激流に乗って、どこかの誰かの家だったのだろうか、巨大な構造物の破片が猛烈な速度で飛んできた。それは避ける間もなく、僕の背後から直撃した。強烈な衝撃が全身を貫き、僕の意識は暗転した。
どれほどの時間が経ったのだろう。
薄暗い光の中で、僕はゆっくりと意識を取り戻した。全身を苛む激しい痛みに、僕は自分がまだ生きていることを知った。しかし、身体を動かすことはおろか、指一本動かす気力すら残っていなかった。
ふと気づくと、僕の身体は、温かく柔らかな何かに優しく包まれていた。
視線を巡らせると、それは彼女だった。しかし、あの見惚れるほどに美しかった彼女の姿は、見る影もなく傷ついていた。銀色にきらめいていた薄衣はあちころが引き裂かれ、ズタズタに破れて僕の身体に絡みついている。かつての優雅な輝きは失われ、ただボロボロになった姿で、それでも僕を守るように、その身を挺して包み込んでくれていたのだ。
僕の意識は、今度こそ本当に絶え絶えだった。命の灯火が消えかけているのが自分でもよく分かった。それでも、僕の胸を満たしていたのは、凍えるような絶望ではなく、満ち足りた幸福感だった。彼女が僕を包んでくれている。この人生の最後に、これ以上の幸せがあるだろうか。
「あぁ……嬉しいよ……」
声にならない声を漏らしながら、僕は彼女のボロボロになった身体に、最後の力を振り絞って寄り添った。けれど、意識の底へ沈みゆく中で、どうしても消えない小さな悔恨が、泡のように胸の奥から湧き上がってくる。
「だけど……せめて、想いだけでも……伝えられたら、よかったのに……」
僕の視界は、ゆっくりと暗闇に閉ざされていった。
「おい、またこれか。本当に厄介なものだ」
強い日差しが照りつける海上で、漁船のデッキに立つ漁師が顔を顰めながら、引き上げた網を乱暴に揺すった。
網の目には、大量の魚に混じって、どろどろに溶けかけた大きな半透明のクラゲの死骸が絡みついていた。その傘と無数の触手には、嵐の夜にどこからか流れ出たのであろう、すっかりズタズタに引き裂かれて汚れ、ロゴの印刷も剥げかけた透明なビニール袋が、まるで心中でもしたかのように、頑固に、そして深く巻き付いていた。
「最近の海は、プラスチックのゴミだらけで本当に嫌になる。こういう奴らが餌と間違えて巻き付いて死んじまうんだから、網が痛むだけだ。早く海へ返しちまえ」
漁師は吐き捨てるように言うと、手にした道具で、クラゲの死骸ごと、そのボロボロのビニール袋を船縁から乱暴に突き落とした。
二つの塊は、白い泡を立てながら、再び青く濁った深淵の底へと、言葉もなく静かに沈んでいった。
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