無能の私
1
神殿地下の石牢は、昼も夜もわからない。
湿った石壁からは冷気がにじみ、鉄格子の向こうには灯りひとつない。かすかな水滴の音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいた。
牢の中央に、虹色に発光するオパールでできたような柱が立っていて、床と天井を貫いていた。
私、エリアナ・ヴェルモントは聖女であり、王子フェリクスの婚約者でもあった。だが今やその肩書きは何の意味も持たない。私は国防上の機密を隣国に漏らした罪で投獄されていた。
牢の名は――聖女牢。
聖女の聖力を、最後の一滴まで搾り取るための牢である。
その存在は秘匿されており、聖女である私ですら知らなかった。聖女は神殿に仕え、国を守る結界を維持する存在。だがその終わり方については、誰も語らない。
だから私は、ここに連れてこられて初めて知ったのだ。
聖女に墓はない。
その命は、この地下で尽きる。
石床に横たえられたまま、輝く柱――要石が私の聖力を搾り取っていく。
見えない糸のようなものが体の奥から引きずり出され、吸い上げられる。それは体の奥を削られていくような痛みだった。
呼吸をするたびに胸が焼け、指先までどくどくと脈が打つのを感じた。喉は乾き、声を出そうとしても空気がかすれるだけだ。
それでも聖力は吸い上げられ続けた。やがて痛みの感覚すら曖昧になり、世界が暗く沈んでいく。
――ああ、終わるのだ。このみじめな人生が。
まぶたの裏に、婚約者フェリクスと恋人カミーラがよりそっている姿が浮かんだ。夜会の場で私が反逆者として取りおさえられた時、カミーラは嗤っていた。
直感した。彼女が文書を偽造し、私を陥れたのだと。
そして私は、死んだ。
――と思った。
気がつくと、風が頬を撫でていた。
明るい光に目を細める。石の匂いも湿った冷気もない。代わりに花の香りが漂っている。
私は、自室のバルコニーに立っていた。
――――
「エリアナ様、またそのような格好で」
裸足でバルコニーに出ていた私は、そのとげのある声に振り返った。
自室のバルコニーに出るのは、私の唯一の息抜きだ。
侍女のマリアンヌが眉をひそめる。彼女の声には、呆れといつもの軽蔑が滲んでいた。
「無能の上に、気がふれているんじゃないですか。床を汚さないでください」
朝露で足が濡れている。裸足の私の足はじんじんと冷たさを訴える。
「……あの、マリアンヌ、これは」
混乱していた。私はさっき死んだのではなかったのか。これは夢なのだろうか。
「本日は、座学の後、午後にカミーラ公女殿下から、王宮のサロンにご招待を受けております」
マリアンヌは私の様子にまったく注意を払わず、それだけ言うと、テーブルに食事を置いて出て行った。
私は部屋にもどり、雑巾で足をぬぐった。
マリアンヌの言うとおり、私はおかしくなったのだろうか。
さっきマリアンヌは、今日はカミーラと約束があると言っていた。カミーラにサロンに呼び出されたのは、三か月くらい前ではなかっただろうか。
今までのことは夢だったのだろうか、それとも今が夢なのだろうか。
盆の上では、美しい磁器の皿に、冷めた野菜くずの浮いたスープが入っていた。そして、硬いパンが添えられている。
平民だってこんな固いパンは食べない。どこから調達してくるのだろう。逆に手間がかかるのではないだろうか。
私は味のしない食事を口に運んだ。急いで食べないと、次にマリアンヌが戻った時に食事が終わっていなければ下げられてしまう。
どんな食事でも、食べなければ身体を維持できない。味がしないだけで痛みがあるわけではないのだから、食べることはできる。
楽しもうとしなければいいだけだ。
私は、この王国で最も惨めな存在だった。
このスープのように、飾り立てられた器に入れられた粗末な中身。
無能の加護なし聖女。それが私だ。
聖女だったため、貴族に養女として引き取られ、第三王子フェリクス殿下の婚約者に選ばれた。それは傍から見れば栄光の階段を駆け上がる人生のはずだった。
私が聖女に選ばれたのは、五歳の時だった。
洗礼の儀式で、神殿の中央に建てられた柱、要石を光らせた。ただそれだけ。それで私は突然聖女になってしまった。
その場で実の親と引き離され、貴族の養女となることが決まった。聖女は王家の者と縁組する習わしだった。
歴代の聖女たちは、豊穣や、魔獣除けの結界術など、その時代に合った能力を、加護として神から与えられると言われている。
だから、私にも何かしらの力はあるはずだった。しかし、私は修行しても何の能力も現れず、聖力はあるものの、与えられた能力が何かわからなかった。洗礼の日から五年、十年とたち。
私はついに十七歳になった。相変わらず私は何もできない。
この年齢まで能力を発揮できなかった聖女はいない。
次第に周囲は私を無能の聖女と呼ぶようになった。
養父母たちは、最初は優しかった。しかし、次第に私に能力がないことがわかると、政略の駒にしか使えない無能とののしるようになった。
そして貴族令嬢にふさわしい、豪華なしつらえだった部屋は、広いだけで使用人の部屋と同じような最小限の家具が置かれるだけになった。
能力があらわれることはないのではないか――そうとわかってきたとき、幼い私はこれで家に帰れるのではないか? と考えた。
記憶にほとんど残っていない両親が、迎えに来てくれることを、一人ぼっちの夜に夢に見たりもした。
養父母にちやほやされて、忘れてしまった本当の両親。
今更都合よく思い出しても、一度でもそんな風になった私を迎えになんて来てくれないだろう。そう思って、私は都合の良い夢を見る自分を恥じた。
なぜ私には能力がないのだろう。私は何のために聖女になったのだろう。食前の祈りをしながら、神に問いかける。神は答えてくれない。歴代には神の声を聞くことができる聖女もいたらしいというのに。
口に含んだスープには味がしない。元々味がついていないのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
私は機械的に食事をした。
食事が終わるころ合いに、マリアンヌがやってきた。
私に伯爵令嬢として、それなりの身支度をさせるためだ。
地味な茶色の髪が、雑にとかされる。痛いが、伝えても無視されるだけだ。子どもの頃からあまりに無視されるので、慣れてしまった。
固くて重い質感のクリームが顔にのばされ、粉がはたきこまれる。鼻の奥を刺すような香料の甘さが、古い油と混じってねっとりと絡みつく。
粉で塗りつぶされた皮膚の上に、新しい顔が描かれる。彫りを消し、のっぺりとした白すぎる肌。眉は極端に上に、下がり気味に。鼻先の丸さを強調し、鼻の下に大きなつけぼくろを。表情に乏しい、道化のような間の抜けた顔が出来上がる。
鏡に映ったマリアンヌが意地悪く嗤う。
現実は、まるで毒薬のように少しずつ私を蝕んでいく。
何もかもが三か月前と同じだった。
まさか、私は回帰したのだろうか。
どうして、という疑問より先に、胸の奥に重い感情が広がった。
――――――
「エリアナは本当に鈍臭いのね。こんな簡単な刺繍もできないなんて」
公爵令嬢カミーラの声がサロンに響く。豪奢な金の髪、バラ色の唇。口調はあくまでも優雅に、悪意など全くないように。
貴人はいつもそうやって毒を言葉に仕込む。
「カミーラ様がお手ずからお教えくださっているというのに」
「聖女として無能なのに、令嬢としてのたしなみもないなんて」
「やはり平民ではねぇ」
彼女の周りには常に取り巻きの貴族令嬢たちがいて、私を嘲笑う。
「申しわけございません」
私は頭を下げる。何度目かもわからない謝罪。膝の上の刺繍には、わざと針で私の手を突いた取り巻きの一人のせいで、赤い血の染みが広がっていた。
「ああ、エリアナ。君はどうしてそんなに不器用なんだ?」
侍従を連れて現れたのはフェリクス殿下だった。この国の第三王子。金色の髪、碧眼、整った顔立ち。
私を見る彼の顔には、失望と憐れみが混ざった表情が浮かんでいる。
「やあ。カミーラが、今日はサロンで刺繍の会だというから、様子を見に来てしまったよ」
「まあ、いやだわフェリクス。女性だけの集まりなのよ。ないしょの話だってたくさんしてしまうのに」
「カミーラのことなら何だって知りたいんだよ」
「ふふ、女には秘密が必要ですの」
フェリクスは軽やかな足取りで、カミーラの椅子の後ろにまわり、腕を彼女の肩にまわした。二人は見つめ合って会話を続ける。
取り巻きたちは、絵のような二人をうっとりと眺める。
フェリクスとカミーラはいとこ同士で、幼なじみだった。聖女の私があらわれなければ、二人は結婚していたはずだったそうだ。皆がそう言っていた。
カミーラ様の代わりにつかまされたのが、無能の聖女で、フェリクス殿下はおかわいそうだ、と。
「エリアナはまた失敗したのか。カミーラの爪の垢でも煎じて飲めばいいのに」
殿下の言葉に、部屋中が笑いに包まれた。
殿下、私を見てください。血を流しているのです。痛いのです。見えない痛みは存在しないのでしょうか。
私は心の中で泣いている。淑女は泣いたりしてはいけないから、厚い化粧の下に心を隠している。
私の胸に、冷たく重い何かが沈んでいく。それは悲しみでも怒りでもない。諦念という名の、透明な絶望だった。
初めて会った時から、フェリクスは私が婚約者であることが不満なようだった。「なんだ、この貧相な女は」と言われた。
それでも、無能の聖女の私に残された使命は、王子妃となる事だったから。
フェリクスにふさわしい淑女になれたなら。彼が満足できる女性になれたなら。
私は王子妃になるべく与えられた教育に取り組んだ。私はそれだけにしか、生きている意味を見出すことができなかったから。
王子妃になりさえすれば、一人の人間として認められ、未来はすべて良くなる、そんな希望を抱いていた。
他人に都合の良い未来を期待する、それはある種の恋でもあった。
私は刺繍だってちゃんとできるのだ。フェリクスに刺繍入りのハンカチを贈ったこともある。なのに、なぜ。
――いや、彼は私の刺繍したハンカチなど、見てはいないのだ。
――――
深夜、私は部屋のバルコニーから星を眺めていた。
なりたくてなった立場ではない。それでも努力したし、我慢してきた。
能力があらわれることはないのではないか――そうとわかってきたとき、私はこれで家に帰れるのではないか? と考えた。
けれど、そうはならなかった。要石を輝かせる能力のあった私は、そのままとどめ置かれた。自分から帰るとは言えなかった。私がそう言ったために、平民の家族に何か害があってはと考えたからだ。
そして何より、無能の私を元の家族がどう思うか、受け入れてくれなかったらと考えると恐ろしかった。
もしも、あの日洗礼に行かなかったら。
もしも、家族が私を貴族に渡さないでいてくれたら。
もしも、フェリクスと初めて会った時、何か言い返していたら。
もしも、私に加護があったなら――
もしも、もしも――
バルコニーの風が少し強く吹いた。
私はゆっくりと目を閉じる。もし本当に時間が戻ったのなら。また同じ日々を生きることになる。
また侮られ、また傷つき、そして最後には――あの牢に送られるのだ。
私はまた、同じ絶望を繰り返すのか。
耐えられない、と思った。
私は寝衣のポケットに手を入れ、小さな栞を取り出す。淡い青の花の押し花が貼られた栞だ。
それは婚約が決まった日に、フェリクスから贈られた花だった。
栞を強く握りしめる。
私は手すりに手をかけた。
その向こうには庭園が広がっている。
遥か下の石畳が、月光の中で白く光っていた。
体を乗り出すと風が寝衣の裾を揺らした。
私は栞を握りしめ、体を前へと傾けた。
足元から世界が消える。風が強く吹き上がり、視界が回転した。
空と石畳が入れ替わる。
次の瞬間、衝撃が体を貫いた。
――痛い。
そして世界は、再び暗闇に沈んだ。
――――――
「エリアナ様、またそのような格好で――」
侍女のマリアンヌのとげのある声がする。
気づけば、私は今日の朝に戻っていた。
2
「エリアナ様、またそのような格好で――」
裸足でバルコニーに出ていた私は、そのとげのある声に振り返った。
侍女のマリアンヌが眉をひそめる。彼女の声には、呆れといつもの軽蔑が滲んでいた。
私はとっさの何も言い返すことができなかった。
何が起こったのだろう。私は夜のバルコニーから身を投げたのに。
これは悪夢の続きなのだろうか。
私は握りしめた手のひらを開いた。くしゃくしゃになった栞があった。
飛び降りたのが夢ならば、なぜこんなものを握りしめているのだろう。
そう思った瞬間、指先に妙な感覚が走った。
――しびれている。
強く握りすぎたのだろうか。指を動かしてみるが、感覚は戻らない。
私はは首をかしげながら栞を見つめた。
「無能の上に、気がふれているんじゃないですか。床を汚さないでください」
私の様子はおかしいと思うのだが、マリアンヌにとっては、それはどうでもいいようだった。昨日と同じ小言が蹴り返される。
「掃除をするのは私だわ。外に出て何が悪いの」
思わずそう口にしてしまった。
「えっ」
マリアンヌの目が驚きに見開かれる。いつもの私なら、すぐに謝罪してうつむいてしまうはずだった。
私自身も驚いた。
マリアンヌは私の反論を無視することに決めたようで、次の言葉をつづけた。
「本日はカミーラ公女殿下から、王宮のサロンにご招待を受けております」
私はもう一度驚いた。
「それは昨日のことではないの?」
「何を言っているんですか? 昨日は孤児院へ慰問に行かれたではないですか」
「…………」
どういうことだろう? 新しい嫌がらせだろうか。
マリアンヌは私の食事を机の上に置くと、部屋を出て行った。
昨日と同じ柄の皿に、昨日と同じスープが盛り付けられている。もっとも、スープは毎日かわりばえしない。
私は食事をする前に、机の引き出しを開けた。そこにいつも栞をしまっている。
くしゃくしゃになってしまったが、栞をしまおうと思ったのだ。
引き出しの中には、使い込んだペン、インク、便せんなどが入っている。
そして、青い花の押し花の栞があった。
「えっ」
私は手の中の皺のよった栞と、引き出しの中の栞を見比べた。
同じもののはずはない。自分で作った栞なのだ。二つと同じものはないはずなのに。しかし、私が握りしめたあとがある以外は、全く同じ物に見えた。
ありえないものがある――
背筋に冷たい震えが走った。
私は震える手で栞を引き出しにしまった。
まとまらない思考を無理にまとめようと考え続ける。食事はいつも以上に味がしなかった。
食事が終わると、外出のためにマリアンヌが出してきたドレスは昨日と同じものだった。
同じ服を二日続けて着せようとするなんて、やはり嫌がらせだろうか。いや、違う。
血の染みがない。
昨日のドレスには、針で突かれた時に血がついていた。伯爵邸に帰ってから染み抜きをした。執事のゴードンに見つかって、叱責され、ドレスは取り上げられた。
今ここにあるのはおかしいのだ。
二日続けて同じドレスで、王宮の誰もいないサロンに私を向かわせて、笑い者にしようというのだろうか。
そんな手の込んだいたずらをするだろうか。固いパンを調達するのとはわけが違う。
そうだ、昨日私の指は傷つけられ、血が流れたはず。そう思って確認すると、指にあったはずの刺し傷が消えていた。治ってしまったのだろうか? 私はまた二つの栞を見た時のような寒気を感じた。
マリアンヌに鏡台の前に座らせられ、髪を結われた。
マリアンヌは、私の顔に白粉を塗りはじめた。
私はふと思いついて、マリアンヌに言ってみた。
「そのふざけた化粧をやめてちょうだい」
カミーラのように。貴人のやり方はよく知っている。
「あなた、長く侍女をやっているのに、そんな腕前で伯爵家にふさわしいと言えるのかしら?」
その言葉と同時に、私の指先がじんとしびれるような感覚があった。さっき、マリアンヌに言い返した時にも、同じしびれた感じがあった。
そして、膝の上てそろえた指先が薄く透けていくのが見えた。これはいったい何だろう。
昨日と違うことをするとこうなるの?
私はマリアンヌのことを忘れて、考えこんでしまった。
私が黙ってしまったので、彼女は私の言ったことを無視することにしたようだった。
気がつくと、昨日と同じまぬけな白塗りの顔をした女ができあがっていた。
――――――
「エリアナは本当に鈍臭いのね。こんな簡単な刺繍もできないなんて」
カミーラの声が、サロンにまた響いた。
城に着くと他の令嬢たちはまだ来ていなかった。
少しでも遅れたりしたら、何を言われるかわからない。いつも一番最初に来て待つようにしている。昨日もそうしていた。
待っている間、ずっと、やはりこれは嫌がらせで、これから恥をかかされるのだろうと身構えていた。
しかし、昨日と同じように令嬢たちは集まり、歓談をはじめ、刺繍の会が始まってしまった。
全てが昨日と同じだった。私が昨日と思っていたものは、夢だったのだろうか。そんな風に考え始めた時――
彼女の取り巻きの一人、ロレッタが微笑みながら私の指を針で突こうとした。
しかし、痛くない。
爪に彩色されているせいでわかりにくいが、私の指先は半透明になっている。刺繍枠を持っていた左手の、透明な親指を刺されたのだ。
針は私の指を通り抜けた。痛みもなく、血も出ない。
私は驚いた。
痛くない、という事実が、何か異常なことが起こっているというとまどいより、私の心の恐怖を消した。
ロレッタは手ごたえの無さに戸惑って、こちらを見つめている。
不思議な高揚感にとらわれて、私は立ち上がった。
ロレッタの手首を、彼女が動く直前に優雅につかんだ。そしてその瞳を見つめた。
「まあ、ロレッタ様。どうなさったの」
私はにっこりと微笑む。
ロレッタの顔は笑顔のまま固まっている。私が動くと思わなかったのだろう。
「こ、これは――」
「針を落とされたのですか? 危ないですわ」
私は彼女の手から針を取り上げ、ゆっくりとテーブルを半周回ってカミーラの裁縫箱の横にわざとらしく置いた。
カミーラの表情が微かに歪む。
「エリアナ、それはロレッタの針よ」
「そうでしょうか、カミーラ様」
周囲がざわつく。私は挑戦的にカミーラを見下ろした。
そして――
「エリアナ?」
昨日と同じように、サロンにフェリクスがあらわれた。彼の声には、僅かな戸惑いが混じっていた。
私は彼を見上げた。いつもなら俯いていたはずの私が、まっすぐに彼を見つめた。
フェリクスはほんの少し息をのんだ。そして、その碧眼に好奇心をのぞかせた。
「殿下。私はカミーラ様のご不興をかったようですので、本日は失礼いたします」
「エリアナ、あなた……」
カミーラが低い声で言う。
私は微笑んだ。不思議なことに、心臓は静かだった。苦痛がないとは、これほど人を強くさせるのだろうか?
――――
その夜、屋敷に戻った私は、義父の執務室へ向かった。
一日を過ごし、私は確信した。これは三度目の「今日」なのだ。
――時間遡行。
それが私の能力だったのだ。やっと覚醒した。
これを義父に報告すれば、もう無能と誹られることは無くなる。また、私を娘と呼んで、微笑んでくれるだろうか?
みじめな人生を繰り返すことは無い。私は自分の未来を変えていくことができる。
自然と頬が緩んで口角が上がる。私は笑っているのだ! 何年ぶりのことだろう。
廊下をスキップせんばかりの軽い足取りで歩く私を見て、使用人たちがぎょっとしているようだが、今は気にならない。
窓ぎわに飾られた花の色が鮮やかだ。世界はこんなに美しかっただろうか。
義父の執務室のドアをノックする。胸が痛くなるほど動悸がした。
義父は、私が入室しても、書類から顔を上げることはなかった。私が失望させたせいで、彼は私の姿を目に入れることすら嫌なようだった。
「なんだ」
不機嫌な声だった。
「お義父様! ご報告があります。 私の加護が分かりました!」
「何だと! やっとか! どんな能力を授かったのだ」
さすがに義父は顔をあげた。喜色を浮かべ、私に破顔してみせた。
私も微笑む。頬に自然と血が昇った。昔、初めて会った時のようだ。
「時間遡行です」
ほてる頬を押さえて私は答えた。
「何だそれは?」
「 時間をさかのぼることができるので……す……」
話していて私は気がついた。
この能力はどうやって人に見せればいいのだろう?
私が焦りながら言いよどんでいると、義父はまた不機嫌になった。
「能力がないからと言って嘘までつくのか」
義父は、怒気をはらんだ冷たい声で言い放つ。
「お義父様、嘘ではありません!」
「私の時間を無駄にさせおって!」
「話を聞いてください!おとう……」
頬に熱い衝撃があり、よろけて後ろに転んだ 。義父の投げつけた辞書がどさりと床に落ちた。私は壁に頭を打ちつけた。
なんという事だろう。私は失敗した。義父が杖を手にするのが見えた。怒りでドス黒い顔色をした義父が杖を振り下ろす。何のためらいもなく。
彼は、はっきりとした殺意を持っていた。
――殺される。
私の身体は私を守ろうとして強張った。予感される痛みと恐怖が、頭の中をかき回し、乱した。私に父の杖が振り下ろされ、肉体の破壊される衝撃を感じた。
その瞬間私は時を飛んだ。前回と違い、意識的に。力の使い方は自然に分かった。
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