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禁断のカカオ・フォーミュラ

作者: 宮野夏樹
掲載日:2026/02/15


 世界は、すべて20度から22度の間で管理されるべきだ。湿度は50%以下。それが、人類が───いや、ショコラが最も美しく存在できる絶対領域テリトリーなのだから。


 都内の一等地、漆黒の外観が異彩を放つショコラトリー『レ・ゼキゾチック』。店主兼ショコラティエの御子柴みこしばるいは、今日も顕微鏡を覗き込みながら、カカオ豆の結晶構造と対話していた。


 業界での異名は「黒い錬金術師」。だがその実態は、人間との会話よりもカカオの油脂分ココアバターの融点を語る方を好む、コミュニケーション不全の変態である。


「……計算が合わない。このベネズエラ産クリオロ種が持つ微かな酸味は、人間の汗に含まれる塩分濃度と干渉しすぎる。接客など、カカオに対する冒涜だ」


 彼は本気でそう信じていた。その日までは。




 それは、春一番が吹き荒れ、湿度が急上昇した不快な午後だった。自動ドアが開き、一人の女性が飛び込んできた。強風で傘を壊したらしい彼女は、肩で息をしながら、濡れた前髪をかき上げた。


「すみません……少しだけ、雨風を凌がせていただいても?」


 御子柴は、手元の温度計を投げ捨てた。彼女の瞳。それは、最高級のキャラメリゼが放つ琥珀色の輝き。彼女の肌。それは、精製したてのホワイトチョコレートのような透明感。そして彼女が纏う、雨に濡れた初夏の草花の香り。


「…………72.5%だ」

「えっ?」

「あなたの存在をショコラとして再構築した場合の、理想的なカカオ含有率です。……素晴らしい。数学的に導き出された黄金比だ」


 初対面の男にパーセンテージを叩きつけられ、女性は呆然としていたが、御子柴の脳内ではすでに工場がフル稼働していた。恋? いや、これは「究極の創作意欲」という名の暴走である。




 翌日から、御子柴は店を臨時休業にした。表に「ミューズ降臨につき開発中」という、客が読めば混乱間違いなしの看板を出し、厨房に引きこもった。


「彼女の微笑みを再現するには、マダガスカル産カカオに含まれるベリー系の酸味では鋭すぎる。もっと、エクアドル産のフローラルな香りをベースに、生クリームの脂肪分を38%に固定して……」


 彼は狂っていた。彼女が去り際に残した空気の揺らぎを再現するため、気圧計を睨みながらキャラメルを炊き上げる。


 彼女の声の周波数を可視化し、それに共鳴する粒度のカカオパウダーを特注した。食事はサプリメントと高カカオチョコのみ。三日三晩、彼は眠らずにチョコを練り続けた。


「見えた……。これだ。この一粒こそが、彼女という現象の数学的証明だ!」


 完成したのは、一見するとただのボンボンショコラ。しかしその内部は、五層に分かれた異なる温度帯のガナッシュが、口内で段階的に溶け出す「時間差の芸術品」であった。




 一週間後。予報通りの晴天。彼女が再び店を訪れた。雨宿りのお礼を言いに来たのだ。


 御子柴は、数日間風呂にも入らずカカオの粉末にまみれた姿で、祭壇に捧げるかのようにその一粒を差し出した。


「これを受け取ってください。あなたの分子構造を完全にトレースした、世界で唯一の物質です。……僕と、生涯をかけてカカオの可能性を追求(交際)してくれませんか!」


 渾身の告白。


 しかし、彼女の視線は御子柴の顔ではなく、その背後───厨房で激しく回転している大型の攪拌機コンチェに向けられていた。


「あの……すごく、情熱的なのは伝わります。でも、ごめんなさい。私、先月結婚したばかりなんです。 今日はお礼と、夫と食べるおやつを買いに来ただけで……」


 御子柴の思考回路がショートした。計算外。致命的な変数パラメータの入力漏れ。「既婚」という名の巨大な壁が、彼の完璧な理論を粉々に粉砕した。


「……夫。配偶者。婚姻届による法的なバインド。なるほど、それは……僕の計算式には含まれていなかった事象だ」

「すみません、本当に……あ、でもこのチョコ、いただいても?」

「どうぞ。……それはもう、僕にとっては『過去のデータ』ですから」


 御子柴は、完璧な無表情で彼女を見送った。自動ドアが閉まった瞬間、彼はその場に膝をついた。カカオの香りが、今はひどく鼻についた。




 その夜。御子柴は行きつけのバー『ビター・エンド』のカウンターで、炭酸水をすすっていた。酒は飲まない。味覚が狂うからだ。隣では、幼馴染の腐れ縁、佐伯さえきしんがゲラゲラと笑っていた。


「ひでぇな、お前。相手の左手も見ずにチョコ練ってたのかよ。観察眼の無駄遣いだな」

「黙れ。僕は彼女の細胞レベルの輝きを見ていたんだ。指輪などという無機物に興味はない」

「だから振られるんだよ、カカオ野郎。ほれ、その自信作、俺が食ってやるよ」


 慎は、御子柴が余らせた「至高の一粒」を口に放り込んだ。───次の瞬間、慎の動きが止まる。


「…………おい。これ、ヤバいだろ。甘いのに、胸の奥がキリキリするくらい切ないぞ。お前、天才を通り越してただの呪術師だな」

「それは『陽だまりと喪失』の味だ。もうどうでもいい。僕はカカオと共に孤独死する道を選ぶ」

「極端なんだよ。あ、そうだ。ちょうどいい。俺の妹が海外の製菓学校から帰ってきたんだ。あいつもお前並みに性格がねじ曲がってるから、一度会ってみろよ」

「……慎。断る。僕は今、人間という種族に絶望しているんだ」




 数日後。店のベルが、これまでにないほど乱暴に鳴り響いた。現れたのは、ライダースジャケットを羽織り、派手なピアスを揺らした女性だった。


「あんたが、兄貴が言ってた『カカオと心中しそうな変態』?」

「……誰だ、君は」

りんよ。佐伯慎の妹。あんたの作ったチョコ、兄貴に無理やり食わされたわ。……反吐が出るほど甘ったるかった」


 御子柴の眉間が跳ねた。


「甘ったるい?  あれは緻密に計算された糖度と酸味の───」

「あんなの、ただの『自分に酔ってる男』の味でしょ。素材が泣いてるわ。もっとカカオの『暴力性』を引き出せないの?」


 御子柴の脳内に、火花が散った。静かな琥珀色ではない。これは、燃え盛る火山のような、あるいは神経を逆撫でするような鮮烈な赤。


 彼は無言で、棚からチリパウダーと山椒、そしてカカオ99%の塊を取り出した。


「……面白い。君というノイズを、どうやってショコラとして調教コーティングするか、興味が湧いた」

「はあ?  調教?  警察呼ぶわよ、この変態」

「座れ。今、君を理解するための『レシピ』を組む」


 御子柴は、顕微鏡を再び引き寄せた。失恋の傷? そんなものは、新しい刺激的な変数の前では消滅する。


 カカオは嘘をつかない。そして、変態の探究心もまた、決して底をつくことはない。厨房に、再びコンチェの回る音が響き渡る。


 降って湧いたカカオの神様は、今度はニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべていた。

バレンタインにUPし損ねました。

ハッピーバレンタイン!

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