禁断のカカオ・フォーミュラ
世界は、すべて20度から22度の間で管理されるべきだ。湿度は50%以下。それが、人類が───いや、ショコラが最も美しく存在できる絶対領域なのだから。
都内の一等地、漆黒の外観が異彩を放つショコラトリー『レ・ゼキゾチック』。店主兼ショコラティエの御子柴累は、今日も顕微鏡を覗き込みながら、カカオ豆の結晶構造と対話していた。
業界での異名は「黒い錬金術師」。だがその実態は、人間との会話よりもカカオの油脂分の融点を語る方を好む、コミュニケーション不全の変態である。
「……計算が合わない。このベネズエラ産クリオロ種が持つ微かな酸味は、人間の汗に含まれる塩分濃度と干渉しすぎる。接客など、カカオに対する冒涜だ」
彼は本気でそう信じていた。その日までは。
それは、春一番が吹き荒れ、湿度が急上昇した不快な午後だった。自動ドアが開き、一人の女性が飛び込んできた。強風で傘を壊したらしい彼女は、肩で息をしながら、濡れた前髪をかき上げた。
「すみません……少しだけ、雨風を凌がせていただいても?」
御子柴は、手元の温度計を投げ捨てた。彼女の瞳。それは、最高級のキャラメリゼが放つ琥珀色の輝き。彼女の肌。それは、精製したてのホワイトチョコレートのような透明感。そして彼女が纏う、雨に濡れた初夏の草花の香り。
「…………72.5%だ」
「えっ?」
「あなたの存在をショコラとして再構築した場合の、理想的なカカオ含有率です。……素晴らしい。数学的に導き出された黄金比だ」
初対面の男にパーセンテージを叩きつけられ、女性は呆然としていたが、御子柴の脳内ではすでに工場がフル稼働していた。恋? いや、これは「究極の創作意欲」という名の暴走である。
翌日から、御子柴は店を臨時休業にした。表に「ミューズ降臨につき開発中」という、客が読めば混乱間違いなしの看板を出し、厨房に引きこもった。
「彼女の微笑みを再現するには、マダガスカル産カカオに含まれるベリー系の酸味では鋭すぎる。もっと、エクアドル産のフローラルな香りをベースに、生クリームの脂肪分を38%に固定して……」
彼は狂っていた。彼女が去り際に残した空気の揺らぎを再現するため、気圧計を睨みながらキャラメルを炊き上げる。
彼女の声の周波数を可視化し、それに共鳴する粒度のカカオパウダーを特注した。食事はサプリメントと高カカオチョコのみ。三日三晩、彼は眠らずにチョコを練り続けた。
「見えた……。これだ。この一粒こそが、彼女という現象の数学的証明だ!」
完成したのは、一見するとただのボンボンショコラ。しかしその内部は、五層に分かれた異なる温度帯のガナッシュが、口内で段階的に溶け出す「時間差の芸術品」であった。
一週間後。予報通りの晴天。彼女が再び店を訪れた。雨宿りのお礼を言いに来たのだ。
御子柴は、数日間風呂にも入らずカカオの粉末にまみれた姿で、祭壇に捧げるかのようにその一粒を差し出した。
「これを受け取ってください。あなたの分子構造を完全にトレースした、世界で唯一の物質です。……僕と、生涯をかけてカカオの可能性を追求(交際)してくれませんか!」
渾身の告白。
しかし、彼女の視線は御子柴の顔ではなく、その背後───厨房で激しく回転している大型の攪拌機に向けられていた。
「あの……すごく、情熱的なのは伝わります。でも、ごめんなさい。私、先月結婚したばかりなんです。 今日はお礼と、夫と食べるおやつを買いに来ただけで……」
御子柴の思考回路がショートした。計算外。致命的な変数の入力漏れ。「既婚」という名の巨大な壁が、彼の完璧な理論を粉々に粉砕した。
「……夫。配偶者。婚姻届による法的なバインド。なるほど、それは……僕の計算式には含まれていなかった事象だ」
「すみません、本当に……あ、でもこのチョコ、いただいても?」
「どうぞ。……それはもう、僕にとっては『過去のデータ』ですから」
御子柴は、完璧な無表情で彼女を見送った。自動ドアが閉まった瞬間、彼はその場に膝をついた。カカオの香りが、今はひどく鼻についた。
その夜。御子柴は行きつけのバー『ビター・エンド』のカウンターで、炭酸水をすすっていた。酒は飲まない。味覚が狂うからだ。隣では、幼馴染の腐れ縁、佐伯慎がゲラゲラと笑っていた。
「ひでぇな、お前。相手の左手も見ずにチョコ練ってたのかよ。観察眼の無駄遣いだな」
「黙れ。僕は彼女の細胞レベルの輝きを見ていたんだ。指輪などという無機物に興味はない」
「だから振られるんだよ、カカオ野郎。ほれ、その自信作、俺が食ってやるよ」
慎は、御子柴が余らせた「至高の一粒」を口に放り込んだ。───次の瞬間、慎の動きが止まる。
「…………おい。これ、ヤバいだろ。甘いのに、胸の奥がキリキリするくらい切ないぞ。お前、天才を通り越してただの呪術師だな」
「それは『陽だまりと喪失』の味だ。もうどうでもいい。僕はカカオと共に孤独死する道を選ぶ」
「極端なんだよ。あ、そうだ。ちょうどいい。俺の妹が海外の製菓学校から帰ってきたんだ。あいつもお前並みに性格がねじ曲がってるから、一度会ってみろよ」
「……慎。断る。僕は今、人間という種族に絶望しているんだ」
数日後。店のベルが、これまでにないほど乱暴に鳴り響いた。現れたのは、ライダースジャケットを羽織り、派手なピアスを揺らした女性だった。
「あんたが、兄貴が言ってた『カカオと心中しそうな変態』?」
「……誰だ、君は」
「凛よ。佐伯慎の妹。あんたの作ったチョコ、兄貴に無理やり食わされたわ。……反吐が出るほど甘ったるかった」
御子柴の眉間が跳ねた。
「甘ったるい? あれは緻密に計算された糖度と酸味の───」
「あんなの、ただの『自分に酔ってる男』の味でしょ。素材が泣いてるわ。もっとカカオの『暴力性』を引き出せないの?」
御子柴の脳内に、火花が散った。静かな琥珀色ではない。これは、燃え盛る火山のような、あるいは神経を逆撫でするような鮮烈な赤。
彼は無言で、棚からチリパウダーと山椒、そしてカカオ99%の塊を取り出した。
「……面白い。君というノイズを、どうやってショコラとして調教するか、興味が湧いた」
「はあ? 調教? 警察呼ぶわよ、この変態」
「座れ。今、君を理解するための『毒』を組む」
御子柴は、顕微鏡を再び引き寄せた。失恋の傷? そんなものは、新しい刺激的な変数の前では消滅する。
カカオは嘘をつかない。そして、変態の探究心もまた、決して底をつくことはない。厨房に、再びコンチェの回る音が響き渡る。
降って湧いたカカオの神様は、今度はニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべていた。
バレンタインにUPし損ねました。
ハッピーバレンタイン!




