第2話:甘すぎる誤解と、発音不能な同居人
※本作はカクヨムでも連載しております(同内容掲載)。作者本人による投稿です。
現実逃避はしない。
受験戦争という理不尽なシステムを生き抜くJKに必要なのは、夢を見る力じゃない。現状を打破する「物理的な解決策」だ。
深夜のリビング。
私は、庭のクレーターから引きずり込んだ不審者をソファに転がし、ゼェゼェと荒い息を吐いていた。
「……重っ。なんなのこの人、鉛でも食べてるわけ?」
見た目は細身のモデル体型だ。
無駄な脂肪なんて一ミリも見当たらないし、身長だって百八十センチ台後半といったところだろう。
けれど、質量がおかしい。
引きずっている間、彼の手が床板に擦れるたびに「ゴツッ」と硬質な音が響いた。それは人間の肉や骨が立てる音ではなく、まるで岩石か金属を引きずっているような重厚な響きだった。
ソファのクッションが、悲鳴を上げるように深く沈み込んでいる。
高密度。
そう、この男は存在の密度が違うのだ。
私は汗で額に張り付いた前髪を払い、赤縁メガネの位置を直した。
本来なら、ここで恐怖に震えるのが「か弱い乙女」の正解ルートかもしれない。
けれど、今の私を支配しているのは恐怖じゃない。
もっと切実で、ドス黒い――金への執着だ。
窓の外を見る。
月明かりに照らされた庭には、見事なクレーター。
父が自慢していた芝生は消滅し、黒い土が抉れている。
あれを修復するのにいくらかかる?
十万? 五十万? いや、造園業者を入れたら百万コースか?
私の通帳には、今朝振り込まれたばかりの仕送り「五万円」が入っている。
けれど、そこから食費三万と日用品費五千円を引けば、残る自由なお金はたったの「一万五千円」。
……足りない。桁が二つも違う。
即死だ。
もしこの男が目覚めて、「あー、記憶喪失だわー」とか、「異世界から来ました、通貨持ってません」とか言って逃げ出したら?
その瞬間、私の人生は終了し、ニューヨークへの強制送還が確定する。
「……逃がさない。絶対、逃がさない」
私は、殺し屋のような目つきで納戸へ向かった。
引っ張り出してきたのは、古新聞をまとめるための「ビニール紐」と、引っ越し用の「ガムテープ」。
相手が美形だろうが、怪我人だろうが関係ない。
これは正当防衛であり、債権回収のための担保確保だ。
ソファの上で、死んだように眠る彼に近づく。
ボロボロの軍服越しにも、体温の高さが伝わってくる。
私は躊躇なく、その手首にビニール紐を巻きつけた。
きつく。血が止まるくらい固く。
手首と足首を拘束し、さらに念には念を入れて、彼の胴体をソファの背もたれごとグルグル巻きにする。
黒く豪奢な軍服の上から、安っぽい白いビニール紐が亀甲縛りのように食い込む絵面は、かなりシュールで背徳的だったけれど、背に腹は代えられない。
「よし。これで朝まで動けないはず」
最後に、彼の口元にガムテープを貼ろうとして――手が止まった。
月光に透けるような、白磁の肌。
形の良い唇と、すっと通った鼻筋。
あまりにも顔面が良すぎて、ガムテープを貼るのが美術品への冒涜のように感じられてしまったのだ。
「……チッ。顔が良いって得ね」
私は舌打ちをして、ガムテープをテーブルに叩き置いた。
とりあえず、拘束は完了だ。
明日、彼が目覚めたら、即座に状況証拠を突きつけ、土下座させて誓約書を書かせる。
修理費の見積もりが出るまで、日払いの土木作業だろうが治験だろうが、何でもさせて搾り取ってやる。
完璧だ。
アドレナリンが引いていくと同時に、泥のような疲労感が襲ってくる。
私はジャージの袖で汗を拭い、逃げるように自室へ戻った。
鍵のないドアノブに学習机の椅子を噛ませてバリケードを作り、ベッドに倒れ込む。
大丈夫。
物理的に拘束した。逃げられないはずだ。
そう自分に言い聞かせ、私は意識を手放した。
***
チュンチュン、と小鳥のさえずりが聞こえる。
カーテンの隙間から差し込む朝日が、容赦なく瞼を焼く。
「……ん」
重たい瞼を持ち上げると、見慣れた天井があった。
いつもの朝。
静かで、平和な朝だ。
体を起こし、大きく伸びをする。
昨夜は、なんだかすごい夢を見た気がする。
庭にドラゴンが落ちてきて、それがイケメンになって、私がビニール紐で縛り上げる夢。
受験勉強のストレスが溜まっているのかもしれない。
深層心理で「イケメンを縛りたい」なんて願望を持っていたとしたら、我ながら業が深い。
「……喉、渇いた」
私はあくびを噛み殺しながら、枕元の赤縁メガネを装着した。
ベッドから降り、ジャージの裾を直すのも忘れて部屋を出る。
リビングへ行って冷たい水でも飲めば、この奇妙な夢の残滓も消えるはずだ。
リビングのドアノブに手をかける。
昨夜、バリケードにしたはずの椅子は、元の位置に戻っていた。
ほら、やっぱり夢だ。
そう信じたい自分と、信じきれない自分がいる。
私は心臓の嫌な鼓動を感じながら、ゆっくりとドアを開けた。
「…………」
思考が停止した。
時が止まった。
リビングのソファ。
そこには、夢じゃなかった現実が鎮座していた。
朝日を背負い、優雅に脚を組んで座る男。
逃げていない。ちゃんといる。
ただし、私の想定とは決定的に違う点が二つあった。
一つ目。
私が昨夜、汗だくになりながら巻きつけたビニール紐。
それが、まるで茹で過ぎたパスタのように細切れにされ、床一面に散らばっていたことだ。
切断面を見るに、刃物を使った形跡はない。
ただ純粋な腕力だけで、何重にも巻かれた紐を引きちぎったのだ。
散乱する白い残骸が、私の必死の抵抗が無意味だったことを嘲笑っているように見える。
そして、二つ目。
彼の手にあるものだ。
『甘々♡スクールライフ』
『君に届けたい、永遠の誓い』
『暴君生徒会長の甘美な支配』
私の本棚から消えていた、珠玉の少女漫画コレクション。
しかも、よりによって「初回限定特装版」のボックスセットだ。
全12巻。
それがテーブルの上にタワーとして積み上げられ、彼は今まさに最終巻を読み終え、パタンと閉じたところだった。
「……うそ、でしょ」
声が震える。
彼はゆっくりとこちらへ顔を向けた。
昨夜は煤と血で汚れていた顔が、今は嘘みたいに綺麗になっている。
傷一つない白磁の肌。
濡れたような艶を持つ黒髪。
そして、宝石を溶かしたような黄金の瞳が、寝起きのボサボサ頭&ジャージ姿の私を射抜く。
「……な、何してんの……?」
私の問いに、彼は重低音の美声で答えた。
昨夜よりも低く、深く、腹の底に響く声だ。
「……学習していた」
「は?」
「この世界の理を。そして、人間との契約の儀式を」
彼は真顔で、積み上げられた少女漫画の塔を指差した。
その表情は、哲学書や魔導書を解読した学者のように真剣そのものだ。
待って。
意味が分からない。
その本は契約の参考書じゃない。
ただの糖度過多な胸キュンラブストーリーだ。
それ以前に。
そのボックスセット、まだビニールも開けていなかった「保存用」なんだけど。
なんで開封されてるの?
なんで素手で触ってるの?
私の神聖な限定版に、指紋がついただろうが!
「ちょっと待って! それ保存用! 観賞用! なんでシュリンク破ってんの!? 素手で触んないで! 指紋つくでしょうが!!」
私が悲鳴に近い怒声を上げた、その時だ。
視界がブレた。
速い。
瞬きをする暇すらない。
彼が流れるような動作で立ち上がったかと思うと、音もなく私との距離をゼロにした。
風圧すら感じさせない動き。
気づいた時には、目の前に圧倒的な美の暴力があった。
背中が壁に当たる。
ドン、と低い音がして、逃げ場が塞がれた。
彼は私の顔の横に手をつき――いわゆる「壁ドン」の体勢で、私を見下ろしている。
「……ふむ。文献通りだ」
彼は私の顔を覗き込みながら、学術的な口調で呟く。
「『壁ドン』とは、対象の逃走経路を物理的に遮断し、高圧的な態度で心理的圧迫を加える行為……。これにより『心拍数上昇』という名のストレス反応を引き出し、判断能力を奪う拷問の一種だな?」
「ち、違いますけど!? 解釈が物騒! ていうか近い! 顔が良い!」
パニックで語彙力が死滅する。
ツッコミたいのに、喉が引きつって声が出ない。
至近距離で見ると、その瞳の奥にある縦に割れた瞳孔が、妖しく収縮しているのが分かった。
捕食される。
本能がそう告げている。
メガネの奥の目が泳ぐ。
だらしないジャージの襟首から覗く鎖骨に、彼の視線が絡みつくような熱を感じる。
心拍数が上がるのは「ときめき」じゃない。
食物連鎖の底辺にいる小動物が、天敵に見つかった時の生存本能だ。
私がガタガタと震えていると、彼はふっと視線を和らげ、壁から手を離した。
そして。
私の目の前で、ゆっくりと片膝をついたのだ。
まるで、忠誠を誓う騎士のように。
「……?」
呆気にとられる私の右手を取る。
彼の手は大きくて、やっぱり異常に熱い。
ゴツゴツとした骨ばった指が、私の指に絡まる。
爪の先が尖っていて、少し痛い。
彼が顔を近づける。
長い黒髪がさらりと落ちて、私の手首をくすぐった。
熱い吐息が、皮膚にかかる。
次の瞬間、手の甲に、柔らかく湿った感触が押し当てられた。
「ひっ……!」
唇。
キスされた。
私の手に。この、人外のイケメンが。
唇が触れた箇所から、熱が侵食してくる。
それは愛おしさなんて生ぬるいものじゃない。
焼印を押されるような。
所有権を主張されるような。
絶対的な支配の感触だった。
全身の血液が沸騰して、耳まで赤くなるのが分かる。
何これ。何の儀式?
いや、待って。彼が読んでいた漫画の最終回、確かプロポーズのシーンでそんな描写が――。
彼は唇を離すと、満足げに黄金の瞳を細めた。
「我の名は、古より続く――」
彼が口を開き、名乗りを上げようとした、その時だ。
――世界そのものが悲鳴を上げたような、不快な共鳴音が脳髄を突き抜けた。
「がっ……!?」
言葉ではない。
鼓膜を突き破り、脳髄を直接ミキサーにかけられるような、凄まじい音の暴力。
窓ガラスがビリビリと共振し、リビングの空気が歪む。
人間の可聴域を超えた、絶対的な力の奔流。
それは名前というより、自然災害そのものの音だった。
膝から力が抜ける。
私は悲鳴を上げることもできず、耳を押さえてその場に崩れ落ちた。
視界が白くチカチカする。
三半規管が破壊され、天井と床がひっくり返ったようなめまいが襲う。
意識はあるのに、体が動かない。
ただ床に這いつくばり、浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
数秒後。
嵐のような衝撃波が収まると、彼は不思議そうに首を傾げていた。
「……ふむ。人間の器官では、我の『真名』は受信できないか。不便な器だ」
悪びれる様子もなく、彼はそう結論づけた。
こっちは吐き気で指一本動かせないというのに。
彼は、床に伏したまま動けない私を見下ろし、口元に傲岸不遜な笑みを浮かべた。
そしてゆっくりとしゃがみ込むと、床に投げ出されていた私の手を拾い上げる。
まるで、壊れかけの玩具を点検するように。
あるいは、手に入れた戦利品を確認するように。
「まあよい。貴様のその貧弱な体と、昨夜の献身を認めよう」
至近距離で、黄金の瞳が私を舐め回す。
「喜べ、人間。……我が番となることを、特別に許してやる」
……は?
今、なんて言った?
つがい?
それって、漫画の中で主人公たちが結んでいた「永遠の愛」的なあれのこと?
違う。絶対違う。
こいつの言う番は、もっと生物学的で、逃れられない呪いのような響きがした。
名前も呼べない。
言葉も通じているようで、決定的に何かがズレている。
挙句の果てに、勝手に配偶者認定。
終わった。
私の平穏な受験生ライフも、推し活パラダイスも。
そして何より、庭の修理費を回収する計画も。
こんな規格外の怪物を相手に、私が借金を取り立てる?
無理ゲーにも程がある。
私は冷たい床に頬を押し付けたまま、遠のく意識の中で悟った。
私の人生、完全に「詰んだ」のだと。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
更新:金曜21時台/日曜7時台予定です。
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