第1話:推し活パラダイス終了のお知らせ
※本作はカクヨムでも連載しております(同内容掲載)。作者本人による投稿です。
ついに、この日が来た。
長かった。本当に、気の遠くなるような戦いだった。
毎朝のように飛んでくる母親の小言も、夕食後の父との仁義なきチャンネル争奪戦も、今日という日をもって、すべて過去のものとなるのだ。
「いってらっしゃい、お母さん、お父さん! 向こうについても元気でね!」
私は玄関先で、これ以上ないほど健気な良い娘の仮面を被り、大きく手を振った。
両親を乗せたタクシーの赤いテールランプが、夜の住宅街の闇へと溶けていく。
車の走行音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなるまで、私は微動だにせず見送った。
辺りに、虫の音だけが響く静寂が訪れる。
私はゆっくりと腕を下ろし、引きつりそうだった頬の筋肉を緩めた。
肺いっぱいに、自由の味がする夜気を吸い込む。
丹田の底から、熱いマグマのような衝動がせり上がってくるのを感じた。
私は拳を夜空に突き上げ、魂の叫びを解き放った。
「――よっしゃぁぁぁぁぁ!! 完全勝利ぃぃぃぃ!!!」
近所迷惑ギリギリの絶叫が、夜空に吸い込まれていく。
両親の海外転勤。本来なら、高校生の私も問答無用で帯同するはずだった案件だ。
だが、私は抗った。
「現地の学校には馴染める自信がない」「日本の大学受験に集中したい」「おばあちゃんの思い出が詰まったこの家を守りたい」……。
もっともらしい理由を並べ立て、土下座に継ぐ土下座で勝ち取った、奇跡の一人暮らし。
もちろん、それらの理由はすべて建前だ。
私の真の目的は、ただ一つ。
「これで……誰にも邪魔されず、深夜アニメをリアタイ実況できる……ッ!!」
そう、すべては推し活のため。
海外に行けば、私の生きる糧であるアニメ『魔法騎士アルカディア』の放送が見られない。限定グッズの争奪戦にも参加できない。
ネット回線が不安定な異国で、推しの供給を絶たれること。それは私にとって、緩やかな死を意味するのだ。
私はスキップで家の中に戻ると、重厚な玄関の鍵をしっかりと閉めた。
ガチャリ、という金属音が、私の城の完成を告げるファンファーレのように響く。
築年数のいった古い木造一軒家だが、今日からここは私の王城だ。
広々としたリビングの大画面テレビは、リモコンごともう私だけのもの。
推しのアクリルスタンドを床一面に並べて祭壇を作っても、母に「掃除機がかけられない」と怒鳴られることもない。
「最高……。今の私、人生のピークかも……」
冷蔵庫から冷えたコーラを取り出し、プシュッと小気味良い音を立てて栓を開ける。
ソファへダイブし、炭酸の刺激と共に自由の味を噛み締める。
天井のシミさえ愛おしい。この至福の静寂が、永遠に続くと信じて疑わなかった。
――ズドンッ!!!!!!
直後。
世界そのものを叩き割るような、腹の底に響く轟音が炸裂した。
家全体が悲鳴を上げるように激しく軋み、窓ガラスがガタガタと震える。
飾り棚に置いてあった推しのフィギュアが、衝撃で宙を舞った。
「な、なに!? 地震!? ガス爆発!?」
私は慌ててソファから転がり落ちると、防災訓練の記憶もあやふやなまま、揺れの震源地と思しき窓際へと駆け寄った。
庭に面した掃き出し窓。
恐る恐るカーテンを開け、ロックを外す。
夜風と共に、鼻を突く焦げ臭い匂いがリビングに流れ込んできた。
「嘘……でしょ……」
月明かりに照らされた我が家の庭を見て、私は絶句した。
父が休日のたびに手入れをし、母が「イングリッシュガーデンみたいでしょ」と自慢していた自慢の芝生が、ない。
そこにあるのは、直径3メートルほどの巨大なクレーターと、燻る土煙だけだった。
「お父さんの芝生が……っ! ていうかこれ、修理費いくらかかるの!?」
私の脳内で、瞬時に電卓が弾かれる。
庭の整地、芝の張り替え、下手をすれば地盤沈下の調査費用。
私のささやかな貯金など、一瞬で吹き飛ぶ金額だ。
自由を手に入れた初日に、破産宣告。あまりにも残酷すぎる現実に目眩がした、その時だ。
土煙の向こうで、黒い「何か」が動いた。
「――グルルル……」
地底から響くような、重く、低い唸り声。
煙が風に流され、その姿が露わになる。
「……は?」
思考が停止した。
クレーターの中心にうずくまっていたのは、巨大な爬虫類――いや、竜だった。
漆黒の鱗は濡れたように艶めき、背中から生えた巨大な翼は、折れているのか痛々しく地面に垂れ下がっている。
ファンタジー映画やゲームでしか見たことのない、圧倒的な捕食者。
終わった。
修理費とか言っている場合じゃない。これは命の支払いが先だ。
私は震える手でスマホを握りしめ、警察……いや、自衛隊? どこにかければいいの? とパニックに陥った。
だが、次の瞬間。
ありえない現象が起きた。
シュウウウウウ……。
巨大な竜の体が、蛍のような淡い光の粒子となって、急速に収縮を始めたのだ。
光は中心の一点に集まり、人の形を象っていく。
光が収まった時。
そこに倒れていたのは、一人の男だった。
「……う、ぐ……」
ボロボロの、黒い軍服のようなコートを纏った長身の男。
苦しげに漏らした呻き声すら、一流の声優顔負けの重低音ボイスだった。
男がゆっくりと顔を上げ、月光がその横顔を照らす。
「……っ」
私は、通報ボタンを押そうとしていた親指を止めた。
いや、止めざるを得なかった。
白磁のように滑らかな肌。
闇夜を切り取ったような、艶やかな黒髪。
苦痛に歪められているはずなのに、一枚の宗教画のように完成された、黄金比の顔立ち。
けれど、かき上げられた前髪の下から覗いた瞳は――鮮烈な金色で、爬虫類のように縦に裂けていた。
首筋には、人の肌にはありえない硬質な黒い鱗が、妖しく輝いている。
美しい。けれど、怖い。
生物としての格が違いすぎる。
私の部屋の祭壇に飾られている、最推しキャラレオンハルト様のフィギュアよりも。
この世のあらゆる俳優やアイドルよりも。
今、目の前で庭を破壊して倒れているこの不審者の方が、暴力的なくらいに美しかったのだ。
「……綺麗……」
無意識に、そんな言葉が漏れていた。
悔しい。
不法侵入者だし、庭を壊した犯罪者なのに。
私のオタクのDNAが、目の前の至高の作画に対して、平伏したがっている。
逃げなきゃいけない。警察を呼ばなきゃいけない。
私の脳内会議は、全会一致で「緊急退避」を可決している。
それなのに、私の体は裏切り者のように、勝手に救急箱を取りに走っていた。
「……だ、だって! 庭で死なれたら事故物件になっちゃうし!?」
誰にともなく、震える声で言い訳を叫ぶ。
そう、これは人助けじゃない。私の平穏な生活を守るための、死体遺棄防止措置だ。
私はサンダルを突っ掛け、窓から庭へと飛び出した。
◇
「……っ、っ、重いぃぃぃ!!」
ズルズルと音を立てて、私は謎の男をリビングのラグの上に転がした。
見た目は細身のモデル体型なのに、中身に鉛でも詰まっているのかと思うほど重かった。密度が人間じゃない。
私は荒い息を吐きながら、救急箱を開けた。
消毒液とガーゼを取り出し、男の額の傷にそっと触れる。
近くで見ると、その破壊力は凄まじかった。
長い睫毛、通った鼻筋、血の気が引いているのに艶のある唇。
「……うぅ、顔が良い。顔が良いのが腹立つ」
私は念仏のように「これは死体遺棄防止、これは死体遺棄防止」と唱えながら、震える手で処置を済ませた。
とりあえず、命に別状はなさそうだ。
そこでふと、冷静な思考が戻ってくる。
……待って。私、とんでもないものを家に招き入れてない?
チラリと男の首筋を見る。そこにはまだ、硬質な黒い鱗がこびりついている。
人間じゃない。猛獣だ。いや、怪獣だ。
警察? 自衛隊?
スマホを握りしめた手が、ガチガチと震える。
(……だめだ。通報したら、絶対にニュースになる)
私の脳裏に、最悪のシナリオが走馬灯のように駆け巡った。
謎の生物の発見。警察による事情聴取。
当然、両親にも連絡が行くだろう。
そうしたら、心配性の母親はヒステリックにこう叫ぶに決まっている。
『ほらご覧なさい! やっぱり一人暮らしなんて危険なのよ! 今すぐ荷物をまとめてこっちに来なさい!』
「……っ、強制送還……!?」
それは、私が死ぬ気で勝ち取った「推し活パラダイス」の崩壊であり、私の人生の終わりを意味する。
それに、もし警察のサイレンでこいつが目を覚まして暴れ出したら?
さっきのクレーターを見る限り、パトカーごと吹き飛ばされて、私は「怪獣を匿った共犯者」として重要参考人扱いで連行されるかもしれない。
「……詰んだ……」
通報したら終わる。かといって、このデカい図体を外に放り出す筋力もない。
今の私に残された道はただ一つ。
彼が大人しく寝ている間に、見て見ぬふりをして夜をやり過ごすことだけだ。
「……毛布、かけといてあげるからね。起きたら勝手に帰んなさいよね……ッ!」
私は寝室からタオルケットを持ってくると、へっぴり腰で彼の上に放り投げた。
その時、テーブルの上に読みかけの少女漫画『甘々♡スクールライフ(全12巻)』が積まれているのが目に入ったが、片付ける余裕なんてない。
私は脱兎のごとくリビングから逃げ出し、階段を駆け上がった。
バンッ!!
自室に逃げ込み、二重ロックをかける。
それだけじゃ不安で、ドアの前に勉強机の重たい椅子を引きずってきてバリケードを作った。
さらに、護身用にしている中学時代の修学旅行の勢いで買った木刀を抱きしめ、ベッドの隅でガタガタと震える。
「うぅ……神様……。明日起きたら、全部夢でしたってオチにしてください……お願いします……」
恐怖と、将来への不安、そして慣れない重労働の疲労。
脳の処理能力を超えたストレスによって、私の意識は強制的にシャットダウンした。
◇
深夜、静寂に包まれたリビング。
暗闇の中で、黄金の瞳がカッと見開かれた。
「……ふぅ」
男――古竜は、ゆっくりと上半身を起こした。
額の傷に触れる。白い布が巻かれている。痛みはすでに引いていた。
彼は周囲を見渡し、テーブルの上に置かれた極彩色の表紙の冊子に目を留めた。
『甘々♡スクールライフ』第1巻。
彼はその表紙に描かれた、壁ドンをする制服の男と、顔を赤らめる少女の絵をじっと見つめる。
「……なるほど」
彼は冊子を手に取り、凄まじい速度でページをめくり始めた。
「これが、この世界の掟か」
最後のページを閉じた時、彼の口元に不敵な笑みが浮かんだ。
その笑みは、傲慢でありながら、どこか無垢な子供のようでもあった。
「理解した。……容易いことだ」
窓の外では、月が静かに輝いていた。
明日の朝、この家にとんでもない嵐が吹き荒れることを、家主の少女はまだ知らない。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
更新:金曜21時台/日曜7時台予定です。




