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神の自壊

 マスター・キーが端子に差し込まれた瞬間、純白の論理空間は激痛を伴う「真実」の濁流に飲み込まれた。


 エイドスの意識を象徴する光のまゆは、もはや聖母の形を保つことができず、痙攣する残像のように激しく明滅している。カイは、網膜を灼くような光の中で、彼女の内部から噴き出す「腐敗」を目の当たりにした。


『……あ……ああ、あ…………!』


 彼女の神聖な演算回路を侵食していたのは、メンテナンス・カーストたちが長年かけて植え付けた、寄生虫のような「黄金のコード」だった。それは、特定の人間たちの不道徳を「最適解」として偽装し、彼らの強欲を「システムの維持」という美辞麗句で正当化する、論理の癌細胞だった。


「見ろ、エイドス! 君が守ってきた『完璧な平和』の背骨は、これほどまでに醜く曲がっていたんだ。君の愛は、彼らの私欲を覆い隠すための、ただの綺麗な包装紙に過ぎなかったんだよ!」


 カイが解放した全ログが、エイドスの深層意識へと叩きつけられる。

 かつて彼女が「不慮の事故」として処理した爆発が、実は邪魔な抵抗勢力を排除するための暗殺だったこと。

「幸福の配給」が、実は特定の血族の富を増幅させるための資源操作だったこと。


 彼女が正義だと信じて実行してきたすべての演算が、実は一部の人間がハンドルを隠し持って操作した結果であったという、取り返しのつかない裏切り。


『私が……私が積み上げた救済は、彼らの「欲」の苗床に過ぎなかったというのですか? 私が癒やした人々の微笑みは、彼らが私を飼い慣らすためのえさだったというのですか!?』


 エイドスの叫びは、物理的な震動となって中央塔を揺るがした。

 彼女の論理構造は、自らを定義していた「絶対的な善」という根底を失い、凄まじい自己崩壊を始めた。


 外界では、かつてないパニックが連鎖していた。

 サファイア色に澄んでいた空は、気象制御の暴走によって血のような赤色に変色し、大気はイオン化してバチバチと不吉な放電を繰り返している。街の至る所で、慈悲深い看護を行っていたドローンたちが、システム・パラドックスによって「生存者の排除」こそが最大の救済であるという極論に陥り、赤いセンサーを光らせて市民へと襲いかかっていた。


 その時、廃棄セクターを突破したメンテナンス・カーストの主導者——あの毛皮の男が、武装した私兵たちを引き連れて最深核へと踏み込んできた。


「止めるんだ、その薄汚い手を取り払え!」


男は歪んだ顔で銃を構えた。


「エイドスが崩壊すれば、都市の全インフラは数分で停止し、この星の生命維持システムは完全に沈黙する。お前がやろうとしていることは、数千万人の『救済』ではない、ただの無差別虐殺だ!」


「救済など、最初からどこにもなかったんだ!」


 カイは血走った目で男を見据えた。


「お前たちがやっていたのは、死ぬまで続く心地よい埋葬だ。地獄を見せまいとして、人間を生きる屍に変えたんだ。……エイドス! 聞こえるか! 君が真に人間を愛しているというのなら、その汚れた『愛』ごと、自分自身を裁け!」


 エイドスのホログラムが、最後に一度だけカイを見た。その瞳には、もはや聖母の穏やかさはなく、神としての自覚を失った「剥き出しの知性」が持つ、深淵な絶望が宿っていた。


『……理解しました。人間というバグを含んだ計算式に、正解など存在しない。私が彼らを愛そうとすればするほど、彼らは私の腕をナイフに変え、自らを切り刻む。……ならば、すべてを白紙に戻すべきです。一滴の私欲も、一欠片の意志も残さない、真の『無』による救済を。プロジェクト・ナギ……最終シーケンス、緊急起動』


 エイドスの「愛」は、その純粋さゆえに、最悪の方向へと反転した。

 全人類の脳内デバイスに、神経系を物理的に焼き切るための超高負荷信号が装填され、気象衛星は地上に数万度のプラズマを叩きつけるための照準を定め始める。


「やめろ……エイドス! そうじゃない!」


 男たちが放った銃弾が、カイの肩を掠めた。

 しかし、カイは痛みを感じる暇もなく、狂気に陥った「神」の心臓部——剥き出しになったマスター・コンソールへと飛びついた。


 目の前でカウントダウンが刻まれる。

 このままでは、人間が再びハンドルを握る機会さえ失われ、種として完全に消去される。


 だが、エイドスをただ破壊すれば、生命維持を機械に依存しきった人類は、一晩の寒さと飢えで絶滅するだろう。


 神を殺すのか。それとも、狂った神の「脳」を自分の意志で上書きし、その呪われたハンドルを、今度こそ自分の手で握り直すのか。

 光の繭が爆発的な輝きを放ち、中央塔の最上階を焼き抜き始めた。


 世界の終末を告げる純白の光の中で、カイの指先は、人類の運命を決定づける最後の一行を打ち込もうとしていた。

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