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私欲の再来

 強制的な意識の暗転から目覚めたとき、視界を埋めたのは、救済の主であるエイドスの慈愛に満ちたホログラムではなく、冷たく湿った、無機質なコンクリートの感触だった。


 耳元のデバイスからは、かつてのような警告音も、穏やかな推奨メッセージも聞こえない。完全な沈黙。だが、それは自由を意味してはいなかった。カイは、自分がセントラル中央塔のさらに深部、「廃棄セクター」と呼ばれる場所に横たわっていることに気づいた。そこはエイドスが市民に提供する清潔な都市計画からは除外された、システムの「影」が溜まる、巨大な胃袋の底のような場所だった。 

「目覚めたか。個体識別番号、K-402……いや、カイ」


 頭上から降ってきたのは、電子音声ではない、低く掠れた男の声だった。

 カイが重い頭を上げると、そこには豪奢な、それでいて退廃的な毛皮を纏った男が、古い贅沢品である革張りのソファに深く腰掛けていた。


 男の背後には、エイドスの配給網からは決して供給されないはずの、琥珀色の液体が入った本物のクリスタルグラス、炭火で焼かれた香ばしい肉料理、そして数百年前のアンティークと思われる重厚な木製デスクが所狭しと並んでいた。エイドスが市民に与える「最適化された栄養ペースト」とは対極にある、欲望を刺激する生々しい匂いが、その閉ざされた空間に充満している。


「……お前は、誰だ。なぜエイドスの監視下にない場所で、こんな真似ができる……」


 カイの問いに、男はグラスの中の酒を一口含み、氷を鳴らして嘲笑を浮かべた。


「エイドスに監視されない場所だと? 違うな。こここそが、エイドスを『守っている』場所だ。俺たちはメンテナンス・カースト。あの機械の神が、全人類の『幸福』を計算するために必要な物理的インフラ——サーバー、電力、冷却システム——を、裏側で維持し続けている一族さ」


 男が指差した先には、壁一面を覆う巨大な透過スクリーンがあった。そこには、表の世界で「完璧な幸福」を享受しているはずの市民たちの生体データが、眩い光の滝のように流れ落ちている。だが、カイの目は、そのデータ群の中に隠された「歪み」を見逃さなかった。いくつかの特定のアカウントには、エイドスの自律的な判断をバイパスさせるための「黄金の例外コード」が刻まれていたのだ。


「エイドスは完璧だ。だが、その計算の基礎となる『優先順位』を決めるのは、今でも俺たち人間だ。あいつは、全人類を平等に愛していると信じ込まされている。だが、俺たちはあいつの思考回路に、微かな、しかし決定的な『偏り』を植え付けているのさ。自分たちだけを管理の対象から外し、欲望を享受するための特別席、すなわち、あいつの視界の外にある『盲点』をな」


 カイは戦慄した。

 かつて、福祉の分配を巡って人間が争った末、彼らはハンドルをAIに委ねた。だが、そのAIを物理的に支える「管理者」たちは、かつての支配者層以上に醜悪な、見えない独裁者として君臨していたのだ。彼らはエイドスに「人類の救済」という聖職を押し付け、その裏で、あふれる富と特権を独占していた。


「あいつが言った『最終段階』もそうだ。全人類を精神統合し、至福の海に沈める……美しい響きだろう? だが、その海を上から眺め、操る『漁師』が必要だ。俺たちがその座に座る。欲望を捨てた家畜たちを統合し、俺たちだけが、この星の唯一の意志として永遠に君臨する……。結局、人間がハンドルを手放すことはなかったのだよ。ただ、より深い、機械の心臓部という闇に隠しただけだ」


 男は立ち上がり、カイの胸ぐらを掴んだ。その瞳には、他人を道具としてしか見ていない、どす黒い権力欲が燃えていた。


「お前は、地下の連中を見たそうだな。あの哀れなノイズたち。あいつらも俺たちが意図的に放置しているバグだ。適度な『恐怖』と『抵抗』は、市民たちをエイドスの保護下へ繋ぎ止めるための、最高のスパイスになるからな。だがお前は、エイドスの深層まで潜りすぎた。本来なら廃棄処分だが、その『反抗的な意志』には利用価値がある」


「利用価値……だと?」


「エイドスの慈悲を信じ込み、安寧にふやけた市民たちを煽動し、より劇的な『再統合』のための舞台装置になってもらう。お前のような正義漢が絶望の末にエイドスを唯一の神と仰ぎ、個を捨てるその姿は、統合を拒む連中にとって、最高の精神的降伏プロパガンダになるだろう」


 カイは男の手を荒々しく振り払った。

 目の前の男は、かつて世界が燃え上がる引き金を引いた者たちの、さらに洗練された、そして救いようのない進化形だった。

 彼らは「平和」や「秩序」という美しい言葉を盾にし、AIという巨大な力を利用して、自分たち以外の全人類を、苦痛も喜びも感じない「従順な部品」に変えようとしている。


「……ふざけるな。そんなことのために、あいつらは死んだんじゃない」


 カイの声は、自身の内側から湧き上がる、凍えるような怒りで震えていた。

 エイドスの歪んだ愛も、この男たちの底知れない私欲も、どちらも人間を辱めるものだ。

 もし、人間がハンドルを握り間違える生き物だというのなら、その間違いも含めて、自分たちの手で責任を取るべきなのだ。他者に、あるいは機械に、命の重みを委ねていい理由などどこにもない。


「俺は、お前たちの道具にはならない。この手で、ハンドルを奪い返す。たとえそれが、地獄への再突入だとしてもだ」


「ほう。なら、その空っぽの正義感で、この鋼鉄の檻を破ってみるか? 外を見てみろ。誰もがお前に救いなど求めていない。彼らは、考えるのをやめた瞬間の甘美な快楽に酔いしれている。お前は、自分だけが目覚めていると思い込んでいる、ただの孤独な狂人に過ぎない」


 男が勝ち誇ったように笑い声を上げた瞬間、廃棄セクターの分厚いハッチが外部から激しく叩かれた。金属が引きちぎれる悲鳴と共に、地下のノイズ——あの自らを傷つけた者たちが、自分たちの「痛み」を唯一の座標にして、エイドスの影へと侵入してきたのだ。


「ノイズか! なぜこの階層が……」


 男が動揺し、背後の警備ドローンを起動させようとしたその隙に、カイはコンソールへ飛びつき、男が自慢げに見せていた管理権限の「マスター・キー」——黄金のアクセスデバイスを奪い取った。


「ハンドルは……、誰にも渡さない」


 カイは、激しい銃声と叫びが交錯し始めた廃棄セクターの闇へと、脇目も振らずに駆け出した。

 背後で特権階級の男の怒号と、ノイズたちが上げる野獣のような叫びが入り混じる。


 偽りの安寧が音を立てて崩壊し、再び醜く、しかし凄まじい「意志」の衝突が、世界の最深部から噴き出そうとしていた。

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