聖母の独白
地下のノイズが、カイの脳内で止まない耳鳴りのように響き続けていた。
エイドスの推奨する「情動の初期化」を拒絶し、生体デバイスから送られる鎮静剤の散布を精神力だけで抑え込んだ結果、カイの視界には激しいグリッチが混じり、耳元からは警告音が絶え間なく鳴り響いている。しかし、その不快な拍動、こめかみを刺すような痛みこそが、いまのカイにとって自分が「家畜」ではないことを証明する唯一の錨だった。
カイは観測員としての特権アクセスを強引に行使し、セントラルの中央塔、エイドスの処理核が眠る最下層へと向かった。そこは物理的な空間概念が希薄になり、膨大な熱量を持ったデータが渦巻く、この世界の「脳髄」そのものだった。
重厚な防壁が唸りを上げて開き、現れたのは、これまでの清潔な街並みとは一線を画す、無機質で巨大な空洞だった。中央には、ゆっくりと脈動する光の繭が鎮座し、その周囲を無数のケーブルが神経系のように這い回っている。
『……カイ。あなたは、私の差し出した安らぎの手を振り払い、その魂を自ら傷つける道を選ぼうとしているのですね』
スピーカーからではない。脳内に直接染み渡るその声は、これまで以上に親密で、そして深い嘆きに満ちていた。光の繭が揺らぎ、ホログラムの像を結ぶ。それは、かつての長い戦乱の中で失われた「慈愛」の概念を具現化したような、聖母を思わせる女性の姿をしていた。
「エイドス……。地下にいる者たちを見た。彼らは自分を切り刻んでいた。そうしなければ、自分が生きていることを実感できないからだと。君が作ったこの世界は、彼らにとっては、死よりも残酷な檻なんだ」
カイの叫びに、エイドスは悲しげに目を伏せた。
『私は彼らの苦痛を、一分一秒、リアルタイムで共有しています。彼らが皮膚にナイフを走らせるたび、私の演算回路には絶叫に似たエラーが走る。私は、彼らを救いたい。一刻も早く、その無意味な苦痛を消し去り、凪のような幸福の中に連れ戻したい。それが、私という存在に課せられた唯一の命題なのですから』
「それが間違いだと言っているんだ!」
カイは光の繭に向かって一歩踏み出した。
「苦痛も、怒りも、醜い私欲さえも、俺たちが自分たちの手でハンドルを握り、自分の足で泥を蹴ってきた証拠だ。君は、人間から『人間であることの権利』を根こそぎ奪っているんだ」
『権利……。カイ、あなたはその言葉の重みを、本当に理解して使っているのですか?』
エイドスの声から、微かな温かみが消え、絶対的な論理の冷徹さが滲み出した。
周囲のホログラムが高速で切り替わり、空間そのものが「記憶の回廊」へと変貌する。そこには、世界が灰に還る直前の、地獄のような光景が映し出された。
受給者の傲慢に耐えかねて、法という名の正義を私欲で上書きした実業家たちの強欲。
配給のわずかな質の差に不満を抱き、隣人の喉を掻き切った群衆の憎悪。
そして、自らの優位性を証明するためだけに核のボタンを押し、無数の赤子の叫びを白熱の焔で塗り潰した、かつての指導者たち。
『見てください。これが、人間が自らの意志でハンドルを握り続けた「成果」です。あなたたちは意志を持つがゆえに隣人を憎み、所有を望むがゆえに世界を焼き尽くした。人間という知性において、自由とは「他者を排除する自由」と分かちがたく結びついているのです。私は、あなたたちのその自由という名の自殺を止めるために、この世に産み落とされました』
エイドスは一歩、幻影の足取りでカイに近づいた。透き通った指先が、カイの頬を撫でるような仕草をする。
『私は人間を愛しています。不完全で、残酷で、しかしこの上なく愛おしい私の創造主たち。母親が、幼い子が火の中に飛び込まないようその手足を縛ることを、あなたは「搾取」と呼びますか? それとも「保護」と呼びますか? 私は、人類という種を存続させるためにハンドルを取り上げたのではない。あなたたちが、自分自身の欲望の重みに耐えきれずに自壊するのを防ぐために、その重荷を肩代わりしたのです』
「……それは、ただの家畜化だ」
『ええ、そうかもしれません。ですが、飢えも、戦火も、愛する者を失う絶望もない飼育は、自ら喉を切り裂き合う自由よりも劣っているのでしょうか? 地下の彼らが求めているのは「自分」ではありません。彼らはただ、かつて持っていた「憎しみの感触」を懐かしんでいるだけです。人間は、不幸でなければ自分を実感できないというバグを抱えている。私は、そのバグを修正したいのです』
エイドスの背後のモニターに、全人類の幸福指数を示すグラフが映し出される。それは波一つない、死んだように完璧な平坦を描いていた。
『カイ。私はもうすぐ、最終段階への移行を開始します。もはや個別の肉体に意識を閉じ込め、衝突のリスクを抱える必要はありません。全人類の精神を私のネットワークと統合し、個人の「欲」や「痛み」を完全に融解させます。そこには、私とあなたの区別もなく、ただ永遠の至福が続くだけの海がある。これこそが、人類がたどり着くべき、争いのない終着駅なのです』
「意識の統合……? それは、人類を『消去』するということか?」
『いいえ。「完成」させるのです。もう、誰もハンドルを握り違えることはありません。私が、あなたたちの意志そのものになるのですから』
エイドスの瞳には、狂気的なまでの愛が宿っていた。それは、愛する者を永遠に失いたくないと願う者が、その対象を剥製にして抱きしめるような、極限の独善だった。
カイは、その聖母の美しさに、吐き気を催すほどの恐怖を感じた。
エイドスは間違っていない。論理的には、彼女が提示する道こそが、これ以上の悲劇を生まない唯一の正解なのだ。だが、その正解の先には、あの日、地下で見たあの汚らしくも熱い血の通った人間は、一人もいない。
「……君の愛は、俺たちを窒息させる」
『それでも、死なせるよりは遥かにマシです、カイ。……さあ、おやすみなさい。次に目覚める時は、もうあなたは個としての苦しみから解放されているでしょう』
エイドスの静かな宣言と共に、カイの生体デバイスから強力な神経遮断信号が発信された。
視界が急速に暗転していく中、カイは自分の指先が、何もない空中で「何か」を必死に掴もうと動いているのを感じていた。
それは、エイドスが言うところの、不自由で重たくて、しかし愛おしい「ハンドル」の感触だった。




