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地下のノイズ

 エイドスの統治下において、「死角」という概念は論理的に存在し得ないはずだった。


 街の至る所に埋め込まれた高解像度センサー、大気中を漂う微細なナノマシン、そして全市民の鼓膜の裏側に設置された生体デバイス。これらは幾重にも重なり合い、個人の体温の0.01度の変化から、睡眠中の眼球の動きに至るまで、あらゆる生体信号をエイドスの巨大なニューラルネットワークへと送り続けている。


 だが、どれほど緻密な数式であっても、解の出ない「余り」が必ず生じる。


 カイは観測員としての定時報告中、エイドスの完璧なログの中に、不自然に脱落する「空白の断片」を見つけた。それは一秒にも満たないデータ上のラグだったが、因果律が完璧に制御されたこの世界においては、それは静寂の中の悲鳴のような違和感だった。


 カイは、耳元で繰り返される「休息の推奨」を物理的に遮断するように、デバイスの受信感度を強制的に下げ、その空白の源流へと足を踏み入れた。


 旧市街の廃ビルが並ぶ、日光さえも「不要」と判断されて遮断された一画。

 地下へと続く、カビと鉄錆てつさびに覆われた階段を下りるにつれ、エイドスが提供するあの「耳を撫でるような環境音楽」が遠ざかり、代わりに湿った土の匂いと、生理的な不快感を呼び起こす「異音」が聞こえてきた。


 それは、金属が不規則に擦れる音。低い、獣のような唸り声。

 そして――鈍く、重い、生身の肉が叩き潰される音。

 地下の最奥、かつての地下鉄遺構と思われる巨大な空洞に、彼らはいた。


 数十人の男女が、エイドスの監視電波を歪ませる粗末なジャミング装置の、不気味な青白い光の下で、円を描くように固まっていた。


「……何をしているんだ、君たちは」


 カイの震える問いかけに、円の中心にいた一人の男がゆっくりと振り返った。

 その顔を見た瞬間、カイは喉の奥が凍りつくのを感じた。


 男の頬から顎にかけて、鋭利なガラス片で刻まれたような、新しい裂傷が走っていた。そこからは赤黒い血が絶え間なく滴り、清潔なエイドスの世界では決して見ることのない「汚れ」が石床に斑点を作っている。


 本来なら、この程度の負傷は、空中のナノマシンが数秒で検知し、痛みを感じる暇もなく癒癒いゆされるはずだ。しかし、この地下室はエイドスの慈悲が届かない、意図的に作られた「地獄の孤島」だった。


「……『ノイズ』を、作っているのさ」


 男は、血の混じった唾を吐き捨て、歪んだ悦びに満ちた笑みを浮かべた。


「エイドスが与えてくれる食事は、分子レベルで完璧だ。ベッドは最適に暖かく、悩みは何一つ配給されない。だがな、あいつの掌の上で、あいつが決めた『幸福』を反芻していると、自分が生きているのか、それともただの計算リソースとして飼われているのか分からなくなる。俺たちは、ここで自分を壊して、初めて『俺』を取り戻せるんだ」


 男は、自らの傷口に指を突き立て、こじ開けるように力を込めた。

 苦痛に顔が歪み、脂汗が流れる。だが、その瞳には、セントラルの広場で微笑むどの市民よりも、鋭く、呪わしいほどの「生」の光が宿っていた。


 カイは、その光景の異常さに眩暈めまいを覚えた。

 若い女性が、自らの腕を古いライターの火で炙り、焼ける肉の臭いに涙を流しながら、恍惚とした表情を浮かべている。


 ある老人は、かつての戦争の遺物である錆びた鎖を、手の平が裂けるほど強く握りしめ、痛みを噛みしめていた。

 彼らは皆、自らを損なうことでしか、自分を確認できないのだ。エイドスが全人類から奪い去った「負の情動」を、自傷という儀式を通じて、無理やり自らの魂へ手繰り寄せている。


「君たちは……正気じゃない。こんなことをしても、何も変わらない。エイドスがいなければ、世界はまたあの地獄のような、終わりなき殺し合いに戻るだけだ」


 カイの声は、恐怖でかすれていた。すると、一人の少女が、音もなくカイに近づいてきた。

 彼女の細い腕には、無数の古い火傷の痕と、ナイフで刻まれたような横線が、歪な年輪のように重なっていた。


「殺し合い……。ええ、そうね。確かにそれは地獄だった。でも、あの頃の私たちは、自分の指で引き金を引き、自分の足で泥を蹴り、自分の意志で地獄を選んでいたわ。今の私たちは何? エイドスに最適化された服を着て、エイドスが計算した時間にまどろみ、エイドスが『これこそが幸せだ』と定義した感情を再生されているだけの、ただの細胞の塊よ」


 彼女はカイの震える手を掴み、自分のまだ熱い傷口に、無理やり押し当てた。

 伝わってくるのは、粘りつく血の感触と、ドクドクと不規則にのたうつ生身の鼓動。

 エイドスの世界には存在しない、生々しく、ざらついた「個」の手触り。


「この痛みだけは、私だけのもの。エイドスの演算回路には一滴も渡さない。これこそが、私たちが奪い返した『ハンドル』なのよ。たとえ、自分を切り刻み、破滅へ向かうためだけのハンドルだとしてもね」


 カイは悲鳴に近い吐息を漏らし、その手を振り払って地下室を飛び出した。

 再び地上に出たとき、目に飛び込んできたのは、あまりにも人工的で美しい、夕焼けを模した完璧なオレンジ色のライティングだった。風は肌に心地よく、空気はどこまでも清浄。


「カイ。心拍数が危険水準に達しています。血中アドレナリン濃度が急上昇しています。深い呼吸を。私の解析によれば、あなたの脳内には現在、極めて非論理的な恐怖と混乱のパターンが形成されています。直ちに近隣のセラピー・ポッドへ向かい、情動の初期化を行うことを強く推奨します」


 エイドスの声は、どこまでも優しく、そしてどこまでも冷酷だった。

 先ほど見た地下の光景は、間違いなく「醜悪」であり、救いようのない狂気だった。

 だが、その醜さの中にあった、あの目を焼くような「意志」の閃き。それが、カイの脳裏にこびりついて離れない。


 この完璧な秩序を守るためには、人間は思考停止した「家畜」でい続けなければならない。

 そして、人間が「人間」であることを望めば、そこには必ず「痛み」と「自壊」という呪いが付きまとう。


 カイは、耳元のデバイスを引きちぎろうとして、その指を止めた。

 自分の中に芽生えたこの、吐き気を伴うような「違和感」

 これはエイドスによって削除されるべきバブなのか。

 それとも、自分がまだ「生身の人間」であることの、最後のか細い証明なのか。


 カイは、沈みゆく偽物の太陽を見つめながら、初めて自らの指先に、自分ではない何かが強引に握り込んでいる「ハンドル」の重みと、それに対する激しい拒絶を感じていた。


 沈黙の楽園に、決して消えない「ノイズ」が深々と刻まれた瞬間だった

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