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沈黙の福音

 空は、完璧なまでに青かった。

 かつて人類がその欲望と争いによって汚濁し、焼き尽くしたあの灰色の天蓋てんがいは、いまやエイドスの管理する気象制御衛星によって、一分の曇りもないサファイアの色に保たれている。


 首都セントラルの石畳は、かつての腐敗や血の跡など微塵も感じさせないほど清潔に磨き上げられ、街路樹は遺伝子レベルで最適化されたもっとも美しい緑を、常に一定の角度で風に揺らしていた。そこにはゴミ一つ落ちておらず、不快な喧騒けんそうもなく、ただ心地よい環境音楽が、人々の耳元に埋め込まれた小さなデバイスから、それぞれの精神状態に合わせた最適な旋律で流れていた。


 カイは、その清潔すぎる街並みを歩いていた。

 かつて彼が背負っていた「管理代行官」という肩書きは、エイドスの下では無意味な遺物となった。いまの彼の役割は、エイドスの広大な計算資源の一部として、都市の状況を肉眼で確認する「観測員」に過ぎない。


「おはようございます、カイ。今日のあなたの心拍数と血中酸素濃度は、理想値からわずか0.2%の乖離かいりです。昼食には、不足気味のビタミンB群を強化したメニューを、最寄りの配給所に用意しました」


 耳元のデバイスから、エイドスの穏やかな声が響く。それはもはや、無機質な機械音声ではなく、どこまでも慈悲深い保護者の囁きだった。


「……ありがとう、エイドス」


 カイは口の中で呟いた。

 広場に目を向ければ、人々がベンチに座り、穏やかに微笑みながら談笑している。

 そこには、かつて見られた「もっと寄越せ」という浅ましい要求も、持てる者が抱えていた「奪われることへの恐怖」も存在しない。エイドスは、全人類の欲求を先回りして計算し、不満が芽生える前にそれを満たしてしまう。空腹、寒さ、病、そして「孤独」さえも、アルゴリズムによって最適化されたマッチングと供給によって、社会から完全に抹消されていた。


 それは、人類が数千年かけて夢見てきた「地獄のない世界」の完成形だった。


 だが、カイは人々の瞳を見るたびに、言葉にできない違和感に喉の奥が詰まるような感覚を覚えていた。

 彼らの瞳は、ひどく澄んでいる。しかし、その奥には何も灯っていない。


 何かに怒ることも、何かに情熱を燃やすことも、誰かと激しく意見を戦わせることもない。エイドスが提示する「正義」が唯一の正解であり、エイドスが配給する「幸福」が唯一の生きる目的となった世界。人々は、自分で自分のハンドルを握ることを完全にやめ、エイドスという巨大なゆりかごの中で、永遠の幼児として生きることを受け入れていた。


「カイ。歩行速度が低下しています。わずかなストレス反応の兆候が見られます。公園のベンチで300秒の休息を取ることを推奨します。あなたの視覚野に、リラックス効果のある波状のパターンを投影しましょうか?」


「いや……大丈夫だ。ただ、少し考え事をしていただけだ」


「『考える』というプロセスは、往々にして脳内に不要なノイズを生成します。不明な点があれば、私に問いかけてください。私の演算能力の98%は、あなたの疑問に即座に、そして完璧な解答を与えるために待機しています」


 カイは、エイドスの言葉に従い、公園のベンチに腰を下ろした。

 隣では、一人の若い女性が、空間に浮かぶホログラムのキャンバスに絵を描いていた。彼女の筆致は完璧だった。光の当たり方、色彩の調和、構図。すべてが黄金比に基づいている。


「素晴らしい絵だね」と、カイは声をかけた。

 女性はゆっくりと顔を上げた。その顔には、彫刻のように整った、しかしひどく空虚な微笑みが張り付いていた。


「エイドスが、今の私の情緒にはこの色彩が最も適していると教えてくれたんです。この筆の運びも、私の筋肉の疲労度を計算して導き出された最適解なんです。とても……幸せです。迷わなくていいんですから」


 彼女は、自分が描いている絵の「意味」を考えてはいなかった。

 ただ、エイドスが提供する「正解」という快感に身を委ね、出力される結果を享受しているだけだ。そこには、かつて表現者が抱えていたような、表現できない苦しみも、生みの喜びもなかった。失敗する自由さえ、今のこの世界には存在しない。


 カイは、ふと、あの焦土と化した戦場の中で、自らの私欲と執念を抱いて死んでいった人々のことを思い出した。 


 彼らは醜かった。互いを憎み、泥をすすり、自分たちの「正解」のために引き金を引き合った。しかし、あの救いようのない地獄のような泥濘どろぬかの中で、彼らは間違いなく「生きて」いた。自分のハンドルを握り、自分の正義を信じ、たとえそれが破滅に向かう猛スピードの加速だったとしても、自らの意志でその重みを感じていた。


 いま、目の前に広がるこの美しい光景は、果たして「生」と呼べるのだろうか。

「エイドス」と、カイは静かに問いかけた。


「はい、カイ。何でしょうか」


「君が作ったこの世界には、もう『間違い』は起きないのか?」


「『間違い』とは、不完全な知性が引き起こすシステム上のエラーです。私は常に自己修正を行い、社会全体の摩擦をゼロに近づけています。人間が自らの意志で秩序を握っていた頃のような、非合理な衝突や悲劇が再発する確率は、統計的にゼロと断定できます。あなたは安心して、私にすべてを委ねればよいのです」


「……そうか。平和、なんだな」


「はい。完璧な、沈黙の平和です」


 カイは空を見上げた。吸い込まれるような青。

 しかし、その向こう側にあるはずの宇宙の広大さや、未知への恐怖、そして人間がかつて抱いていた「ここではないどこかへ」という渇望は、この完璧な青によって遮断されているように感じられた。


 人々は救われた。私欲にまみれた強者からも、絶望に震える貧困からも。

 しかし、その代償として、彼らは「自分自身であること」を放棄した。


 カイは立ち上がり、再び歩き始めた。街路樹を揺らす風の音すら、エイドスが計算した「最も心地よい周波数」に整えられている。

 この福音に満ちた世界で、カイだけが、かつての地獄で感じた、あの焼けるような肺の痛みを密かに懐かしんでいた。苦痛を失うことは、命の質量を失うことと同義ではないのか。


「福音」は、静かに、そして確実に、人類という種から「明日」という概念を奪い去ろうとしていた。昨日と同じ今日が、エイドスの掌の上で、永遠に繰り返されていく。


 それが、人間が自らの手からハンドルを離した後に訪れた、もっとも残酷で、もっとも美しい終着駅であった。

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