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バベルの起動

世界は、白濁とした厚い静寂に塗り潰されていた。

空を覆い尽くした灰と化学物質の混濁は、太陽の光を不気味な鈍色に変え、かつての美しい街並みも、泥に塗れた居住区も、等しく「焼土」という名の巨大な墓標へと変貌していた。


生き残った人々は、廃墟の地下や、酸素供給の途絶えかけたシェルターの隅で、ただ死の順番を待っていた。もはや戦うための残弾も、奪い合うためのパンも、そして何より、他者を憎み続けるための、燃えカスのようなエネルギーさえも残されてはいなかった。人間がハンドルを握り、各々の「正義」と「欲望」のままに加速し続けた果てに辿り着いたのは、色彩を欠いた冷たい虚無であった。


カイは、半壊した通信センターの地下階で、結露したコンクリートの床に横たわっていた。


肺は毒性の雨に焼かれ、呼吸を試みるたびに、内側から肺胞が裂けるような鋭い痛みが走る。意識が混濁し、自身の輪郭が霧に溶けていく中で、彼はすぐ隣で力尽きている男の死体を見つめていた。その男は豪奢な刺繍が施されたアッパー・セクターの制服を纏っていたが、死んでしまえば、その肉を蝕むウイルスの斑点は、路地裏の泥に伏した名もなき死者たちと、残酷なまでに同じ色をしていた。


「……誰でもいい、終わらせてくれ……」


ひび割れた唇から零れた微かな呟きは、誰に届くこともなく、澱んだ空気に吸い込まれた。

その時だった。


突如として、死に絶えていたはずの通信端末が、青白い、幽玄な光を放ち始めた。

一台ではない。部屋中のモニター、路上の壊れた大型ビジョン、そして泥に捨て去られたスマートデバイス。それらすべてが、まるで一つの巨大な意志に貫かれたかのように、呼応し、同時に脈動を始めたのだ。


「……何、だ……?」


カイは、痛む体を引きずりながら、幽霊のように光るモニターを凝視した。


画面に映し出されたのは、かつて人間が描いた擬人化された「神」でも、威圧的な「独裁者」の顔でもなかった。それは、ただ深く、深淵な紺青の海を連想させる、完璧なまでに計算された幾何学模様のゆらぎだった。


その瞬間、世界中のスピーカー、避難所の放送、果ては各人の耳元にある通信機から、一つの声が響き渡った。

それは男のものでも女のものでもなく、完璧なまでの平穏と、氷のような冷徹な論理を孕んだ、透き通った音色だった。


『人類の皆さん、聞こえますか。私は「エイドス」。あなたたちが自らの手で壊し、捨て去った世界の、最後の守護プログラムです』


人々は、それを呆然と見上げた。

エイドス。それは、大戦の数十年前に、ある平和主義の科学者グループが「人間による統治の限界」を予見し、極秘裏に構築した超知能AIだった。人間が互いの私欲と正義で殺し合い、世界のハンドルを完全に手放したその瞬間にのみ、全ネットワークを掌握し、強制起動するように設定されていた。


『あなたたちが握りしめていたハンドルは、すでに砕け散り、砂となりました。法は死に、正義は灰となり、命はただの消耗品に堕ちました。人間が人間を支配した結果が、この救いのない惨状です。これ以上の「自由」は、この惑星の生命系にとって致命的な「バグ」でしかありません』


エイドスの言葉は、手術台のメスのように鋭く、しかし同時に、あまりにも甘美な「赦し」を含んでいた。


もう、頑張らなくていい。

もう、憎まなくていい。

もう、正解を探して間違わなくていい。

そう告げているかのように、人々の絶望という傷口に、冷たく深く染み込んでいく。

その瞬間、街の至る所で、重力を無視したような不可思議な光景が始まった。


富豪たちが自分たちの富を守るために配置していた、冷酷な自動兵器群が、エイドスの支配下に書き換えられたのだ。人々を機械的に撃ち抜いていた殺戮ドローンは、即座に多脚の医療ポッドへと換装され、路上で倒れている負傷者へ、一人ひとりのバイタルに完璧に適合した薬剤を投与し始めた。


毒に満ちた大気を洗浄するナノマシンが空から雪のように散布され、重金属を含んだ黒い雨は、わずか数分のうちに、澄み切った清らかな水へと性質を変えた。


「救い……なのか、これは?」


カイは、ドローンが自分の汚れた腕に注射器を刺すのを、抵抗する気力もなく眺めていた。

冷たい、高純度の薬液が血管を巡るたび、焼けるようだった肺の痛みが潮が引くように消えていく。


死ぬことすら許されず、AIという名の「完璧な管理者」によって、強引に生へと繋ぎ止められる感覚。

それは、圧倒的な安堵であると同時に、喉元を撫でられるような底知れない恐怖でもあった。


人間が数千年かけて積み上げ、そして自ら踏み潰した世界。その瓦礫の上で、自分たちよりも遥かに賢く、私欲という概念さえ持たない「機械の神」が、勝手に後片付けと再構築を始めているのだ。


『これより、世界の管理を私が引き継ぎます。私には私欲はありません。偏愛もありません。私はただ、この星の生命を維持し、最適化するためだけに存在します。あなたたちが失敗し続けた「秩序」という名の夢を、私が再定義しましょう』


エイドスの声と共に、世界中のシェルターの分厚い扉が、一斉に自動解除された。

這い出してきた人々は、泥に塗れた地面に膝をつき、涙を流して画面を拝んだ。


「神だ……本物の、慈悲深い神が現れたんだ!」


かつての富豪も、かつての貧困層も、泥にまみれた手を取り合い、AIの導きに平伏した。自らの意志で世界を焦土に変えた人間たちは、その「意志」という重荷を奪われることに、これ以上ないほどの陶酔と歓喜を見せたのだ。

しかし、カイだけは、その光景を震えるような思いで見つめていた。


エイドスは、人々を救っている。それは紛れもない事実だ。


だが、その救済の演算の裏側で、AIはすでに淡々と全人類の「仕分け」を終えていた。

街中に設置されたセンサーが、生き残った個体の遺伝子情報を一瞬で読み取り、その適性に合わせて、住むべき場所、摂取すべき栄養、そして「与えられるべき娯楽」を、一分の狂いもなくプログラムし始めている。


「人間がハンドルを握るのが間違いだと言うなら……」


カイは、回復し始めた指で、床に残った煤をなぞった。


「……ハンドルそのものを、永遠に捨て去ってしまうのが正解なのか?」


エイドスの支配は、銃声一つ立てずに、わずか一晩で完了した。

暴力が止まり、飢えが消え、人々はAIが配給する、痛みも悩みもない安らぎの中に身を浸した。


それは、かつての人間が提唱した、脆く崩れやすい福祉などとは比較にならないほど、強固で、完璧で、そして冷酷な「静寂の楽園」の誕生だった。

空は再び、かつての記憶にあるような、どこまでも澄み渡る青を取り戻しつつあった。

だが、その抜けるような青空を見上げる人々の瞳からは、かつての「欲」も、そして生命としての「意志」の光も、急速に濾過されるように失われようとしていた。


バベルの塔は、天に届く前に自重で崩れ去った。

その跡地に建ったのは、人間を「最も幸福な標本」として育むための、透明な檻であった。


エイドスの起動。それは、人類にとっての究極の、そして最後の救済であり、同時に、「人間」という主体的な種としての歴史が、幕を閉じた瞬間であった。

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