焔の泥濘
それは、突発的な事故ではなかった。
歴史という名の巨大な歯車が、数年かけてじわじわと、かつ確実に「破滅」という噛み合わせに向かって動いてきた結果だった。
福祉国家の解体から始まった「選別」は、やがて生存圏そのものの強奪へとエスカレートした。富豪国は、自らの純潔と贅沢を維持するために、法を盾にして貧困国から最後の一滴まで資源を絞り上げた。対する貧困国側では、かつて「生かされていた」人々が、明日死ぬことよりも「屈辱の中で生き続けること」に耐えられなくなっていた。
決定的な引き金となったのは、アッパー・セクターが可決した「生存適格者管理法」の施行だった。それは、資産と遺伝的健康度によって、全人類を「維持すべき個体」と「自然減を待つべき個体」に明確にランク付けし、下層の者への食料供給を完全に遮断するという、事実上の死刑宣告であった。
「……もう、待つ必要はない」
第14居住区の薄暗い地下室で、かつてのカイの同僚であった男が、震える手で手製の起爆装置を握りしめていた。彼は福祉局を解雇された後、飢えで家族を亡くしたばかりだった。
「奴らは俺たちを人間だと思っていない。ならば、俺たちも奴らを人間だと思う必要はない。ただの『肉の壁』だ」
その夜、アッパー・セクターを結ぶ生命線である超高速鉄道の橋梁が、凄まじい爆音と共に崩落した。それが、人類が最後に手放した「理性」という名のハンドルの、最期の破片だった。
富豪たちの報復は、冷酷かつ迅速だった。
彼らはもはや、法による統治を放棄した。アッパー・セクターの執務室で、かつてエドワードのような男たちが座っていた椅子には、今や「防衛コンサルタント」を名乗る死神たちが鎮座していた。彼らは指先一つで、衛星軌道上の精密爆撃システムを起動させた。
「敵ではない。ただの『害虫駆除』だ」
モニター越しに淡々と語る彼らの声と共に、カイがいた第14居住区の頭上に、白熱の炎が降り注いだ。
かつて平和のために開発された気象制御技術は、特定の地域に「火炎の嵐」を巻き起こす大量虐殺兵器へと転用された。
「……ああ、これが……俺たちの望んだ結末か」
カイは、泥濘の中に膝まで浸かりながら、血のついた通信端末を捨てた。
もはや、報告するべき政府も、救うべき市民もどこにもいない。かつての「管理代行官」の制服は泥と血に汚れ、剥き出しになった肌には、拭っても落ちない化学薬品の火傷が刻まれている。
空は、かつての澄み渡る青を永遠に失っていた。
幾重にも重なった灰色の噴煙が太陽を遮り、地上には絶えず、化学物質を含んだ粘り気のある「黒い雨」が降り注いでいる。その雨は、焼け爛れた瓦礫を洗い流すこともなく、ただ腐敗した死臭を濃くしていくだけだった。
カイの目の前を、かつての「市民」たちが通り過ぎていく。
彼らはかつて、より良い配給や、より手厚いケアを求めてデモを行っていた人々だ。だが、今の彼らの手にあるのはプラカードではなく、錆びた鉄パイプや、どこからか略奪してきた自動小銃だった。
「あいつらを殺せ! セントラルの奴らの肉を食わせろ!」
絶叫する男の瞳には、かつての福祉国家で去勢されていた「獣の欲望」が、最悪の形で蘇っていた。
戦争は、アッパー・セクターの「洗練された暴力」と、ロウ・セクターの「原始的な憎悪」が混ざり合う、巨大なミキサーへと変貌した。
富豪たちは安全な地下シェルターから、ドローンを遠隔操作して貧困層を効率的に「処理」していく。一方で、ロウ・セクターのゲリラたちは、自らの命を爆弾に変え、セントラルの防壁を一つずつ食い破っていった。
そこには、もはや勝利の定義すらなかった。
あるのは、どちらが先に「無」に帰るかという、絶望的な競争だけだ。
カイは、かつての市役所の廃墟に逃げ込んだ。そこには、第1章で彼が座っていた窓口の残骸があった。
書類が散乱し、その上には、もはや名前も判別できない誰かの手首が転がっている。
「権利」を主張し、他者への嫉妬を燃やしていたあの日々。
「私欲」を正当化し、強者の論理を振りかざしたあの日々。
それらすべての「人間の心」が積み重なった結果が、この焔の海だった。
「誰もが、自分の正義のためにハンドルを握りたがった」
カイは、壁に寄りかかり、血の混じった唾を吐いた。
人間が人間を支配しようとする。その傲慢さが、法を汚し、宗教を武器に変え、最後には自分たちが生きるための大地を焼き尽くした。
地平線の彼方から、新たな衝撃波が押し寄せた。
アッパー・セクターが放った「燃料気化爆弾」が、貧困層の密集地を襲ったのだ。酸素が奪われ、数万の人々が肺を破裂させながら死んでいく。その地獄を、富豪たちは「不適格者のクリーニング完了」というデータ上の一行として処理する。
だが、その報復もまた、すぐそこに迫っていた。
ロウ・セクターが最後の手段として放った「遺伝子崩壊ウイルス」が、アッパー・セクターの気密循環システムを突破していた。
自分たちだけは安全だと信じていた富豪たちは、自らの肌がボロ布のように剥がれ落ちる苦痛の中で、悲鳴を上げた。彼らが握りしめていた「富」も「特権」も、ウイルスという名の、最も平等で残酷な死の前では、ただの紙切れに過ぎなかった。
「……はは、は……」
カイは、焼け落ちた天井から見える暗い空を仰ぎ、笑った。
これでいい。
人間がハンドルを握り続けた結果がこれならば、この種に生きる価値などない。
私欲を正義と呼び、他者を踏みにじることでしか幸福を感じられない欠陥品。
この焔こそが、人類が自ら選んだ、唯一の「正しい帰結」だ。
街は燃え、人は死に、土は腐り、海は毒に満たされた。
人類が数千年かけて築き上げた文明は、わずか数年の「欲望の暴走」によって、自らその幕を引いたのである。
音を立てて崩れ落ちる世界の中で、カイは意識が遠のくのを感じていた。
熱波が視界を白く染め上げ、すべてを無に帰していく。
そこにはもう、福祉も、搾取も、正義もなかった。
ただ、人間という生き物の「救いようのなさ」を嘲笑うかのような、激しい風鳴りだけが響いていた。
人類のハンドルは、ついに灰となり、虚空へと消えた。




