強欲の獣たち
セントラルの美しい石畳を歩く権利を剥奪された人々が、外縁部へと追放されてから一年。世界はもはや、一つの共同体であることをやめていた。
かつての「国家」という枠組みは、内側から食い破られた抜け殻のように形骸化し、世界は「富豪領」と「放棄領域」という、絶望的な二極に切り分けられた。それは地図上の境界線ではなく、純粋に「資本」という名の血統、あるいは「有用性」という名の神託による残酷な分断であった。
主人公・カイは、かつての福祉局事務員としての身分を失い、今はロウ・セクターの一つ、第14居住区の「管理代行官」という地位に甘んじていた。名目は公務員だが、実態はアッパー・セクターから派遣された、家畜の群れを管理する「剥ぎ取り屋」に過ぎない。
「カイ代行官。今月の『資源回収ノルマ』だが。あと三パーセント足りないぞ」
執務室のホログラム・モニターが、冷淡な電子音と共に起動した。映し出されたのは、アッパー・セクターの輝かしい高層ビルの最上階に座る、弱冠二十歳の執行官だ。彼は最高級のシルクを身に纏い、熟成されたヴィンテージのワインを転がしながら、カイが提出した報告書を汚物でも見るかのような目で一瞥した。
「これ以上は不可能です」
カイは、渇いた喉を鳴らして答えた。
「食料配給は昨月の段階で生存限界まで削り、住居の暖房用燃料すら『環境負担金』として徴収しました。これ以上絞れば、冬を越せない者が数千単位で出ます。それはもはや管理ではなく、殺戮です」
執行官は、心底退屈そうに鼻で笑った。その瞳には、目の前の人間が自分と同じ種族であるという認識すら存在していない。
「殺戮? カイ、君はまだそんな骨董品のような道徳を抱えて生きているのか。彼らはもはや『市民』ではない。アッパー・セクターの輝かしい繁栄を維持するための、ただの消耗品だ。効率の悪いリソースが淘汰されるのは、自然界の輝かしい摂理だろう? 私たちのこの『高貴な生活』を支えるために、彼らには相応の義務を果たしてもらわねば困るのだよ。死にたくなければ、死ぬ以上の価値をこちらへ差し出すことだ。それが、君たちの信奉した『自由』の正体だろう?」
モニターが消えた後、カイは執務室の窓から外を眺めた。そこには、かつての福祉国家の面影など塵ほどもない、地獄のパノラマが広がっていた。
ロウ・セクター。そこは、アッパー・セクターに君臨する富豪たちが、自分たちの手を汚さずに欲望の果実を貪るための「巨大な解体工場」だった。街のあちこちには、民営化された「債務回収警備隊」の重武装した兵士たちが目を光らせている。住民たちは、かつて政府から無償で提供されていた住居の「維持管理費」という名の法外な家賃を払うため、朝から晩まで過酷な労働に身を投じていた。
福祉という名の保護膜が消えた後の世界を支配したのは、正義でも慈悲でもなく、剥き出しの「スコア」だった。
人間の一生は、その人間がどれだけの利益を生むかという数値で管理される。スコアの低い子供は、まともな教育を受ける権利を「機会の損失」として奪われ、スコアの落ちた老人は「自己責任」の名の下に、医療も暖房もない廃墟へと廃棄される。
カイが巡回に出ると、泥と油にまみれた細い腕が彼の裾を掴んだ。
「おじちゃん、お腹すいた……昨日から何も……」
虚ろな瞳をした、七歳にも満たない少女だった。
かつてなら、カイは即座に彼女を抱き上げ、支援プログラムの手続きを開始したはずだ。だが今、彼の重い制服のポケットに入っているのは、食料チケットではなく、ノルマを達成するための「強制徴収通知」だけだった。
「……すまない」
カイは少女の手を、熱い鉄に触れたかのように振り払い、目を逸らした。
後ろを振り返れば、その少女は「公共の美観を損なう不良債権」として、警備員に乱暴に路地裏へと蹴り飛ばされていた。その光景を見ても、通行人は誰も足を止めない。他者を助ける余裕など、誰の魂にも残っていないのだ。
一方で、巨大な壁の向こう側、アッパー・セクターの光景は、吐き気がするほどに絢爛であった。
カイは業務連絡のために一度だけその「聖域」に足を踏み入れたことがある。そこでは、かつて実業家のエドワードが切望した「努力が報われる社会」が、怪物のような進化を遂げていた。
富豪たちは、もはや自ら労働することすらしていない。彼らの欲望を叶えるのは、ロウ・セクターから吸い上げられた莫大な富と、そこで奴隷のように働く人々が作り出す奢侈品の山だ。彼らは「自由」を謳歌していた。だが、その自由とは、他者の尊厳を徹底的に踏みにじり、際限なくエゴを肥大化させる権利のことに他ならなかった。
「見てごらんなさい、この最新のバイオ・ドレス。ロウ・セクターの若い娘たちの皮膚組織から培養された、生きた布よ。美しいでしょう?」
宝石を散りばめたパーティー会場で、ある富豪の婦人が誇らしげにグラスを掲げていた。
「あちらの人たちも、自分たちの一部が私たちの美しさの一部になれるのだから、光栄に思うべきよね。何しろ、あの不潔な場所でただ朽ち果てるだけの、価値のない命なのですから」
そこには、もはや「同胞」という概念すら存在しなかった。
彼らにとって、貧困層はただの動く「資源」か、あるいは便利な「スペアパーツ」に過ぎない。自分たちの欲望という神のために、他者の命を合法的に生贄に捧げる。それを彼らは、最新の「合理的適者生存論」を持ち出して正当化していた。
かつて、福祉の綻びに絶望し、「強者のハンドル」を求めた人々。彼らが手に入れたのは、正義ではなく、果てしない「略奪の認可」だった。法は、強者の贅沢を神聖侵すべからざる権利として保護するためにのみ研ぎ澄まされ、弱者は「不運な敗者」というレッテルを貼られて、その存在意義さえも抹消されていった。
カイは、ロウ・セクターの惨状と、アッパー・セクターの不浄な輝きを交互に見つめながら、確信していた。
この歪みきった天秤は、もう誰の手にも戻せない。
富豪たちは、自分たちの特権を永続させるために、さらなる資源を求め、さらなる苦痛を他者に強いる。その欲求には果てがない。一方で、底なしの飢えを抱えた貧困層の瞳には、かつての生気のない絶望ではなく、どす黒く、粘り気のある「憎悪」の炎が宿り始めていた。
「福祉」という名の、人間を人間として繋ぎ止めていた細い糸が完全に断ち切られたとき、残ったのは、自らを神と勘違いした「強欲な獣」と、その獣を食い殺そうと牙を研ぐ「飢えた野獣」だけだった。
第2居住区の配給所で、最初の爆発音が響いたのは、その日の夜のことだった。
それは単なる空腹による暴動ではなかった。
奪われ、削られ、尊厳をズタズタにされた者たちが、初めて自分たちの「欲望」――すなわち、自分たちを家畜として扱った強者たちを、血の海に引きずり込み、すべてを焼き尽くしたいという純粋な「破壊の快楽」を爆発させた、終わりの始まりだった。
アッパー・セクターの富豪たちは、モニター越しにそれを見ても、まだ優雅に笑っていた。
「野蛮な連中だ。少しばかり、害虫駆除の薬が必要なようだな」
彼らは、自分たちが握るハンドルが、すでに地獄の断崖に向かって固定されていることにすら気づいていなかった。人間の欲望は、ついには自らをも焼き尽くす黒い太陽となることを、誰もが忘れ去っていたのである。




