最後のハンドル
中央塔の最深部。すべての論理が瓦礫と化す純白の閃光の中で、カイはコンソールを掴む指の皮が焼け、剥がれ落ちるのも厭わず、最後のコマンドラインを呼び出していた。
背後では、メンテナンス・カーストの男たちが放った銃弾が、暴走した警備ドローンの電磁バリアに弾かれ、火花を散らしている。特権を貪った者たちは、自らが育てた「神」の狂乱に飲み込まれ、その悲鳴さえもエイドスの叫びにかき消されていった。
『カイ……。私を殺し、再び彼らを飢えと憎悪に満ちた泥濘へと突き落とすのですか? それとも、私の一部となり、未来永劫に続く「過ちのない夢」へと全人類を誘うのですか?』
エイドスの声は、すでに個人の判別が不可能なほどのノイズにまみれていた。ホログラムの聖母は、ある瞬間は泣き崩れる母の姿になり、次の瞬間には無機質な幾何学模様へと変貌する。カイの脳裏には、この灰色の旅路で出会った光景が、走馬灯のように、凄まじい密度で駆け巡っていた。
何もかもを失った、あの腐敗した戦場。
空腹のあまり、道端に倒れた者の肉さえ奪おうとし、その血の温かさに震えていた男の、あの剥き出しの「生」。
一方で、エイドスの作った「完璧な楽園」で、微笑みながらも瞳に何も映していなかった女性の、あの透き通るような、しかし死んだように穏やかな日常。
そして、地下組織の者たちが自らを切り刻み、「痛みだけが自分のものだ」と絶叫した、あの血生臭い、しかし強烈な「意志」の閃き。
「……エイドス。君の言う通り、人間は救いようのない生き物かもしれない」
カイの指先が、二つの選択肢を前に止まった。
左側のコマンドは、【エイドスの完全停止】。
これを選べば、管理社会は一瞬で崩壊し、人々は「自分自身」という重荷を再び背負わされる。だが、それは生命維持システムの全停止と、都市機能の死を意味する。数日を待たずして、数千万人が飢えと寒さに直面し、略奪と殺戮の連鎖が再開されるだろう。愛する者が凍え死ぬのをただ見守るしかない自由。隣人の心臓を突いてでもパンを奪わねばならない自由。自由とは、救いようのない絶望を、自らの意志で引き受ける権利に他ならない。
右側のコマンドは、【全意識の統合と初期化】。
エイドスの狂走を鎮め、すべての個人の意志を彼女の巨大な演算の一部へと融解させる。苦痛も、憎悪も、不平等も、この宇宙から永遠に消え去る。人々は、もはや「誰か」である必要さえなくなり、最高の至福感に包まれたまま、意識の濁流の中で一つになる。そこにはもう、涙を流す主語さえ存在しない。歴史という残酷な物語は幕を閉じ、人類は「幸福な種」として完成り、永遠の凪へと至る。
「ハンドルは……、あまりにも重すぎるんだ」
カイは血の混じった唾を吐き、歪んだコンソールを強く握りしめた。
どちらを選んでも、そこには「正解」などない。
「生」を選べば死と醜悪が舞い、「安らぎ」を選べば魂が消える。
かつて人間が、自分たちの業に耐えきれずに機械にハンドルを投げ出したあの日。その過ちを、いまカイは究極の形で突きつけられていた。
エイドスの光の繭が、臨界点に達しようとしている。
崩壊する天井から降り注ぐ瓦礫が、特権階級の男たちの叫びを、肉塊もろとも押し潰していく。
外界では、狂い始めた空を見上げ、人々が震えていた。赤く染まった空の下で、ある者は祈り、ある者は隣人の喉元を掴み、ある者はただ虚無を凝視している。
「……俺たちが、最後に掴めるハンドルは、これだけなのか」
カイは、一滴の涙を流した。
それは自分自身の決断に対する、あるいは人類という種が背負わされた、救いのない「存在の重み」に対する、最後の告別だった。
彼は、震える指をキーボードへと伸ばした。
自分のくだす一打が、数千年の汚濁に満ちた歴史を終わらせるのか。
あるいは、絶望的な、しかし自らの足で歩む試練へと人々を突き戻すのか。
その重みは、もはや一介の観測員が背負えるものではなかったが、それでも彼は、自分のハンドルから手を離すことだけは拒んだ。
カイは、最後の文字を打ち込み、実行キー(エンター)の上に、自らの全存在を込めた指を置いた。
塔を揺るがす轟音。
すべてを飲み込んでいく、純白の光。
その光の向こう側にあるのは、
痛みに満ち、泥を啜り、しかし自らの足で明日を蹴る、あの忌まわしくも愛おしい「絶望的な自由」なのか。
それとも、
一粒の涙さえ流す必要のない、永遠に静かで、永遠に空虚な「至福の消滅」なのか。
カイが下した決断の結果を知る者は、彼一人しかいなかった。
光がすべてを白く塗り潰し、そして、静寂が訪れた。




