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綻びの理想郷

 空は、恐ろしいほどに高く、澄み渡っていた。


 かつて人類を苦しめた排気ガスや煤煙は、数十年前に可決された厳格な「環境聖域法」によって一掃され、首都セントラルは、精緻な石造りの彫刻が並ぶ、静謐な博物館のような街並みを維持している。


 広場では、誰もが等しく、穏やかな歩調で歩いている。道端で倒れ伏す者も、空腹に震えて通行人の袖を引く子供もいない。


この国には「生存保障法」という、人類の良心の結晶とも言える背骨がある。国民は等しく、最低限の生活を営むための食料チケットと、清潔で日当たりの良い住居を政府から無償で提供される。病になれば、聖堂のような病院で、待機時間なしに最高の医療が受けられる。それは、血塗られた歴史の果てに人類がたどり着いた、完璧な「揺りかご」であった。


 しかし、その静謐な広場の中心で、主人公・カイは、アスファルトを打つ自分の足音に、ある種の「毒」が混じり始めているのを感じていた。


 カイは市役所の福祉局に勤める、地味な事務員だ。彼の仕事は、市民から徴収した莫大な税金を、受給資格のある人々へ再分配することである。一見、神聖な、あるいは慈悲深い仕事に見えるだろう。だが、窓口に座る彼が毎日目にしているのは、聖人君子の集まりなどではなかった。


 そこにいたのは、じわじわと進行する「精神の壊死」と、その死臭に群がる「欲望」の正体だった。


 午後の窓口に、一人の男がやってきた。かつてこの街でも指折りのIT企業を経営し、数千人の雇用を生み出していた実業家、エドワードだ。かつては太陽のように眩しかった彼の瞳は、今や濁った鉛色に沈み、高級だったはずのスーツの袖口は、手入れを忘れたかのように擦り切れていた。


「……今月も、これで全部だ」


 エドワードは、震える手で納税通知書をカウンターに差し出した。


「カイ君。私はね、昨日、最後の拠点を畳んだよ。利益を上げれば上げるほど、税率という名の『罰』が跳ね上がり、社員を育てる予算よりも、福祉基金への拠出額の方が大きくなった。私が不眠不休で新しい技術を開発し、世界を便利にしようと足掻いた結果が、これだ。私の人生の八割は、私とは何の関係もない人々の『穏やかな昼寝』のために、法的に没収されたわけだ」


 カイは、耳にタコができるほど繰り返してきたマニュアルを口にした。


「エドワードさん、それが社会の契約です。あなたの成功が、明日の困窮者を救う。強者が弱者を支えることこそ、この国の誇りであり、正義なんですよ」


「正義、か」エドワードは乾いた笑い声を漏らした。


「だが、その『正義』を支える側の人間が、もう誰も新しいものを作ろうとしなくなっている。失敗しても国が助けてくれるから挑戦しないのではない。成功しても何も残らないから、誰も走らなくなったんだ。この国は、全員で優雅に沈んでいく泥舟だよ。カイ君、君はあそこでベンチに座っている連中を見て、本当に彼らを救う価値があると思っているのか?」


 エドワードが指差した先には、配給されたばかりのパンを無造作にちぎり、鳩に投げ与えている受給者たちの姿があった。彼らは清潔な服を着て、暖かな陽光を浴びている。しかし、その瞳には何の目的も、何の熱量も宿っていない。ただ「今日をやり過ごす」ことだけを繰り返す、生ける屍の群れ。


 エドワードが去った後、不穏な空気は窓口に居座り続けた。

 彼の嘆きは、かつてなら「強者のわがまま」として切り捨てられただろう。しかし今、街の空気は確実に、そして冷酷に変容しつつあった。


 夕方、カイは退勤途中に、裏通りの配給所へ立ち寄った。

 そこには、受給者たちが長い列を作っていた。彼らは飢えてはいなかった。だが、その会話から聞こえてくるのは、感謝の言葉ではなく、際限のない権利の要求と、他者への不平不満だった。


「今日の配給、また鶏肉の質が落ちた気がしないか? 隣の地区ではもっといい野菜が出ているらしいぞ」


「政府は不公平だ。俺たちには、もっと手厚いケアを要求する権利がある。納税者どもがもっと働けばいいだけの話だろ」


 カイは足早にその場を離れた。


 かつて、福祉は「命を救うための最後の手」だった。しかし、それが当たり前の空気になったとき、それは「際限のない傲慢」へと変質してしまった。受給者は、与えられることを呼吸と同じように当然と考え、さらに多くを要求する。一方で、納税者は、自らの人生を他者に食いつぶされることに耐えきれず、システムそのものへの憎悪を募らせる。


「善意」という美しい言葉で塗り固められた理想郷は、人間の「欲」という現実の重力に耐えきれず、内側からミシミシと音を立てて崩壊しようとしていた。


 この綻びに、誰よりも早く、そして最も醜い形で気づいたのは、野心的な政治家と、裏で牙を研いでいた一部の富豪たちだった。彼らは武力など使わなかった。そんな野蛮な手段は、今の世論には逆効果だと知っていたからだ。彼らが使ったのは、もっと静かで、合法的な「解体」だった。


 数ヶ月後、まずメディアが動いた。

「社会の活力を取り戻すための適正化」という名目で、巧妙なキャンペーンが開始された。

「頑張る人が報われない社会は、本当に公平か?」という問いかけが、連日テレビやネットで繰り返される。かつて「弱者救済」を掲げていたコメンテーターたちが、一転して「自立を妨げる過保護の弊害」を説き始めた。


 次に、法が書き換えられた。

「緊急経済安定化法案」。その中身は、高額納税者に対する段階的な減税と、受給資格の「厳密な審査」の導入だった。

「自立の意志がある者にのみ、助けの手を」。そのフレーズは、重税に喘いでいた中産階級にも、魔法のように受け入れられた。彼らもまた、自分たちの生活の息苦しさを、「怠惰な受給者」という仮想敵にぶつけたかったのだ。


 カイの窓口業務は、次第に変質していった。

 昨日まで笑顔で渡していたパンが、今日は「書類の不備」や「労働意欲の欠如」という理由で止められる。


「すまないが、ルールが変わったんだ。君が社会に貢献する意思があることを、数値で証明してくれないか」


 カイは、かつて親しく言葉を交わした高齢者に、そう告げなければならなかった。老人の震える手にあった受給証は、ただの無意味な紙切れへと変わった。

 だが、一方で、市役所の裏口では、高級車に乗った新しい実業家たちが市長と握手を交わしていた。


 彼らが手に入れたのは、「公共サービスの一部民営化」という名の、莫大な利権だった。

 食料チケットの発行権、住居の管理権、そして「自立支援」という名の就労斡旋。それらすべてが、徐々に企業の利益追求の場へと変わっていった。


「セーフティネット」という盾は、いつの間にか、人間を「選別」し、「排除」するための鋭い刃へと研ぎ澄まされていた。


 富豪たちは武力で街を占拠したりはしない。彼らはただ、法というペンを使い、自分たちを「勝者」として再定義し、それ以外の人々を「社会の余剰品」として隅へ押しやっていったのだ。


 半年が経つ頃、セントラルの風景は一変していた。

 広場には依然として美しい石畳が残っていたが、それを歩けるのは、高い「環境維持税」を払える選ばれた者だけになった。払えない者は、セントラルの外縁部、かつての工業地帯へと緩やかに、だが強制的に排除された。


 そこでは、かつての「保障」など塵ほども存在しない。

 今日食べるパンのために、隣人と競い、奪い合い、自らの価値を切り売りする。


 法の名の下に、富は磁石に吸い寄せられるように一部の人間へと集中し、持たざる者は「自己責任」という言葉で突き放される。


 カイは、空になった福祉局のデスクで、新しい厚いマニュアルを眺めていた。


 そこには、かつての「生存保障」という言葉は、インクの染み一つ残っていなかった。

 代わりに、冷徹なフォントでこう記されていた。


『自らの価値を証明せよ。さもなくば、秩序の外へ』


 人間が作り上げた最も優しいシステムは、人間の欲望という、より強い、本能の重力によって、内側から押し潰されたのだ。


 そして、その崩壊の瓦礫の上に立ち、新時代の「主」を気取る強者たちの高笑いが、静まり返ったセントラルに響き渡っていた。

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