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ゴールドラッシュ

作者: 上植下志多

「おい、まだ生きてるな。……死ぬなよ。金にならない」


 低い、しかし響く声が、鉛のように重い意識の底に届いた。腹の底で「ゴトン」と鈍い音がした。それは、何日もまともなものを口にしていない自分の胃が、空虚にひしゃげた音なのかもしれない。


 レノンはうっすらと目を開いた。視界はぼやけていて、頭の奥がガンガンと痛む。鼻腔をくすぐるのは、土と湿った草の匂い。そして、口の中に広がる、苦い鉄の味――血だ。自分のものか、あるいは。


 身体は浮いていた。誰かに担がれている。揺れる視界の端に、白く整った横顔が見えた。逆光の中、その男の表情は読めないが、整った鼻筋と薄い唇が印象的だった。


「おい……てめぇ、誰だ……」


 掠れた声が、喉の奥から絞り出された。


「はいはい、喋れるなら大丈夫だな。黙ってろ」


 淡々とした返事が降ってくる。担いでいる男は無表情で、ただひたすらに森の奥へと歩を進めていた。その背に揺られながら、レノンは再び意識を手放した。


 ◇ ◇ ◇


 次に目を覚ました時、レノンは硬い寝台の上にいた。鼻をつくのは、獣の毛皮と焚き火の煙の匂い。ここは、狩人が使うような質素な木造の小屋のようだった。


「……クソ、頭いてぇ……どこだ、ここ」


 身体中が軋むように痛む。全身が疲労と空腹で悲鳴を上げていた。ここ数日の記憶は曖昧で、自分がなぜこんな森の奥深くで倒れていたのかも思い出せない。ただ、枕元に立てかけられた錆びた片手剣だけが、かろうじて自分の持ち物だと主張していた。


「生き返ったか。どうやら頑丈そうな体は本物らしいな」


 声がした方を振り向くと、小屋の隅にある粗末な椅子に、一人の青年が座っていた。彼は手に分厚い書物を持ち、ちらりとレノンに目をやった。灰銀色の髪に、端正な顔立ち。感情の読めない、色素の薄い銀色の瞳が、どこかレノンのことを値踏みするように見ていた。


「……助けたのか、お前が?」


 レノンが尋ねると、青年はゆっくりと本を閉じ、静かに答えた。


「その通り。君が森で獣に喰われかけていたからな。拾ったのは暇つぶしだ」


「暇つぶしだと? ふざけたこと言いやがる……だが、命拾いしたぜ。礼はあとで返す。俺ぁレノン。名前は?」


「プラント。しがない旅人だ」


 プラントはそう言って立ち上がり、テーブルの上に置いてあった小さな革袋と、水筒をレノンに差し出した。


「ゆっくり飲め。それから、これを食え。森の道はまだ続く」


 レノンは言葉通りに水筒を受け取り、渇いた喉を潤した。水が五臓六腑に染み渡り、少しだけ意識がはっきりする。革袋の中からは、硬い干し肉が出てきた。それをむさぼり食うと、腹の底からじんわりと温かさが広がった。


 プラントはレノンの食べっぷりを、まるで興味深い実験結果を観察するかのように静かに見つめていた。その視線に、同情や憐憫の情は一切見当たらない。ただ純粋な観察と、ごくわずかな好奇心だけがそこにあった。


 食べ終えたレノンは、ふとプラントの傍らに置かれた地図に目を留めた。それはこの辺りの地形が詳細に描かれたものだった。


「あんた、こんな森の奥で何してんだ?」


 素朴な疑問を口にすると、プラントは地図に視線を落としたまま答えた。


「この先にある村が、近いうちに盗賊に狙われるという情報がある」


 レノンは眉をひそめた。


「盗賊に? 物資でも奪うつもりか?」


「奪うのは盗賊だ。私はその『隙』を狙っている」


「隙、だと?」


 プラントは地図上の、ある一点を指差した。


「盗賊が村を襲えば、当然、村の防御は手薄になる。その混乱に乗じて、村の外に運び出されるはずだった物資――特に、彼らが換金性の低いと判断し、見過ごすであろう品を安く買い叩く。あるいは、盗賊が手をつけなかった隠し財産でもいい。リスクは高いが、成功すれば大きな利益になる」


 レノンは目を丸くした。こんなことを平然と言い放つ男に、レノンは出会ったことがなかった。


「……てめぇ、とんでもねぇ野郎だな」


 プラントは感情の読めない瞳でレノンを見た。


「君は、私が道徳的に非難されるべきだと言いたいのか? しかし、私は誰も傷つけない。ただ、争いの混乱に乗じて利益を得るだけだ。これが、商いというものだ」


「商い……」


 レノンは呆れたように呟いた。だが、同時に胸の奥で、何かがちりと音を立てたような気がした。暴力ではなく、頭脳で金を得る。それは、レノンにとってまったく新しい概念だった。


「……俺を助けたのも、その商いの駒にするつもりか?」


 プラントはわずかに口角を上げた。それは、レノンが初めて見たプラントの表情だった。その銀色の瞳の奥に、レノンはかすかな期待のような光を見た気がした。


「さてな。君の勘に、どこまで鋭さがあるか、試してみるのも悪くない」


 プラントは立ち上がると、小屋の入り口を指差した。


「準備しろ。これから森の奥に入る。まだ日が暮れるまでに、やるべきことがある」


 レノンはプラントの言葉の真意を測りかねながらも、錆びた剣を手に取った。この男が何を企んでいるのかは分からない。しかし、腹の底で渦巻く空腹と、この森で生きていくための術を考えれば、プラントについていく以外の選択肢はなかった。


「……ったく、付き合ってやるよ」


 そう言って、レノンはプラントの後に続いた。まだ何も語らぬ二人の間に、奇妙な共犯関係のような空気が流れ始めていた。


 ◇ ◇ ◇ 


 プラントに連れられ、レノンは再び森の奥へと足を踏み入れていた。プラントは足元に生える薬草やキノコを注意深く観察しながら進み、時折、その名を呟く。レノンにはどれも同じような草にしか見えなかったが、プラントの瞳は明らかに何かを探し求めているようだった。


「おい、本当にこんなとこに何かあるのかよ? 盗賊とやらもどこにいるか分かんねぇし、下手したらまた獣に襲われるぞ」


 レノンは警戒しながら、錆びた剣の柄に手をかけた。森はさらに深く、薄暗い。昼間だというのに、木々の葉が太陽の光を遮り、まるで夜の帳が下りているかのようだった。


「不安か? 死ぬのが怖いなら、ここで引き返すか?」


 プラントは振り返りもせず、淡々と言い放つ。その声には一切の感情がこもっていなかった。レノンは舌打ちした。


「誰がビビってんだよ。別に死ぬのは怖くねぇ。ただ、死ぬなら金にならないって言うテメェの言葉を信じて、金になることをしたいだけだ」


「なるほど。それはいい。合理的だ」


 プラントは満足そうに頷いた。その時、レノンは足元の地面がわずかに揺れたのを感じた。


「おい、なんだ?」


 次の瞬間、木々の間から黒い影が飛び出した。それは、熊のような巨体を持つモンスターだった。唸り声を上げながら、レノンめがけて突進してくる。


「クソッ!」


 レノンは咄嗟に剣を構えた。身体はまだ万全ではない。だが、戦闘はレノンの本能に刻み込まれている。彼は吼える獣の攻撃を紙一重でかわし、剣を横に薙いだ。錆びた刃が、獣の分厚い毛皮をわずかに切り裂く。


 獣はさらに激昂し、前足を振り上げた。その爪は丸太のように太く、一撃でも食らえばただでは済まないだろう。レノンは後方に跳び、さらに距離を取ろうとしたが、足元の木の根につまずき、体勢を崩した。


「まずい……!」


 諦めかけたその時、プラントの声が飛んだ。


「左だ! その木の陰に隠れろ!」


 レノンは指示通りに、近くにあった太い木の幹の裏に飛び込んだ。獣の爪が、先ほどまでレノンがいた場所を容赦なく引き裂く。


 プラントは冷静だった。彼は獣の動きを注意深く観察し、懐から小さな石を取り出した。それはただの石ではない。プラントはそれを獣の背後に投げつけ、正確に木の幹にぶつけた。カンッ、と乾いた音が森に響く。


 獣はその音に反応し、一瞬だけそちらに気を取られた。その隙をレノンは見逃さなかった。彼は木陰から飛び出し、獣の脇腹目掛けて剣を突き込んだ。


「うおおおおお!」


 渾身の一撃。獣は苦悶の咆哮を上げ、よろめいた。レノンは追撃をかけようとしたが、獣はすでに血を流しながら森の奥へと逃げ去っていた。


 レノンは肩で息をしながら、荒い呼吸を整えた。身体中の筋肉が悲鳴を上げている。


「クソッ、逃がしちまったか……」


「構わない。目的は果たした」


 プラントが近づいてきた。彼は獣が逃げ去った方向をじっと見つめている。


「目的ってなんだよ。あいつを狩るわけじゃなかったんだろ?」


「ああ。あれはただの警告だ。この森の危険性を君に実感させるため、そして……」


 プラントは獣がいた場所のさらに奥を指差した。そこには、うっそうと茂る木々に囲まれるようにして、ぽっかりと開いた小さな洞窟のような場所があった。


「あの獣は、あそこから出てきた。ということは、あそこが奴の巣穴の可能性が高い。同時に、奴が守ろうとする何かも、そこにあるはずだ」


 レノンは警戒しながら洞窟に近づいた。獣の体臭が濃く漂い、薄暗い洞窟の奥からは何か甘い匂いがする。


「……なんだ、これ?」


 洞窟の中は、意外なほど広かった。奥に進むと、天井から大量の六角形の塊がぶら下がっているのが見えた。蜜蜂の巣だ。だが、その巣の色が、通常の蜂蜜とは異なっていた。光に透けるような黄金色で、所々に、見たこともないほど鮮やかな色の花びらが混じっている。


「これは……」


 レノンが思わず手を伸ばすと、プラントが止めた。


「待て。蜜蜂はいないが、まだ毒があるかもしれない。それに……」


 プラントは懐から小さなナイフを取り出し、巣の一部を切り取った。彼はそれを注意深く観察し、鼻に近づけて匂いを嗅ぐ。


「……芳醇な花の香りだ。通常の蜂蜜とは明らかに異なる。これは、この森特有の植物から採取された蜜蜂の巣だろう。珍しい。そして、これは…」


 プラントはさらに奥へと進んだ。洞窟の壁には、びっしりとツタのような植物が絡みつき、その隙間から、見たことのない奇妙な色の花が咲いていた。その花は、ほのかな光を放ち、洞窟全体を幻想的に照らしている。


 プラントはその花の一つを採取し、匂いを嗅いだ。


「これは、薬草だ。それも、かなりの薬効を持つものが混ざっている。蜂蜜と組み合わせれば、さらに価値が高まるだろう」


 レノンは目の前の光景に呆然としていた。あんな獰猛な獣が守っていたものが、まさかこんな甘い蜜と、見慣れない花だったとは。


「おい、これ……金になんのか?」


 レノンが尋ねると、プラントはレノンの顔をまっすぐ見た。その銀色の瞳には、興奮とも違う、純粋な「計算」の光が宿っていた。


「ああ。高く売れる。……という仮説を、試してみたい」


 プラントはそう言って、蜜と薬草を丁寧に革袋に詰めていく。レノンの脳裏に、プラントの言葉が蘇った。「金にならない」。「合理性」。そして、目の前の黄金色の蜜と、未知の薬草。


 暴力だけが全てではない。この男は、力だけでは得られない「何か」を、この森から見つけ出した。そして、それを「金」に変える術を知っている。


 レノンは、自身の錆びた剣と、プラントが淡々と詰め込む蜜の瓶を見比べた。


 この甘い蜜が、一体どれほどの金を生み出すのだろうか。そして、その金が、自分に何をもたらすのだろうか。レノンの胸の奥で、まだ漠然とした、しかし確かな予感が芽生え始めていた。


 ◇ ◇ ◇


 森での一悶着の後、レノンとプラントは、採取した黄金色の蜂蜜と薬草を携えて、カホンの町へと戻っていた。プラントは慣れた足取りで、村の裏手にある小さな家を目指す。そこは、薬師が生薬を扱う場所だと、道すがらプラントが説明した。


「おい、本当にこんなモンが金になるのかよ? ただの甘ったるい液体だろ」


 レノンは半信半疑だった。蜂蜜の価値など、ただの食料でしかないとしか思っていなかった。


「その『ただの甘ったるい液体』に、市場が求める『希少性』と『物語』を付与すればいい。そして、この薬草だ」


 プラントは革袋から、洞窟で見つけた奇妙な色の花をレノンに見せた。


「これは、この森でも滅多に見つからない薬効を持つ。この花が混ざった蜂蜜は、単なる食料以上の価値を持つだろう」


 プラントの言葉は常に理屈っぽいが、その根底には確かな確信があるようにレノンには感じられた。


 やがて二人は、苔むした屋根の小さな家に着いた。入り口には、様々な薬草が吊るされ、独特の香りが漂っている。プラントが戸を叩くと、中から静かな声が聞こえた。


「はい、どなた様でしょう?」


 戸が開くと、そこに立っていたのは、レノンと同年代くらいの女性だった。彼女は、腰まで届く豊かな黒髪を一つにまとめ、白い肌に薄紅色の唇が映える。その瞳は澄んでいて、知的な光が宿っている。身につけているのは簡素な薬師の服で、腰には小さな薬草入れをぶら下げていた。彼女の指先は、薬草を扱うためか、わずかに緑色に染まっているようだった。


「プラントと申します。以前、薬草の件でお話しした者です。今回は、ご相談したいことがあり参りました」


 プラントが名乗ると、女性はわずかに目を見開いた。


「あら、あなたが。私はラウラと申します。どうぞ、中へ」


 ラウラは二人を招き入れた。室内は、壁一面に棚が据え付けられ、乾燥させた薬草や、様々な色の液体が入った瓶がぎっしりと並べられている。中央には大きな作業台があり、数種類の薬草が広げられていた。


 プラントは革袋から蜂蜜の塊と薬草の束を取り出し、作業台の上に置いた。


「ラウラ殿、これを見ていただきたい。森の奥で見つけたものだ」


 ラウラは蜂蜜の塊に顔を近づけ、深く息を吸い込んだ。その表情は、まるで長年探し求めていた宝物を見つけたかのようだった。


「これは……! 素晴らしい香りの蜂蜜ね! こんな芳醇な香りは初めて嗅ぐわ。まるで、森の精霊が囁いているみたい……!」


 次に、プラントが差し出した奇妙な色の花を手に取った。彼女の指が、花びらをそっと撫でる。


「そして、この花は……まさか! 『虹色の露草』ね! 私、図鑑でしか見たことがなかったわ。この花は、特定の時期にしか咲かない上に、見つけること自体が非常に難しいのよ。奇跡だわ……!」


 ラウラの声には、興奮と感動が入り混じっていた。彼女は花を胸に抱きしめるようにして、その美しさを堪能している。


「この露草には、微量ながらも痛みを和らげる効果があるとされているの。それをこの蜂蜜と組み合わせたら……ただの甘味料ではなく、心と体を癒やす、特別なものになるはずよ!」


 ラウラは目を閉じて想像するかのように呟いた。その表情は、純粋な探求心と、人々を癒やしたいという強い願いに満ちていた。


「その『組み合わせ』について、ご協力願いたい」


 プラントは本題に入った。


「この蜂蜜と露草を加工し、都市で売れる商品にしたい。ラウラ殿の知識と技術があれば、それが可能だと考えた」


 ラウラは驚いたように顔を上げた。


「私の知識と技術を? でも、私は薬師であって、商人ではないわ。それに、こんな貴重な花を、ただの商売道具にしてしまっていいのかしら……?」


 彼女の言葉には、わずかな戸惑いが滲んでいた。だが、プラントは動じない。


「心配いらない。取引は私が請け負う。君には、商品の品質管理と加工技術の提供を依頼したい。もちろん、利益は公平に分配する。そして、この特別な蜂蜜が、より多くの人々の手に渡り、その心と体を癒やすことこそが、この花の真の価値を引き出すことになるだろう」


 プラントは、ラウラの純粋な心を揺さぶる言葉を選んだ。レノンは黙って二人のやり取りを見ていた。プラントが、これまで見たこともないような速さで、物事を具体的に進めていることに驚きを隠せない。


 ラウラは少し考え込んだ。そして、ゆっくりと頷いた。


「分かったわ。プラントさんの言う通りね。こんな素晴らしい素材を眠らせておくのはもったいないもの。それに、私自身も、この花香蜂蜜の可能性を試してみたい。人々の役に立てるなら、喜んで協力するわ」


 こうして、レノン、プラント、そして薬師のラウラによる、新たな「商い」の計画が始まった。


 数日後、ラウラの小屋は、甘い香りと薬草の匂いが混じり合った独特の空間と化していた。ラウラは採取された蜂蜜を丁寧に精製し、虹色の露草を乾燥させて細かく砕き、最適な比率で混ぜ合わせていく。彼女の指先は、まるで踊るように繊細に動き、一つ一つの工程に魂を込めているようだった。レノンはラウラの指示に従い、薪をくべたり、重い瓶を運んだり、雑務を手伝った。ラウラは時折、レノンの不器用な手つきを見て、くすりと笑いながらも、優しく教えてくれた。


 プラントは、その様子を観察しながら、帳簿に何かを書き記している。時折、レノンに瓶の重さを尋ねたり、蜂蜜の色味の変化を尋ねたりした。その問いは、全てが精確なデータ収集のためだとレノンは直感した。


「おい、これ、本当に売れんのか? こんな地味な作業してよ」


 レノンが思わず尋ねると、ラウラは優しく微笑んだ。


「大丈夫よ、レノンさん。この蜂蜜は、特別なものになる。私はそう信じているわ。だって、こんなに美しい香りを、この村以外の誰にも知られないなんて、もったいないもの。それに、この蜂蜜が売れれば、もっと多くの薬草を研究できるわ。それが私の夢なの」


 その言葉は、プラントの「合理的」な説明とは全く異なるものだった。だが、レノンにはラウラの言葉の方が、なぜか胸にストンと落ちるような気がした。


 やがて、黄金色の蜂蜜は、小さなガラス瓶に詰められ、「花香蜂蜜《森語》」という、プラントが考案した洒落た名前のラベルが貼られた。一つ一つが、まるで宝石のように輝いていた。


「よし。これで第一陣だ。早速、街へ持ち込む」


 プラントは完成した蜂蜜の瓶を眺め、満足そうに頷いた。レノンは、自分たちが採取したものが、こんなにも美しい商品になったことに、わずかな感動を覚えていた。


「……金があれば、殴らずに済むかもな」


 帰り道、レノンはふと、ぽつりと呟いた。プラントは何も言わずに隣を歩いていたが、レノンの言葉を確かに聞き留めていた。暴力でしか問題解決の手段を知らなかったレノンにとって、これは、初めて「商い」という新たな道への決意が芽生えた瞬間だった。


 ◇ ◇ ◇


 カホンの町からレベックへと向かう道中、レノンとプラントの足取りは、かつてとは比べ物にならないほど軽かった。馬車を連ねた商人の隊列に紛れて、厳重に梱包された「花香蜂蜜《森語》」の入った木箱を運んでいる。レノンは、初めての本格的な商売に、どこか落ち着かない様子だった。


「おい、本当にこんなとこでいいのか? もっとデカい街じゃねぇのか?」


 レノンは、目の前に広がる都市の入り口を見て、プラントに尋ねた。そこは、確かに活気はあるが、想像していたほどの大都市ではなかった。


「最初から大きすぎる場所は避ける。規模の小さい市場から始めて、徐々に評判を広めるのが定石だ。それに、レベックは貴族の別邸が多く、新しいもの好きの富裕層も少なくない。それに、何より…」


 プラントは、レノンの顔をちらりと見た。


「君が初めて『金』を実感するには、この規模が最適だろう」


 街の門をくぐると、人の声と活気が一気に押し寄せた。色とりどりの露店が軒を連ね、活きのいい掛け声が飛び交う。レノンは、その熱気にどこか浮き足立っている自分に気づいた。


 プラントは事前に目星をつけていたらしい、人通りの多い一角に簡素な露店を開いた。小さなテーブルに、ラウラが丁寧に詰め直してくれた「花香蜂蜜《森語》」の瓶が、陽光を受けて黄金色に輝いている。


「一本、通常の蜂蜜の約三倍。瓶とラベルも含めてブランド化している」


 プラントは、通行人に向けて、淡々とした声で説明を始めた。その口調は冷静だが、彼の瞳の奥には、確かな自信が宿っている。


「たけぇな……」


 レノンは思わず呟いた。村ではただの甘味料だった蜂蜜が、こんな高値で売れるとは信じられなかった。


「試してみればわかる」


 プラントは小さな木のスプーンに蜂蜜を少量すくい、通りかかった中年の婦人に差し出した。婦人は半信半疑といった表情で、そのスプーンを受け取った。そして、蜂蜜を口に含んだ瞬間、彼女の顔色がみるみる変わった。


「まぁ……! なんて、なんて芳醇な香りでしょう! 口の中に花畑が広がるようだわ!」


 婦人は目を輝かせ、興奮したように叫んだ。その声に引き寄せられ、次々と人々が露店の周りに集まってくる。プラントは、その一人一人に丁寧な説明と試食を繰り返した。


 レノンは、プラントの隣で、ただ突っ立っていることしかできなかった。人々の熱気に圧倒され、何をすればいいのか分からない。


「レノン、君も試供品を配れ。そして、その蜂蜜が、どれほど特別なものか、君の言葉で伝えろ」


 プラントが指示した。レノンは戸惑いながらも、蜂蜜の瓶とスプーンを手に取った。


「え、えっと……これ、森の奥で見つけた、すげぇ蜂蜜なんだ!」


 レノンは、いつもの荒っぽい口調で、しかし精一杯の熱意を込めて声をかけた。彼の真っ直ぐな言葉と、飾らない表情は、プラントの洗練された説明とはまた違う、素朴な魅力を放っていた。


「あら、坊や。そんなに熱心に勧めるなんて、よほど自信があるのね」


 一人の若い女性が、興味深そうにレノンを見た。レノンは、少し顔を赤くしながら、蜂蜜を差し出した。女性はそれを口にし、目を丸くした。


「……本当だわ! こんなに香りの良い蜂蜜は初めて! あなたが森で見つけたの?」


「おう! 命懸けでな!」


 レノンは、自分の体験を交えながら、蜂蜜の特別さを語った。彼の言葉は、プラントの理屈よりも、人々の心に直接響いたようだった。次々と瓶が売れていく。レノンは、客から手渡される金貨の感触に、初めての喜びを感じていた。


「おい、プラント。これ……全部、売れたのか?」


 レノンは興奮気味に尋ねた。手の中の金袋は、ずっしりと重い。


「当然だ。あれだけの素材と香りなら、適正価格だ。市場がこれを“欲しい”と感じた。需要と供給、希少性、そして品質。全ての条件が揃っている」


 プラントは淡々と答えた。その顔には、一切の感情が見られない。


「すげえな……あんな粘っこいもんで、これだけの金が動くのか。」


 レノンは、蜂蜜の樽を指差した。


「金が動くんじゃない。“欲”が動くんだ。金はその流れの中継点に過ぎない。」


 プラントは、レノンの問いに、まるで講義をするかのように答えた。


「……なんかムカつくけど、今のカッコいいな。」


 レノンは苦笑した。


「君の顔よりは、たぶん。」


 プラントの言葉に、レノンはニヤリと笑い、拳を構えた。


「ぶっ飛ばすぞ?」


 プラントはわずかに口角を上げた。


 レノンは、手の中の金袋の重みを改めて感じた。暴力で得た金とは全く違う、この心地よい重み。


「笑顔で金を渡されたのは……たぶん初めてだ」


 レノンはそう呟いた。プラントは何も言わずに隣に立っていたが、その視線は遠くを見据えているようだった。


 この日、無一文の男たちは、初めて「利益」という名の光を手に入れた。それは、彼らが「商人」として歩み始める、確かな一歩となった。

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