婚約者に“あと3年待ってくれ”と言われたので、令嬢は未来を自ら選びます
冬の王都、ヴィスコント伯爵家主催の舞踏会は今まさに最高潮を迎えようとしていた。
煌びやかなホールでは、貴族たちがワルツに身を任せ、談笑と笑い声が交差する。
「リシアン、そろそろ踊りに行かないのか?」
窓際でグラスを傾けていた青年に、声がかかった。呼ばれた名はリシアン・ヴェルテリオ、三十一歳。名門ヴェルテリオ伯爵家の次男。
声の主は友人のグレン・カーヴィス。侯爵家の跡取り息子にして、今宵はすでに何人もの令嬢とダンスを楽しんできたらしい。
「……そうだな。まあ、そのうち。」
リシアンは淡く笑うが、その表情にはどこか陰りがあった。
グレンがちらりとホール中央を見やる。踊るカップルの中に、彼の婚約者の姿はまだ見えないようだ。
「セラフィーナと踊るんだろ?」
「もちろん……、そのつもりだよ。」
グラスを揺らしながらそう答えると、リシアンはそっと息をつく。
――セラフィーナ。
三年前に家同士の取り決めで婚約した、あの人はもう来ているはずだ。けれど姿は見えない。控室か、別のグループか――。
リシアンは小さく首を振り、再び窓の外に目をやった。
星の瞬きが、やけに遠く感じられた。
「待っていても仕方ない。俺から探しに行ったほうがいい、か……。」
グレンが、からかうように肩をすくめる。
「なんだか、おまえらしくもないな。もう三年も婚約してるってのに。今日こそ結婚の話をまとめるって噂も聞いたが?」
「……ああ。そうだ。俺は今日こそ、はっきりと求婚しようと思う。ようやく、その準備ができたから……。」
リシアンはグラスを置き、胸のポケットをそっと確かめる。そこには、小さな箱が収まっていた。金細工の指輪――婚約指輪を改めて贈ろうと思って用意したものだ。
――三年間、セラフィーナを待たせた。だが今度こそ、約束を果たす。
リシアンはそう自分に言い聞かせる。
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「ねえ、リシアン様、お久しぶりですわ。」
しばらくして、友人グレンと別れたリシアンは、ホール内を一回りしてセラフィーナの姿を探した。すると、ふと知人の令嬢に声をかけられる。
「おや、アンジェリカ嬢。ご機嫌麗しゅう。」
アンジェリカは伯爵家の娘で、ややおっとりした雰囲気を持つ美女だが、リシアンの視線が探す相手が自分でないことを察して微笑んだ。
「セラフィーナ様なら、さっき向こうのサロンにいらっしゃいましたわ。いろいろな方とお話しされていて……とても楽しそうでしたのよ。」
「……ありがとう、助かった。」
リシアンはアンジェリカに会釈し、教えられたサロンの方へ足を向ける。そこは舞踏ホールと廊下で繋がっており、少し喧騒が落ち着いた空間。絵画や花飾りが美しく設えられ、飲み物や軽食を楽しみながら談笑できるスペースになっている。
そして、見つけた。
セラフィーナ・エルグレイン。
婚約者であり、三年来の“愛すべき”女性。
黄金色のドレスを纏ったセラフィーナは、三十一歳という年齢を気品と美しさに昇華させ、場の空気すらも静かに支配していた。ウェーブのかかった深みのある茶髪を夜会の装いに結い上げ、首元には細い金のチェーンを一つだけ。耳飾りも小さく品の良いものを選び、ドレス全体のラインは優美でありながらどこか凛とした空気を湛えている。
特に印象的なのは、その瞳。三年前、リシアンが家同士の取り決めで「婚約しよう」と言ったときは、少女のように純粋なときめきを宿していた。しかし今は――その奥に“静かな落ち着き”と“意志”があるように見えた。
笑顔で男性客らと談笑していたセラフィーナは、リシアンが近づくと彼らに一礼して話を切り上げる。
「セラフィーナ……随分、遅かったんだな。もう来てるなら、顔を見せてくれれば良かったのに。」
「ふふ、リシアン様こそ。ずっとあちらでグラスを片手にしていたんでしょう? あいさつに行こうかと思いましたけれど、楽しげなお話をしているようでしたから遠慮いたしましたわ。」
柔らかい物腰。だが、リシアンはどこか胸騒ぎを覚える。いつものセラフィーナなら「会いたかった」「探しに行きたかった」と笑みをこぼすものだが、それがない。
「……そうか。まあ、会えたならいい。今夜は、一緒に踊ってくれるか?」
「そうですね、踊る機会があれば、ぜひ。」
セラフィーナは頷くが、その声には一抹の冷静さが混じっていた。
――三年前。
リシアンは「結婚に必要な準備が整うまで3年待ってほしい」とセラフィーナに頼んだ。
“もう少し仕事を軌道に乗せたい。自分がしっかり家を支える状態になるまで、正式な結婚式は控えたい”と。
それはリシアンなりの“誠実さ”のつもりだった。中途半端に結婚して彼女を苦労させたくないから。
セラフィーナはそれを了承し、3年という長い時間を待ってくれた。しかし、その3年の間――
リシアンは具体的な段取りを、ほとんど進めてこなかった。
式場をどこにするか、挙式の規模をどうするか、どこに住むのか。親族のスケジュールや経済的な計画。さらには前撮り写真や指輪のデザインまで……普通の恋人たちなら積極的に話し合うようなことを、彼は先延ばしにしてきた。
「落ち着いたらきちんと決めよう」――それが口癖。
セラフィーナが提案しても、「後で考えよう」で終わってしまう。
当初は、それでも「大好きなリシアン様がいつかリードしてくれる」と信じていたセラフィーナ。
だが、月日が経つほどに、“この人は自分から動く気がないのではないか”という疑念が募っていったのだ。
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「ねえ、リシアン様。少し、あちらのバルコニーに出ましょうか。」
セラフィーナは控えめに提案する。
舞踏会のメインホールはすでにワルツが始まり、華やかな音楽に満ちている。サロンにいた客の多くも踊りに加わろうとホールに移動していくため、サロンは少し静かになった。
バルコニーに出ると、冬の冷たい空気が二人を包む。だが、魔術的な加温結界が張られているのか、震えるほどではない。夜空の星がくっきりと見え、遠くには王都の灯りが淡く続く。
「相変わらず寒い季節ですわね、王都は。」
セラフィーナが欄干に手を乗せて呟く。リシアンは彼女の隣へ並び、そっとコートを広げる仕草をした。
「風に当たるなら、少しでも体を温かくしてほしい。……この舞踏会、夜遅くまで続くだろうから、くれぐれも無理はしないでほしい。」
「ええ。お気遣いありがとうございます。」
けれど、その瞳には、どこか遠いものがある。
リシアンは、もう一度ぐっと息を呑み、決意を胸に収めようとする。
(今日こそ俺は、きちんと結婚の話をするんだ。彼女を本当に迎えに行くと。)
だが、その前にセラフィーナのほうから口を開いた。
「ねえ、リシアン様。……“愛”って、いったい何だと思いますか?」
「愛……?」
「はい。たとえば、相手を信じることとか、尊重することとか、いろいろ言葉はあるけれど……私は、ただ想うだけでは不十分だと思うんです。」
「……どういうことだ?」
「“好き”という気持ちは尊いものです。でも、そこに“行動”や“責任”が伴わなければ、結局は独りよがりになってしまうこともあるのではないか……と。そう感じるようになりました。」
リシアンは答えに詰まる。セラフィーナがこんなふうに抽象的な語り口で、“何か大事なこと”を伝えようとするのは珍しかった。
(愛は、尊重し合うもの……行動が伴わなければ不十分……それは、もしかして。)
彼女がずっと感じていた不満や葛藤を、遠回しに言っているのではないか。
「セラフィーナ、何が言いたいんだ? もし俺が不十分だったのなら謝る。だが、俺は……」
「……後で、ゆっくりお話ししましょう。音楽が始まりましたわ。踊りに行きませんか? そのうち、一度くらいはあなたと踊りたい。」
そう告げて微笑む彼女は、また一枚ヴェールをかぶせたように、リシアンの問いをやんわり躱した。
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二人がバルコニーから戻ると、舞踏ホールでは既に次の曲が流れはじめていた。優雅なワルツ。
セラフィーナが軽く腰を折り、リシアンもその手を取る。
「では……踊ってくださいますか、リシアン様。」
「もちろん、喜んで。」
こうして二人は周囲の視線を受けながら中央へ進む。何組もの貴族カップルが輪を作る中、そのどれもが華やかな色合いを見せ、さながら夜空の星が床に降り立ったかのよう。
リシアンはセラフィーナの腰をそっと支え、動き出す。長い間一緒に踊っていなかったが、不思議と息は合う。かつて学んだステップが体に染み込んでおり、二人が回るとドレスの裾がふわりと円を描いた。
一見、理想的な婚約者同士のワルツ。だが、リシアンには心の奥でざわめくものがある。――セラフィーナが微笑んでいても、その表情に昔のような華やいだ喜びは薄い。
胸が騒ぐ。
どこか悲しげにすら見える彼女の笑みに、焦燥感が募る。
(ここで言わねばならない。今こそ、覚悟を示すんだ。)
「セラフィーナ……」
踊りながら、リシアンは小さく口を開く。しかし、彼女は首を振り、囁く。
「音楽が終わってからにしましょう。周りが耳を澄ませていますわ。大切なお話なら、あなたの方からきちんと場所を選んでくださいませ。」
背筋が冷える思いだった。
――そうだ。なぜ、俺は自分から“場所”さえも用意していないのか。
いつの間にか、セラフィーナに先導される形になっている。舞踏のリードは自分のはずだが、精神的には彼女が先を行っているように感じられた。
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曲が終わり、二人はホールの端へ移動する。人々が拍手で盛り上がるなか、彼女はスカートの裾を軽やかに持ち上げ、リシアンに微笑んだ。
「ありがとう、素敵な時間だったわ。……少し休憩をしてきますね。」
「あ……、待って、セラフィーナ……」
リシアンが引き留めようとするが、彼女の足は止まらない。代わりに目が合ったのは、セラフィーナの兄であるアリオス・エルグレインだった。年の離れた兄で、すでに家督を継いでいる長兄である。
「リシアン、久しぶりだな。妹がお世話になっているようで。」
「ええ……。相変わらずお元気そうですね、アリオス殿。」
アリオスは知的な雰囲気の貴公子で、妹思いなことで知られている。どこか冷静なまなざしでリシアンを見据え、言葉を続けた。
「……セラフィーナと踊ったようだが、どうだ? 久々に会話は進んだか?」
「それが……。正直、俺のほうがどう切り出したものか迷っているといいますか……。いや、本当に情けない話ですが。」
アリオスは苦笑を浮かべる。
「情けない、か。三年も待たせた自覚があるなら、少しは妹の気持ちを推し量ってやれ。……いや、すまないな、こういうのは本人同士の話だ。口出しすべきじゃないかもしれんが……妹がどれほどの想いで今日を迎えたか、察してほしいと思っているんだ。」
そう言って小さく息をつく。
「まあ、いずれにせよ、今夜は大きな節目になるだろう。妹に恥をかかせないようにしてくれ。」
薄氷のようなやり取り。アリオスの言葉はあくまで柔らかいが、その裏には明確な警告が見え隠れする。
リシアンは心臓を鷲掴みにされるように痛感する。
(そうだ、三年間。彼女はずっと俺を待ってくれた。俺は彼女を安心させてこなかった。)
踊りを終えたセラフィーナは、アリオスに軽く微笑みかけた後、サロンの方へと姿を消していく。その背中は、リシアンの目にどうしても遠く見える。
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やがて、次の曲が鳴り止み、少し休憩の空気が広がる。
貴族たちがグラスを片手に再び談笑するなか、セラフィーナは一足先に舞踏会の隣室へ向かった。リシアンはそれを見逃さず、慌てて後を追う。
隣室は控室のようになっており、ソファが数点置かれ、客同士の込み入った話や休憩に使われるスペースだ。そこにいたのはセラフィーナ一人。ほかの貴族客は今の曲を楽しむためにホールへ戻っているらしく、運よく二人きりの時間ができた。
「セラフィーナ……。少し話を聞いてほしい。」
彼女はソファに腰掛けていたが、リシアンの姿を見ると立ち上がる。
「わざわざありがとう。構いませんよ、こちらへどうぞ。」
リシアンは意を決して、胸元に忍ばせた小さな箱を取り出そうとした。
――だが、その瞬間、セラフィーナのほうが先に切り出す。
「リシアン様。……私、あなたとの婚約を、今夜をもって白紙に戻そうと思っています。」
まるで地面が裂けるような衝撃だった。
「な、何を言っているんだ……セラフィーナ……?」
「あなたにとって、これは驚きかもしれません。でも、私はずっと考えてきたのです、ここ最近のことではありません。」
「ま、待ってくれ……。急すぎる……。そんな話、俺は聞いてない……!」
「ええ、私から言い出したことです。けれど、二人だけの問題ではなく、互いの家族にも既に話は伝えてあります。両家は納得済みです。」
リシアンは息が詰まる思いがした。
(両家公認で婚約破棄……? そんな重大なことを、いつの間に。)
「どうしてだ……。俺は今日こそ、結婚の話を正式にしたかったんだ。ちゃんと指輪だって用意している。今ならもう迷わない、本当に君を迎えに行けると思っていたのに……どうして……!」
彼は小箱を握りしめ、声を上ずらせる。すると、セラフィーナは痛むように眉を寄せ、儚げな笑みを浮かべた。
「それが、遅すぎたのですよ。リシアン様。……3年前、あなたは“準備が整うまで”とおっしゃいました。でも、その間にあなたは何をしてくれました? 式の準備、住まいの話、指輪のデザイン……すべて私から聞かないと答えてくれなくて、“後で決めよう”のまま3年が過ぎました。」
「そ、それは……悪かったと思う。けど、ちゃんと働いて、財政を安定させたかったんだ。君を不自由させたくなかったから……!」
「それはありがたい気持ちです。でも、その間、私が抱いた不安や寂しさもあなたは気にかけてくれなかった。『後で話そう』ばかりで、結局、一度も具体的に動かなかった。」
セラフィーナの瞳が揺れる。涙ではない。だが、そこには深い哀しみと決断の光が混在していた。
「私はあなたを愛していました。今でも嫌いなわけではありません。でも、あなたに私がずっと合わせて、待ち続けて、それで“結婚した後”はどうなるのでしょう? ずっと私が先回りして、動かないリシアン様を待って、尻拭いをする? それが……もう想像するだけで、しんどかったのです。」
「待ってくれ……。今ならば、本当に迎えに行ける。俺は今の仕事も軌道に乗ったし、君に恥ずかしくない程度の経済力は手に入れた。だから――」
リシアンが必死に言葉を重ねようとするが、セラフィーナは小さく首を振る。
「それなら、なぜ三年のうちに、具体的な行動をひとつもしてくれなかったんですか? 指輪だって、本当に今日、初めて持ってきたのでしょう?」
鋭く突きつけられた問い。リシアンは絶句する。――そう、彼は本当に、今夜やっと婚約指輪をしっかり用意したのだ。
「……こんな事を言いたいのではありませんが、あなたのその受け身な姿勢こそが、私の愛を消耗させました。私は、もう自分の足で歩きたいと思ったのです。」
そこには怒りも怨嗟もない。ただ“決定された切なさ”がある。
リシアンの胸は焼けるように痛む。
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リシアンが沈黙していると、ノックの音とともに扉が開き、アリオスが姿を現す。
「……ここだったか、セラフィーナ。そろそろ皆が心配するぞ。」
「あら、お兄様。大丈夫ですわ。もうお話は終わりましたから。」
セラフィーナは振り返り、兄に小さく頷く。その横顔はすでに覚悟を決めた表情だ。
アリオスはリシアンに視線を向け、低い声で言う。
「聞いたとおりだよ、リシアン。両家も納得ずみだ。……妹はな、それでも最後までおまえのことを信じていたんだ。三年間、何度も何度も“彼はきっとちゃんと動いてくれる”と言い聞かせるように。」
「アリオス殿……。」
「だが、君が変わらない以上、妹は自分の道を選ぶことにした。愛していたからこそ、“私任せ”の結婚生活に耐えるのは違うと思ったのだろう。……おまえは、“誠実”というより、“逃げ”だったのかもしれない。」
その言葉は、リシアンの胸に深く突き刺さる。
三年間、リシアンは「あとで決めよう」「今は忙しいから」と先延ばしにしてきた。だが、セラフィーナの方を向いて、“彼女とどう未来を築いていくのか”を自分から具体化しようとはしなかったのだ。
(動かなかったのは、俺……。)
セラフィーナはアリオスの腕を軽く取り、リシアンに目を向ける。
「リシアン様。本当にごめんなさい。あなたのことを嫌いになったわけではありません。ただ、もう私の愛は尽きてしまいましたの。……今はそれだけ、わかっていただければ。」
結局、控室での話は短時間で終わった。
セラフィーナとアリオスは、少し休憩をとると言って廊下へ出て行った。
一人取り残されたリシアンは、両手で顔を覆う。
(そんな馬鹿な……。俺は愛していたのに。今やっと準備ができたのに。なのに、彼女はもう待ってくれないなんて……。)
だが、舞踏会は容赦なく進行する。リシアンが再びホールへ戻ると、耳に入るのは華やかな音楽と人々の笑い声。その渦の中に――セラフィーナの姿があった。
彼女はほかの男性貴族と談笑している。時折誘われて、軽いダンスを踊っている様子だ。ドレスの金の裾がキラキラとゆれ、その度に周囲の視線が集まる。
昔は、リシアンだけが見つめる特別な笑顔だったはずなのに。今は彼女が誰と踊っても、当たり前の社交の風景になっている。
自分の立ち位置がもう“特別ではない”のだと思うと、胸が軋む。
「……どうして、こんなふうに変わってしまったんだ。」
リシアンは壁際で呟く。隣にいたのは先ほども出会ったアンジェリカ嬢。彼女は状況を察してそっと声をかけた。
「セラフィーナ様は、とてもおきれいですね。あの方、昔はもっと控えめでおとなしい印象でしたけど……この数年、すごく自立なさっていて、学問や領地運営にも興味を持たれたとか。」
「……そうなんですか。」
「はい。お兄様のアリオス卿と一緒に領地を回って、色々なところを視察していたようですよ。もちろんお家のご意向もあるでしょうけれど、それを自ら希望されたって聞きましたわ。」
アンジェリカは気を遣うように微笑む。
「きっと、セラフィーナ様は自分の人生を前に進めようとなさっているんだと思います。女性にとって結婚は、人生を左右する大きな決断ですから……。」
(前に進む、か。……あれだけ俺を慕っていたセラフィーナが、自分で動くようになっていたなんて……。)
悔やみきれない。彼女の変化に、ちゃんと耳を傾けてこなかったことが。
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踊りと談笑が続くうち、夜は深まり、舞踏会は盛り上がりを増していく。
ある曲の合間、セラフィーナと少しだけ視線が合った気がした。すると、彼女が一人でホールの隅に移動したのが見える。リシアンは意を決し、そっと近づいた。
「……セラフィーナ、話を続けさせてくれないか。」
彼女は周囲に人がいないのを確認し、軽く頷く。
「構いませんわ。では、こちらで。」
二人はホールの端にある柱の陰で、ささやき声で言葉を交わす。きらめくシャンデリアの光が薄く降り注ぐ空間だ。
「さっきも言ったけれど、俺は今こそ本当に君を迎えたい。……君を幸せにする自信が、やっと芽生えたんだ。」
「そう……。では、お聞きしますけれど、あなたは結婚式の日時をいつごろに考えていて? 参列者はどの程度を想定しているの? 住まいは、あなたの伯爵家の離れを使うのか、新しく購入した街邸を使うのか……。もう決めていらっしゃるの?」
リシアンは歯切れが悪くなる。
「そ、それは……これから君と相談して……。一緒に考えたほうがいいと思って……。」
「私が聞かないと、決めないのでしょう? 私が“いつにしましょう”と提案しないと、言い出してもくれないのでしょう?」
「……いや、それは……。」
何も言えない。まさに彼女が指摘した“受け身”の姿勢だ。
「三年間、私はあなたにそれを問い続けてきました。でも、答えていただけなかった。少なくとも『この時期に式をしたいから、あと半年は待ってほしい』と明示すれば、私はまだ納得できたかもしれません。……けれどあなたは、何も言わなかった。」
「……すまない……。」
「私が何度“動きませんか?”と促しても、“また今度”とか“落ち着いたら”とか。その繰り返しでしたね。……リシアン様、今さらどうして変わると言い切れるのです? 本当に変わるの? それとも、今日この場だけの言葉で、また先延ばしにするの?」
セラフィーナの瞳に、うっすらと涙の光がにじんだ。怒りではない。長い間積もった失望の色。
「私、三年前……リシアン様の“誠実”を信じて、本当に嬉しかった。なんて優しくて責任感のある方だろうと、誇らしかった。でも……現実は違ったのです。あなたは私の不安や希望を先延ばしにして、何も具体的に動かなかった。」
「それは……。俺が悪い。……本当にすまなかった。」
リシアンは拳を握りしめ、痛みをこらえる。
セラフィーナは静かに続ける。
「結局、あなたが自発的に進めてくれたことは、一つもありませんでした。私は“あなたが必要とするから”と、自分から手配や相談を試みてきましたが、もう疲れてしまったんです。……このまま結婚しても、私がずっとあなたの代わりに動くのでしょう? それを想像したら……好きだからこそ嫌になってしまった。」
「セラフィーナ、そこにいたか。」
ふいにアリオスが現れる。二人が気まずそうに話しているのを認めると、静かに口を開いた。
「すまないな、リシアン。……妹は、もう随分と悩んできたんだ。君が ‘誠実’ と言えば聞こえはいいが、その実行動を先延ばしにするだけなら、それは“逃げ”に等しいと、俺も思う。」
「アリオス殿……。」
セラフィーナはアリオスに軽く会釈し、リシアンへ向き直る。
「私、もうこの舞踏会が終わったら、エルグレイン領に戻ります。そこでしばらく領地の改革や、お兄様の公務をお手伝いする予定です。……あなたと結婚する話は、もうありません。両家ともそれを前提に動いてくれています。」
「そんな……。」
驚きと悲嘆が混ざり、リシアンは顔を曇らせる。確かに自分も“準備中”の三年間、積極的に家の跡取りの仕事や資金繰りに追われた。だが、それを盾にセラフィーナとのことをなおざりにしてきた――そのツケが、今ここにきて一気に回ってきた形だ。
「愛していたんだ。ずっと……。三年前、君を苦労させたくないと本気で思っていた。ただ、何をどう進めればいいか分からなかったんだ……。」
「そう。あなたは悪い人じゃない。本当に優しい方だと思います。……でも、私の人生を預けるには、もう自信がないの。私があなたを動かすのではなく、あなたが自分から動いてくれる未来を、待ちきれなかった。」
セラフィーナの声音には、苦しさがにじむ。これはただの“憎しみ”の別れではない。愛していたからこそ、もう耐えられなくなった別れだ。
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周りの視線を感じ、アリオスは「こちらに来てくれ」とセラフィーナを促す。
「妹はもう決心してるんだ、リシアン。おまえがどう言い訳しても、今は変わらないだろう。……もっと早く動いていれば、結果は違ったかもしれないが。」
「待ってくれ……本当に、今日ここで結論を出さないでくれ。俺は指輪も持ってきたんだ。今なら本当の意味で君を支えられる。どうか、もう一度、考え直してほしい……!」
リシアンは懇願する。だが、セラフィーナはふっと目を伏せ、首を横に振った。
「ありがとう。でも……私、自分の足で歩きたいと決めたんです。あなたの“後で”“まだ早い”に合わせて生きるのはもう卒業したいの。」
リシアンの目から力が抜けていく。――ああ、俺は、どんなに謝っても、彼女の愛を繋ぎとめる手立てをもう失っている。
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セラフィーナとアリオスは、舞踏会の残りを少しだけ楽しんだ後、退席するという。もうそれほど長居はしないようだ。
ホールでは新たなワルツが鳴り響き、貴族たちが楽しそうに踊っている。そこにセラフィーナの姿はない。
リシアンはひとり、ホールの隅の椅子に座り込む。
「好きだった……。いや、今も好きなのに、なんで俺は、こんなにも動かなかったんだ……。」
拳を握り、うなだれる。胸ポケットにある小箱をそっと取り出し開けると、金の指輪が淡い光を帯びて鎮座していた。セラフィーナの指を飾るはずだった宝石。どんな表情でそれを贈られるのか、リシアンは想像していたのに――もはや、その夢は儚く潰えようとしている。
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しばらくして、ホールから拍手や歓声が聞こえる。どうやら舞踏会のメインイベント的な曲が終わったようだ。人々が行き来する廊下へ視線を向けると、セラフィーナとアリオスの姿があった。
兄妹は出口へ向かっているらしい。侍女が外套を持って付き従う。
「待って……行かないでくれ……。」
リシアンは立ち上がる。足がすくむような感覚に抗い、なんとか廊下まで追いかけた。
「セラフィーナ……最後に……本当に、それでいいのか?」
せめて、もう一度だけ問いかけたい。だが、その声は震えていた。
「……ごめんなさい、リシアン様。私も、正直言って心が痛い。でも、あなたは私がどんなに手を伸ばしても、その手を取りに来てはくれなかった。何一つ、あなたが主導してくれることがなかった。」
セラフィーナは瞳を伏せ、淡々と告げる。
「だから、終わりにします。私はあなたを愛していました。でも、それを続けることが、自分の幸せではないと気づいたのです。」
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アリオスがそっとセラフィーナの肩を支える。彼女は最後に、まるで昔の恋人へ惜別を告げるように、リシアンへカーテシーをした。
「どうか……お幸せに、リシアン様。」
その声はやわらかい。それでいて、もう二度と“彼女の恋人”に戻ることはないと悟らされる響きを帯びていた。
リシアンは息を呑むが、言葉にならない。結局、指輪を差し出すこともできず、ただ見送るしかない。アリオスが一礼し、妹を連れて会場の出口へ向かう。
セラフィーナは決して振り返らなかった。
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やがて扉が閉まり、廊下は静けさを取り戻す。舞踏ホールからは、まだ賑やかな音楽や笑い声が絶えない。
リシアンはひとり、壁にもたれかかるようにして項垂れる。胸ポケットの中にある指輪……もう渡せない。
(好きだった。今も好きだ。だけど、俺は“動かなかった”……ただそれだけで、全てを失ったのか。)
ホールから明るい曲が流れ始める。――誰かが笑い声を上げ、「おめでとう!」と言う声が聞こえる。別のカップルが婚約を発表したのかもしれない。
リシアンは重い足取りでホールの入口付近に戻るが、そこは大勢の人で溢れていた。誰一人として、失意の彼に興味を示す者はいない。
踊りの輪の外で、ただ立ち尽くす。指輪をどうすることもできず、空虚な瞳で周囲を眺める。
「……ああ、なんて、俺は……。」
つぶやいても、その声は音楽にかき消される。
華やかな夜会。まばゆいシャンデリア。色とりどりの衣装が回る舞踏の輪。
その中心に、もはやセラフィーナの姿はない。
リシアンは呆然と、輝きの渦から一人だけ弾かれたように、ぽつりと立ちすくんでいた。
――そして胸には、愛していた記憶と、自ら動けなかった後悔だけが残った。