子育てって、そんなに苦しまなきゃいけないことなの?
朝食を終えると迅と陽菜はファーム行きのバスに乗った。ファーム行きと言っても直通ではないため、他の乗客も沢山乗っているが、運良く二人掛けの席に座ることができた。
「いよいよ、ファームだな。緊張してきた」
迅は前日の受験より緊張して見える。
「そうだね。でも、ちょっと早過ぎるかも……」
時刻は午前九時二十分。普通に行けば一時間程度早くついてしまう計算だ。
「まあ、いいじゃん。早く着いたら、周りを散歩でもしてようぜ」
「うん……」
二人が話していると、バスが次の停留所に止まり、新たな乗客が乗ってきた。運転手がアナウンスする。
「宜しければ、お子様連れのお客様に席をお譲りください」
見ると、ベビーカーに子どもを乗せた若い女性が座る場所が無くて多少困っているようだ。
「ウチらの席じゃ譲っても困るよな」
「そう……だね」
迅と陽菜が座る二人席はバス後方の段差がある上に位置している。迅は可能であれば譲りたい気持ちはあったが、ベビーカーを畳まなくてはいけなくなり、逆に迷惑になってしまうと考えて様子を見ることにした。
「ベビーカーかよ……」
間もなく、優先席に座っていた50代くらいのおじさんが、小声で呟くと少し面倒そうに席を譲った。
子連れの女性は会釈だけすると、空いた席に座り、ベビーカーを自分の横に寄せ、すぐに自分のスマホをいじり出す。
——ちょっと無愛想なお母さんじゃない?
バスの中がそんな雰囲気になったその瞬間、
キキィィィ!!!
急ブレーキがかかり、車内は前方に重力が加わる。先程席をあけたおじさんがよろけ、ベビーカーが走り出した。
ガッ!!!
先程の母親が足をかけると、ベビーカーは何事もなかったように止まる。ところが……。
「ウェエエエエエエエエエエエエン!!!!!!!」
ベビーカーの赤ちゃんが大声で泣いた。急ブレーキによる音と衝撃で機嫌が悪くなってしまったのだろう。泣き止ませて欲しいという願いを込めて、乗客のほとんどが母親を見るが、母親は相変わらずスマホをいじっていた。
「ウェエエエエエエエエエエエエン!!!!!!!」
——早く、泣き止ませろよ
迅は、バス中のそんな空気を感じとっていた。
一方の陽菜は、窓の外を向いていて、表情は伺えない。
数分が経っても、相変わらず赤ちゃんは泣いており、母親はスマホをいじっている。席を譲ったおじさんが、見るにみかねて声をかけた。
「お母さんよ。子供がずっと泣いてるの、何とも思わないのか?それでも母親かね」
その母親はおじさんをギロッと見上げ、
「はぁ」
とため息をつき、自分のスマホを赤ちゃんに手渡した。
スマホを手にした途端、赤ちゃんが一瞬で泣き止む。慣れているのか、自分でアプリを立ち上げ、おもちゃが出てくる動画を見始める赤ちゃん。
その一連のアクションで、車内はまた別の空気に変わった。いろいろな所でひそひそとネガティブな呟きが起こる。
「スマホで泣き止ませるなんて」
「抱っこくらいしてあげればいいのに」
「最近の母親は楽ばっかりしすぎ」
はっきりとは聞こえないが、おおよそそんな事を言っているのは、迅にも、おそらくあの母親にも分かっただろう。
結局、その親子はそれから3つ先のバス停で降りていった。迅と陽菜は、さらに3つ先の終点イーストファーム前で降りた。
バスの車中、陽菜はほとんど喋っていなかった。迅は気にはなっていたが、いざファームを前にして緊張してるのかもと思い、敢えて声はかけないでおいた。
「ありがとうございましたー」
運転手にお礼を言ってバスを出る迅。目の前には大規模なタワマン群がそびえたっている。
「うわー、ここがファームかー!!陽菜、凄いなー!」
と、バスを降りた陽菜へ振り向くと、具合悪そうにしゃがんでる陽菜の姿があった。
「陽菜?ど、どうした?バスに酔ったのか?」
首を振る陽菜。
「どうしたい?このままがいいか?」
「ベンチ座りたい……かも」
迅は陽菜の脇を抱えて起こすと、肩を組んで近くにあるベンチまで連れていった。
「よし、これで大丈夫か?」
ベンチに座り、陽菜は無言で頷く。
「時間、まだ大丈夫だから、少しゆっくりしとけよ」
それから10分ほどたった頃、陽菜はゆっくりと喋り出した。
「ふぅ、やっと落ち着いた。迅、心配かけてごめんね。びっくりしたよね?」
「ああ、びっくりしたけど、それより大丈夫なのか?バスで何かあったのか?」
「うん、体調はもう大丈夫。あ、つわりとかじゃないからね!私、まだ初々しい女の子だから!」
「お、おう。初々しいね……」
陽菜の体調が戻る10分間、迅はいろいろ考えてしまい、妊娠という可能性もあるかもと不安を感じていた。ファームに行くと言い出したのが伏線であれば、妊娠していたから、という辻褄があってしまうからだ。
迅がそう考えてると思ったからか、それとも偶然思いついただけか。いずれにしても、陽菜が明るく妊娠を否定してくれて、迅はかなり安堵できていた。
「それで、具合が悪くなった原因って……」
「うん……そうだよね、それを言わないとね」
陽菜は再度心を落ち着かせるために、胸に手を当て、話し始めた。
「バスの中で、赤ちゃんが泣いてたじゃん。あれ見て、迅はどう思った?」
「ああ、あの母親か。まあ、抱っこしてあげれば良いのにって思ったかな」
「……そうだよね。そう思うよね。でも、私はあんまり、そう思いたくないんだ」
「それは、どういうこと?」
「もちろん、そうじゃないかも知れないけど……。母親ってさ、自分の子供の泣き声にすごく敏感なんだよ。それなのに、ああやってスマホをいじってられるってのは、ホントに病んでるからとか、疲れ切ってる可能性が高いと思うんだ」
「ああ、育児ノイローゼみたいな?」
「そうかもね……。他人の目があるバスの中でさえ、あの状態ってことは、家に帰ったらもっと無視してるかもしれないじゃん?」
「それは、確かにそうかもな……」
ここまで聞いて、迅にも深刻さが分かってきていた。
「俺たちにとっては、バスの中の一瞬の事でしかないけど、あの親子にとってはアレが日常ってことか」
「そう。ネグレクトっていう状態なのかも。あの赤ちゃんからすると、泣いても泣いても母親が助けてくれないんだよ、ホント辛すぎるよ」
「そう……だな」
「うん。でも……、ホントに可哀想なのは母親の方だと思う」
「どうして?」
「だって、たぶん夫とか、自分の家族とか頼れる人がいればあんな風にならないと思うんだよ。それが、ああなるってことは、頼れる人がいないか、いても役に立たないとか、いない方がいいくらいひどい人がいるか、そんな感じかもしれなくて……」
「それで、バスに乗ったら、周りから子供の面倒を見ていないこと責められて……それでも母親かとか言われて……」
陽菜の眼から涙が溢れる。悔しさを滲ませて言葉を続けた。
「子育てって、そんなに苦しまなきゃいけないことなの?みんなが優しくて、助けが欲しいって言えて、偉いねって褒められる、そんな風にはならないのかな?」
「陽菜……、ゴメン、俺知らず知らずのうちにあの母親を責めてた……」
「迅、それは私に言っても仕方ないから、その気持ちを忘れないでいてあげて……」
「……わかった」
今の話が陽菜の空想である可能性はもちろんある。しかし、これと同じ状況にいる親子が世間には沢山いて、何かの事件化しているのはその内の一部だということは、迅にも想像がついた。
そして、陽菜のこの想いがファームへ行きたいという動機に繋がっていることを、迅は直感するのだった。
つづく




