悪女、更生す
「貴女、私に仕えなさい」
思っても見ない言葉に、目が眩む。
私――エルドミナ・ニコラ・トートリーネは、どれほど控えめに言っても信用のできる人間ではない。
いや、これは私の自己評価が低いという意味ではない。むしろ自分では半端なくいい女だと思っている。顔も頭もいいし、家柄も人望もある。
でも、信用はできないはずだ。少なくとも目の前の人は。
だって! 婚約者寝取ったもん!!
王子の婚約者であるミランダ・マクミラン公爵令嬢は、今まさに私を断罪したところだ。
噓と語弊で塗り固めた悪評を声高に叫び、王子の感心を買った。それだけならばいざ知らず、衆人環視の状況下にあって同じくしたのだ。たった一人を謀った拙い偽りが、誰もに通じる口車であるなどと思いあがった。
我ながら愚かにも婚約破棄などという茶番で公爵家の名を踏みにじろうとして、逆に自らの名を蔑ろにされた。ほんのわずかな良識と常識さえあれば、私の愚かしさなど一目瞭然だというのに。
私と王子の蛮行を糾弾した隣国の大公爵が、国王と話をつけてミランダの無実を証明。さらに、二人の間に新たな婚約関係を結ぶ事によってその身柄を守った。
あとに残ったのは、たった二人の愚か者である。
……そのはずだった。
「何を言っているんだミランダ!」
本当に何言ってんだミランダ。
「こんな女に!」
やかましいわ。
「しかし、カヴァデール様。彼女を放っておけばどこぞの辺境に飛ばされてしまうでしょう」
「構うものか! 君にこれほどの辱めをした相手だ。むしろその程度で済んで幸運だろう!」
「きっと何らかの労働に従事するでしょう。貴族令嬢が、庶民の行う労働に。多分、西の辺境かしら?」
「当然の報いだ! 何をそこまで気にしている?」
「だって、勿体ないではありませんか」
「は?」
「え?」
勿体ない……もったいない……?
「聞き違いかしら? え? もったいない……?」
「そうよ、貴女は勿体ない。それだけの教養と学識を持ちながら、ただ性格が悪いだけで労働力に使い潰してしまうなんてね。教育だってタダではないのよ?」
「そうだけど……」
何故諭されるような口調で話されなければならないのか。何故『まったく仕方ないなぁ』って顔をされなければならないのか。
なんか大公は神妙にうなづいてるし。なるほど確かにって感じで。
王子は眉間に皺を寄せている。私の口車に乗った間抜けではあっても、辛うじて常識的な思考回路は持ち合わせていたらしい。
「ずるいぞ! 私も労働なんてやだ!」
我儘なだけだったわ。
「頼む私も厚遇してくれ!」
「いや。それで、どうするのかしら、エルドミナさん。お断りなら、そちらの愚王子と共に労働をしてもらう事になるけれど」
「ええっと……」
「エル! 君からも言ってやってくれ! 私たちは一心同体だろう!? 私を愛しているのだろう!?」
「…………」
「口を聞け! 早く! 田舎貴族の嫁にやられるはずだったお前を救ってやったのは誰だと思っている!?」
「ミランダさん。お話お受けします」
「おい! 話を聞け!」
うっせぇな、この虫。なに気安く話しかけてんだよ。
そんなわけで、私はミランダ・カヴァデール大公爵夫人付きのレディースメイドとなった。
とはいえ、下働きの経験のない私がいきなり仕事を任せられるはずがない。しばらくは、他のメイドと共に働いて仕事を覚える事から始める。
とはいえ……
「ほら何やってんだい! もっとコシ入れて踏むんだよ!」
「ど、怒鳴らないでちょうだい!」
今は、他のメイドたちと共に洗濯中。大きな桶に入った洗濯物を踏みつける事で洗うのは一番下っ端の仕事であり、まさに私に相応しい処遇と言える。
でも! だからと言って納得しているわけではない!
「疲れ……つ、疲れたんで、ですけど……!」
「まだ汚れてるよ! そんなヘロヘロした足踏みで綺麗になんかなるかい!」
「だから休ませてって……っ」
「日が暮れちまうよ!」
……吐きそう。疲れすぎて。
屋敷における一日の洗濯物は、思っていたよりもはるかに多い。主人たちだけの物にとどまらず、ここで働く使用人の衣類まですべて含まれるからだ。その中でも、フリルや繊細な素材で作られたドレスのような取り扱いに専門的な知識と経験が必要な物以外(つまりはかなりの大部分)が、私先ほどまでしていたようなごった洗いをする衣類だ。
なんとか許しをもらえた時には、もう立ち上がる事もままならなかった。とてもではないが、震えないでいる事が困難なほどに疲れていたのだ。
「こ、こんな……こんな事を毎日……」
「そうだよ。休暇なく毎日」
「脚が取れてしまうわ……付いてる? 私の脚付いてる……?」
「ギリギリね」
自分が脚を曲げているのか、伸ばしているのかすら判断がつかない。感覚がない。痛いのか痛くないのかも分からない。
湿気が酷くて不衛生な洗濯室の床に、まさか寝転んでしまうなんて。本当は絶対に嫌だけれど、動けないのだから仕方がない。今しばらくは、この気持ちの悪さに甘んじなくてはならない。
「飴でも食べるかい?」
「……手が動かない。食べさせて」
「赤子のつもりかい」
疲労困憊とはこの事で、頭を働かせる事すらままならない。まるで童に追われるように、私は自分の倍ほども歳上の洗濯婦長に甘えてしまった。しかし、ランドレスは呆れつつも、私の口にミルクキャンディを放り込んでくれた。
いかに豪華な屋敷の中にあっても、使用人の身では口にできる甘味は限られる。手製の茶菓子を口にする事もあるが、しかしかつて私が口にしていたそれと比べれば天と地ほども隔たりがある。そんな使用人が口にする最も親しまれた甘味といえば、やはりこのミルクキャンディだろう。
かつて王子から振る舞われた茶菓子とは比べるべくもない、ただミルクの味ばかりが濃いお菓子だ。もっとふんだんに砂糖を使い、紅茶と一緒に飲めれば多少はマシになるかという程度の味。
だというのに、それはあまりに美味しかった。
「もう一個……」
「しょうがないね、まったく」
口ではそう言うが、ランドレスは私に微笑みかける。労働は最高の調味料であるとは、誰の言葉だったろうか。淑女として育っていた頃には感じられなかった、ささやかでほの温かい幸福が、今私の内側に感じられる。
「頑張れそうかい?」
「……ええ、何とか起き上がれるわ。ありがとう」
「礼なんて殊勝だね! この分なら午後からも頑張れるね!」
「ええ、午後……午後!?」
耳を疑う。正直、もう丸一日以上経っていると思っていた。
「大丈夫だよ、頑張んな!」
「こ、これ以上疲れたら死んでしまうわ!」
「安心しな。墓参りくらいはしてやるさ」
「いぃやぁあああ!!!」
これは後から聞いた事だが、どうやら洗濯室送りは使用人の間では一般的な懲罰なのだという。労働というものに慣れていない私には、きっと一番辛い仕事だったに違いない。恐らくは、私への折檻の意味もあったのだろう。なにせ、私はエルドミナ・ニコル・トートリーネである。
ただ一つの救いは、その仕事が長くは続かなかった事だ。あらゆる仕事を覚える関係上、一つの物事に終始するわけにはいかない。
「おい、さっさと洗え! 日が暮れちまうぞ!」
「はぃいい〜っ!!」
洗濯室の次は、調理場だった。とはいえ、新入りに調理を任せるわけはない。私が担当した領域はスカラリー。調理中に出続けるあらゆる洗い物を、絶え間なく洗い続ける場所だ。
湿気、熱、臭いが酷く、貴族であった頃には近づく事すらなかった使用人の領域である。それだけならば洗濯室と変わらないが、下働きであるスカラリーメイドは寝食すらもここで済ませる。もしも洗濯はとしての仕事である程度慣れていなければ、私はこの劣悪な環境に耐えられなかったろう。
そして何より、ここにはランドレスのような優しい人間がいない。全ての人間が予定に追われ、常に腹を立てているのだ。他人に対して優しくしようなどという考えはなく、どのようにすれば予定に忠実な仕事をできるかを考えている。そのためならば、進んで自他を蔑ろにする。
私が口にしていた食事の裏には、常に彼らがいたのだ。その事を実感すると、不思議な気分になる。
いつの間にか、使用人に敬語で話す事に抵抗がなくなった。口答えも、反抗も自然となくなる。
水周りの仕事を続けているためか、手荒れがどうしても治らない。かつては指先まで飾り立てるのが淑女の嗜みであるとすら思っていたというのに、何となく気にならなくなっていった。
それどころか、仕事に楽しみすら見出している。
作業の間に垣間見える、コックと調理婦の仕事。それは、今まで私が手のつけた事のない、調理に関するものだ。無論、細やかに教えてもらうわけではないので完全に技術を盗めるわけではないが、私の好奇心を刺激するには充分だった。
いつか、私にも調理というものができるようになるのだろうか。
そんな事を思うと、どうにも心が躍るのだ。
この仕事で一番の利点と言えば、なにより賄いが美味しい事だ。
口が悪い上にすぐに怒鳴るコックは、その実意外にも身内贔屓なのだ。洗濯婦として働いていた時に食べていたそれよりも、毎食一品多いのだ。その上、その一品がすこぶるに美味しい。
口には出さないまでも、コックなりの労いなのだろう。
会話はなくとも、いい職場である。短い期間ではあるものの、私はそう感じた。
もしかすると、私は変わりつつあるのかもしれない。
次の場所は、いわば屋敷の全体。掃除婦としての、あらゆる雑務を叩き込まれた。今までは使用人しか近付かない領域での仕事だったが、ようやく屋敷の表に立ち入る事となったのである。
掃除籠と呼ばれる籠を持ち、その中には掃除に使うあらゆる道具が入れられている。あらゆる物を傷付かないよう、しかし汚れ残しのないように気を使わなくてはならないからだ。道具の使い方や手入れについては、掃除婦長が教えてくれた。忙しそうにしながらも丁寧な説明は、いまだに不器用な私にとって非常に助けとなった。
「そこはブラシを使いなさい。石は木と違い、そう簡単には傷付きません」
「あ、ありがとうございます」
使用人に礼を言うのも、ずいぶん自然にできるようになった。初めのうちは抵抗があったが、もう私は貴族ではないのだ。
そう考えられるようになって、ようやく初めに洗濯と調理に回された理由に思い当たる。あるいは折檻、ともすれば嫌がらせの類かと思ったが、どうやらそんな理由ではないらしい。
「…………」
「まあ、おはようエル」
ミランダ・カヴァデール大公夫人。私の主と、廊下ですれ違う。
本来であれば使用人は主の前に姿を晒すものではないが、屋敷表の掃除を担う以上はその姿を垣間見る事もある。こうなった際、使用人は廊下の隅に寄って深々と頭を下げて平伏するのが礼儀だ。
もしも、私がいまだに貴族令嬢としての自尊心を持っていたならば、そんな行動はとれなかったろう。きっと、挨拶をされれば挨拶を返し、あろう事か会話にまでなっていた。無論、あってはならない不行儀である。なので、決して主とは顔を合わせない領域での仕事によって、使用人としての心構えを備えさせた。貴族時代には考えるべくもなかった、従事するという感覚である。
「様になっているわね」
ミランダ様は、頭を下げる私を見て微笑んだ。たったそれだけで去ってしまったというのに、私は嬉しくて仕方がない。彼女のために働く事が、どうしようもなく誇らしいのだ。
それからさらに丸二年。それだけの期間を経て、私はようやく一人前と認められた。目付役を伴わず、多くの仕事を任せられるようになったのだ。
そうして、今は約束通りにミランダ様の供回りをしている。常にその世話を担うレディースメイドとして、果たして不足はないだろうか。
掃除婦から移動になり、一番助かったのは、手荒れが治った事だ。やがてミランダ様の側に仕える私の手が荒れているなど、主人の顔を汚す事になる。使用人を多く雇えない屋敷の使用人は掃除婦と給仕婦を兼任するらしいが、その場合は荒れてしまった手を手袋で隠して誤魔化すのだという。主の横に立つ私が手を晒さない事は、私に雑用を任せなければならないほどに使用人が少ない事を喧伝する事となるのだ。それが事実であろうとなかろうと、そのような評価を受けてしまう。
自らでなくミランダ様の事を思って考えられるようになったのは、きっと私が使用人と成りつつある証左だ。
「エル、少し歩くわ。お供なさい」
「はい」
深々と頭を下げ、着替えを手伝う。
貴族として生まれた以上、その手は使わなければ使わないほどに相応しい。その立場に見合った振る舞いこそを望まれ、私もまた同じくそのように暮らしていた。
しかし、今ミランダ様が使用人の手を借りるのは、そればかりが理由ではない。
「お足元に気をつけて。どうそお手を」
「ありがとう」
しばらくお世継ぎに恵まれなかったミランダ様が、ようやくお子を宿したのだ。その身がただ一人のものではなくなったのならば、私の働きもより重要なものとなる。
体を動かすために、日に数度の散歩を日課とした。食事も専用に用意され、綿密な制限をなされている。なにより、その生活は細やかに記録され、ほとんど毎日主治医の健康診断が行われている。
着る服にまで指示があり、初めて聞いた時は驚いた。しかし、よく考えれば当然の事だ。お腹が大きくなるというのに、コルセットなど付けられるはずがない。
「エル。あなたには助けられてばかりね」
「何をおっしゃいますか。この程度ではとても私が受けた恩は返せません。辺境で身を散らすはずだった私を救ってくれたのはあなたではありませんか」
カヴァデール大公邸は、城と見紛うばかりの大屋敷だ。特に、その庭は音に聞く名園である。規模が広大なのみならず、その美しさは王城ですら比べるべくもない。
ノットガーデンと呼ばれる花壇は、その名の通り結び目を模した凹凸状に垣根を切り揃えられている。その複雑怪奇な形状は歩くごとに異なる庭園の姿を見せ、歩く者の気を決して飽きさせない。そして、この庭はシートが多い事でも有名だ。貴族庭園では特に美しく庭を見せる場所にシートを設置されその景色を楽しませるものであるが、カヴァデール大公邸の庭園はいかなる場所から見ようとその美しさは損なわれる事はないためにそのような形をとっている。
ただし、たった一つだけ、そのあまりある美しさを特に際立てる、庭園中央の純白の東屋だけは例外だ。あるいは視界の邪魔になるはずの柱や屋根に至るまで景色の一部として彩られ、花壇の美しさをより一層抜きん出たものにする。更には、季節によってその顔を変える庭園を思い、いついかなる時にもその場所が最も美しく仕上げられているのだ。色を変える花も、葉も、枝に至るまで、庭師の思う通りになっていないものなど一つもない。
敵国兵ですら、この庭を見れば侵攻をやめるとまで謳われるその場所は、ミランダがこの屋敷で最も好いている憩いの場所である。
「ねえ、エル。どうやら隣の国で反乱があったそうよ」
「いいえ、ミランダ様。反乱などというほど大したものではありません。民が税の引き下げを申し立てたのです」
「ああ、そうだったわね。でも、世継ぎの問題があるらしいわ」
「貴族は騒いでおりますが、王子お二方の仲は大変よろしいので心配はないと聞いております」
「確かにそうな。でも、西の辺境では異民族の侵攻があったらしいわ」
「瞬く間に退けたと報告がありました」
「そうね。ええ、そうね。……私は心配しすぎかしら?」
「いいえ、ミランダ様。故国を想う事に、一体どんな不思議がありましょう」
「ええ、ええ……そうね。ありがとう、エル」
ミランダ様は、ここのところ気分が優れないらしかった。
女傑で知られるミランダ・カヴァデール大公夫人が。その身に仇なした私を側に置く豪胆さを持つこの女性が。なんと気を病もうとしている。
長い時間をかけてようやく授かった初子の出産を控え、不安で堪らないのだ。支えとなれるのは、私を置いて他にない。カヴァデール大公は優しい方ではあるものの、非常にご多忙だ。いくら愛する妻のためとはいえ、その側に寄り添い続ける事はできない。
不思議なものだ。かつてはその身を貶めようとまでしたこの私が、今は彼女の身を案じている。心から心配し、その細腕に自らの子供を抱いてほしいと願っている。それこそが、私自身の幸せであると感じるのだ。
だから、何一つ。たった一つすら、ミランダ様の心を煩わせたくない。幸福の中で暮らし、笑顔を伴って生きてほしい。
だというのに、私の願いは踏み躙られた。
「? 何かしら……?」
「どうかしたのでしょうか?」
花壇を挟んだ向こう側。屋敷の方から、使用人が一人走ってきた。まだ歳幼い少女である。
これは、不思議な事だ。私の記憶が正しければ彼女は洗濯婦だ。何らかの伝言があるとするならば、そんな出会いをよこすはずがない。なにせ、女主人であるミランダ様と彼女では会話をしてはならないのだから。
となれば、私への要件か。あるいは手が離せないためにその場にいた適当な人間を使ったかのどちらかだ。
「あ、あの……」
「私が承ります」
「はい。えっと……隣の国の王子様が来たって言ってました」
「王子殿下が……?」
ミランダ様と顔を見合わせる。当然、約束などない。いきなり来たのだとすれば、それは大変な非礼だ。
「わかりました。貴女は仕事に戻りなさい」
「はい! 失礼します」
走って戻る少女を見送り、ミランダ様が立ち上がる。お腹を庇いながらなので、私も手を貸した。
「おかしな話です。ミランダ様が脚を運ばなくとも……」
「でも、主人は公務であと数日は戻らないもの。誰かは対応しないと」
「でしたら私が……」
「身重の主人を一人にする気? 心配はいらないわ」
責任感。彼女が大公に見初められた、一番の理由である。こうなった時、もうミランダ様を止められる者はいない。私にできる事など、側に控えて支える他ないのだ。
屋敷に戻れば、なるほどいささか騒がしい。急な来客に対応が遅れているのだ。どうやら王子は玄関表で待たせているらしく、ミランダ様と共に急ぎすぎず向かった。
「使用人風情が私に指図するな!」
「いや、しかしそうは言われましても……」
「僕は王子だぞ! 王子だ!」
姿を見るよりも、その声によって委細理解した。聞き覚えのある声、王子であるとの証言。頭が痛く思いながらその姿を見ると、やはり思った通りの人物がそこにいた。
「ミランダ! エルドミナ! よかった、コイツでは話にならなかったんだ!」
「…………」
ミランダ様と私の故郷である王国で、かつて王子であった人物。今では廃嫡され、西の辺境で労働に従事しているはずの人物。ミランダ様と婚約関係にあった際、私と不倫していた人物。
それが、まさか私の目の前にいる。
「大変だったよ。毎日不当な扱いを受け、どうにか逃げ出そうとずっと考えていたんだ。異民族との諍いに乗じて、ようやくここまで逃げられた。だから助けてくれ! もう君たちしか頼れる相手がいないんだ!」
「は?」
まさか、まさか、まさかとは思うが、コイツは私たちならば頼れるとでも思っているのだろうか。もはや赤の他人であり、およそ顔を見せる事すら憚られるような間柄であると、理解していないのだろうか。
心から安心したような笑顔は、その整った容姿と合わせれば美しくもある。しかし、その心根を知る私たちにとって、あまりに醜い蛆と相違ない。
なぜ、そんな事が分からないのだろうか。ほんの少しでも働かせる脳があれば分かりそうなものなのに。
「おかしいじゃないか! 王子である私がこんな扱いを何年もされていたなんて! 君たちから父さんに何とか言ってやってくれよ!」
「嫌です」
「なに!?」
すっごく驚いてる。驚く要素はどこだろう。
「いや、だって……助ける意味ないじゃないですか」
何年も前に一度見捨てているのに、なぜ今度こそはと思えるのか。絶対に、絶対に、何があっても手なんて貸すはずがない。王子として与えられた教養は、彼に常識を授けなかったらしい。
「き、貴様なんなんだ! 何でお前ばっかり厚遇されて私が苦労しなければならないんだ! お前だって私と同罪のはずだろう!」
「…………」
……それを言われると弱い。事実、私は目の前の愚者と連れ立ち、ミランダ様に仇をなそうとしたのだ。結果的に阻止されたものの、少なくとも悪意を持っての行動であった事は疑う余地もない。
流石に、馬鹿ではない。いや、馬鹿だけど。驚異的な愚か者だけれど、一応の知能はある。常識はないながらも教養は元王子なだけある。
私ばかりが良くされて、自らの待遇へ不満を持つ。それ自体は不自然のない事だ。本来ならば、私は彼と共に辺境で労働に従事するはずだったのだから。私ですら、こんなに幸福でいいのかと思う程である。王子からすれば、いいのかと思うどころかいい筈がないと感じてしまうのだろう。
理解はできる。それだけに、私は二の句が継げなくなってしまった。
しかし、今の私は私だけで生きているわけではない。
「馬鹿を仰らないで」
声を荒げず、顔をしかめず、それでいて力強い拒絶の言葉だ。
「ば、馬鹿!? この私に向かって……!」
「馬鹿の中でも殊更に馬鹿な大馬鹿者です。王子だなどと烏滸がましい」
元王子は目を剝く。今にも噛みつきそうな様子だが、まさか手を出せるはずもない。屋敷には屈強な私兵が多く詰め、元王子を先ほどまで対応していた番兵もその四肢は丸太のように太く逞しい。この場で無礼を働けばどのような対応をされるのかは、火を見るよりも明らかだ。
「この子が日々どれほどの激務に追われているかご存知ないでしょう。私が不自由なく生活できるのも、全ては彼女の尽力によるものです。さらにはこの屋敷のほとんどの業務に造詣があり、今すぐどこの仕事だろうと代わる事ができます。これは偏に彼女の努力によるもので、決して羨ましがられるようなものでは御座いません。すぐに仕事をおざなりにするどこかの誰かとは大違いですわ」
「はぁ!? わ、私にあんな仕事は相応しく……!」
「相応しい仕事ですとも。不貞の咎で廃嫡となった愚物にはまったくお似合いの」
「なっ……! な!?」
顔が赤く染まる。恥じているのか、怒っているのか。どちらにせよ、ミランダ様の言う通りあまりに烏滸がましい。
「貴方の仕事ぶりはよく聞いています。与えられた仕事も碌にせず、不満不平ばかりは十人前。本来であれば折檻を受けるような立場にありながら、逆恨みで仕事を抜け出すとは。見下げ果てた不届き者ですね。貴方に沙汰を言い渡したのは国王だというのに」
「不届きは貴様だ! わ、私は王子だぞ!」
「三年ほど前まではそうでしたね」
嬉しかった。ミランダ様に、庇っていただける事が。
私のような不届者を、私のような無礼者を、私のような馬鹿者を、まさかここまで想ってくれているとは。
しかし、ミランダ様に言わせればそれも私の働きなのだ。分不相応で過分な評価とは思うものの、主人の言葉ならば受け入れざるを得ない。
これからの一生を、彼女のために使おう。きっと、私はそのために産まれてきた。
「き、貴様ぁ!!」
とうとう、元王子が暴力に訴える。一応は体幹の整った、しかし頭に血が上った大振りの拳だ。もしもどこにでもいる町娘が相手だったなら、抵抗の余地なくその顔を赤く腫らせる事となるだろう。床に組み伏せられ、気が済むまで拳が振り下ろされ続ける事は想像に難くない。
そう、相手が村娘であったなら。
「ぐがっ!?」
「無礼者。ミランダ様に触れるな」
私は、この屋敷で行われるあらゆる仕事に覚えがある。それは、当然番兵も同じである。
振り下ろされた腕に手を添え、さらに強く引き付けた。勢い余った元王子は床に倒れ込む。その背中を膝で抑えるように乗り、掴んだ腕はそのまま関節を固めた。押さえているのが非力な私でも、こうなればもう身動きは取れないだろう。
「エルドミナ! き、貴様何をする!」
「何をしているのですか! この者を捕えるのです!」
私の声に反応し、番兵の一人が仕事を引き継ぐ。引き摺られるように連れて行かれる元王子は何かを叫んでいたが、あまり興味がないのでよく聞き取れなかった。
「ふぅ……」
「お手を、ミランダ様」
元王子の相手は、ミランダ様にとって負担となったに違いない。身体は当然として、何よりその心が疲れた事だろう。
だから手を取る。主人の支えとなれる事がこんなにも誇らしい。
その後、元王子が国に帰る事はなかった。故国ではなく、この国で沙汰を受ける運びとなったのだ。
「運が良かったわ」
「運、ですか?」
「ええ、あの元王子が来てくれて」
随分と大きくなったお腹をなでながら、ミランダ様が微笑む。
「国で管理しているはずの人間が勝手に越境して、私に無礼を働いた。これは、あの国にとって大きな弱みですもの」
「なるほど、発言力が増したと」
「ええ! その通りよ!」
ミランダ様が笑うと、私も嬉しくなる。
その事を思えば、なるほどあの愚物も少しは役に立ったと言えるか。
国際問題にも発展しかねない事態にあって、この国の対応は冷静だった。しかし、まるで不問というわけにはいかない。元王子の事件における責任を追及しない代わりとして、両国の力関係が明確に変化したのだ。
少なくとも、完全な対等ではなくなってしまった。
これにより、諸手を挙げて支援ができる。ミランダ様が気に掛けていたあの国の問題に対して、カヴァデール大公家の力が使えるようになった。
これまでは、婉曲な言い回しで断りが(つまりは遠慮が)なされていたが、その好意を無碍にする事すら憚られる関係となったのだ。
だから、笑う。故国の安寧を願って。
だから、喜ぶ。故郷の平和を想って。
私は幸せ者だ。なにせ、こんなにも誇り高く優しい女性に仕える事ができるのだから。
あるいは死ぬまで、きっとこの思いは変わらない。