7. 陰謀を解く
マルベリー夫人をジェイドの馬に乗せ、行きよりも速く森を駆け抜けていく。
夫人はランタンの明かりが照らす一瞬の月影の様子に違和感を覚えた。
「‥‥‥あの‥伯爵邸はこの方向からでは遠いのでは?」
夫人はジェイドに寄り掛かりながら不安げに言った。
「伯爵邸?我々は港に向かっているのですが」
「何故そんなことを…!夫のもとへ向かうと仰ったではありませんか!」
「ですから伯爵のいる港に——」
「——何を言いますか!夫は今伯爵邸にいるのですよ!」
「—何っ視察は今日までのはずでは…いや、今から戻って間に合うのか…」
夫人は握った手を口元で震わせ顔は蒼白だった。ジェイドはそんな彼女に気づかずに焦っていた。
しかしその先を行くヴァイオレットは馬を止めようとはしなかった。
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ヴァイオレットは手綱を握り直し、森の先を見据えた。
「‥なるほど。ジェイド!伯爵邸には戻らない、このまま港へ向かうわ」
「本気か?」
「愚問ね。今危険が迫っているのはおそらく伯爵ではなく港なのよ」
彼女が掲げるランタンの明かりは、疾走に負けず煌々としている。
「どうしてまたそう言い切れる」
「彼らはわざわざ港で何度も姿を現している。それも三か月も前から。そしておそらく伯爵の視察が今日までだとデマを流したのも彼ら」
「ならば尚更それは俺達を港に釘付けにし、伯爵邸に近づけさせないためのミスリードと考えるべきだろう」
「馬鹿ね、彼らは私たちの存在なんて微塵も知らないのよ?そんな駆け引き必要ないわ」
「なら何の意味がある?」
梟の鳴き声が消えた。馬蹄の音が一層この闇に存在を示す。
「スターチス伯爵の印象を悪くするためだとかね」
「印象?夫が視察の期間について嘘をついたという偽の事実を使ってですか?そんなことの為に‥‥」
「それが“そんなこと”じゃないんです」
ヴァイオレットの声色が変わった。高圧的ではないが、深刻で真摯に声を張った。
「夫人、海賊に渡した情報の中で港に関するものはありましたか?」
「はい…何の船がいつ到着するとか港視察のスケジュールを…」
「その中で今日行われる予定のことは?」
「…貿易船の出発と確か午後に警備の点検があります」
「それです。彼らは貿易船を襲撃するつもりなのでしょう」
「襲撃…?待ってください夫の印象操作が目的なのですよね…?それが一体どうしてそんな大事に…?」
ジェイドに支えられて身を小さく寄せるだけの夫人だったが、流石に前方に顔を向けた。
ヴァイオレットは手短に呼吸を整えた。
「港の住人は、海賊が港に拠点を置いていると印象付けられていて、伯爵が視察のために今日までこの町に留まっているという嘘の情報も信じ込んでいます。ですから海賊に不安を抱えている領民は、今回の視察によって彼らへの対策が講じられることを期待しています。それなのに、貿易船が襲撃され、港の住人にまで被害が及んでしまったなら領民の不安や不満は増大します。さらにその後、報告を受け急いで駆け付けた伯爵の遅すぎる登場に、領民は不信感を募らせるでしょう。すぐに耳に入っていただろうに、何故知らなかったフリをするのかと」
「ですが…領民とは良好な関係以上の絆を築いてきました…彼らがそんな押し付けられた疑念に負けるはずありません…!」
「そう、今なら、そうだったでしょうね」
重い吐息を含んだ言葉に、夫人はまた困惑した。だがジェイドにはその意図が伝わったようだった。
「そうか…!それで夫人を監禁していたのか」
「どういう意味です」
「夫人が仰る通り、伯爵の不明瞭な対応だけではあまり効果はありません。だが夫人もこの件に関与していると知れたら効果が抜群になることは間違いありません」
ランタンの灯が小さくなっていく。周りを照らすほどの力は既になく、ただ目印としてまだ光っている。
「夫人は実際に海賊と取引をした。奴らはその証拠を握っています。警備隊に捕えられても逃げたとしても、その証拠は必ず行政機関に届くでしょう。加えて夫人自身が罪を認めれば、スターチス伯爵夫妻の海賊事件は完結します」
「私が何故そのような犯罪を認めると…」
「人質をお忘れですか」
「あ…」
夫人は勢いを失った。自らの失言を恥じた。
「だが分からない。何故こんな手段をとるのか。伯爵には港を襲う動機がないだろう」
「それがそうでもないのよね」
溜め息交じりの明言は負の予感を含んでいた。夫人は顔を背けた。
「この間の交易会議の取り決めでこの港での貿易が増え、その運搬や設備の費用が跳ね上がったにもかかわらず、補助金はなくスターチス伯爵領の全額負担となった。当然話が違うと伯爵は抗議したけれど、7人中4人の大臣に第二皇子の息がかかっていて強行されてしまった。でもそれで終わりではありませんね?夫人」
「それは…」
「夫人、このままではあなた方を守り切れません。教えてください」
ジェイドの声は硬く事務的で人の心に寄り添うような優しさはない。だが、不安を取り除ける芯があった。
「…脅迫まがいの申し出がありました。経営・財政難になる前に状況を変えたければ、第二皇子派に入り支援を受けるべきだと言われたそうです…」
「それを受けたのですか?」
「まさか…!そんなことはできません!スターチスは何があろうとどの派閥にも属することはないのです!」
「ではどうしたのですか?」
「今はどうにも…とにかく海賊の件を解決しようと視察に来たので…」
「でしたら、これは十分な動機になりますね」
蝋燭が尽き、ランタンの灯が完全に消えた。ヴァイオレットとジェイドは息を合わせて減速し、馬も呼吸を整える。
「貿易の予算を組むために課税をすれば、唯一の取柄ともいえる領民からの信頼が消えていく。だからこの港での交易を減らす必要があった」
躍動が小さくなったおかげで、ヴァイオレットの言葉は、その強弱まではっきりと伝えられる。
「圧力をかけられて真面に交渉などできない。そこで強硬手段をとった。海賊を使い、この港が危険であると知らしめることで、交易数を減らさせようとした。だが海賊との取引は上手くいかず、甚大な被害が出てしまった。どう?こんな動機なら、領地民も貴族も鵜呑みにしてしまうでしょうね」
「でもそれはあなたの——」
「——想像ですよ。この部分に関しては証拠なんてありません。ですがここがどう違おうと、彼らがやろうとしていることは変わりません。私達が阻止しなければならないことも」
妙に無機質な物言いだった。
頭上を覆う枝と葉の傘が月を隠し、ヴァイオレットの姿が分からない。ジェイドには闇と黒馬の歩む音が彼女の感情を隠しているように感じた。
「…何故…どうして私達ばかりこんな…不幸をもたらされるのでしょう…」
夫人は陰の中にヴァイオレットを見つめ、涙を流した。乱れた呼吸音が夜の森を悲しみに染める。
そんな心を慰めるように、木の葉の間から降りる月明かりが少しずつ3人の姿を映しだそうとする。
「あなた方が穏健な人だからじゃないですか?」
静寂の中にヴァイオレットが口を開いた。
夫人は照らし出されては消える彼女の背中に視線を上げた。
「海賊があなた方の失墜を望む理由は分かりませんが、彼らは少数の集団です。その意味が分かりますか?」
「…いいえ」
「高々30人が集まったところで、貴族なら簡単に捻じ伏せられる力を持っているでしょう。実際領民が抗議の末に反旗を翻そうとしても力で抑え込んでいる領主はいます。だけどあなた方はそんなことは決してしない。だから30人しかいなくてもこんなことができるんです」
月光を受け優しさに満ちていた背中が、冷たく見えてきた。慈しむような声は闇に入ればまた違うように聞こえる。
「貿易費を上げられたのも同じです。立派な港を持っているのはあなた方なのですから、主導権は握れるはず。だけどそんなことをしないのは、秩序を重んじ、新たな争いを生むことを好まないから。穏健で平和主義だからですよ」
「つまり…善良に生きているから馬鹿を見るのだと…そう言いたいのですか…!」
夫人は涙声を荒げた。だがそれでも、ヴァイオレットは振り返らない。
「違うわ」
新月のような厳然とした声が静寂をも切った。
「善良に生きられる人なんていない。中途半端だって言っているのよ。平和を愛し、争いを生まず、全ての人に平等に接し、それで善良に生きていると勝手に満足している」
「そんなことは——」
「——あるでしょう。伯爵は、今更領民を守るのが先だと言い訳をして、目の前の貿易問題から逃げ、三ヶ月も放置していた海賊問題に乗り出した。にもかかわらず、その対応策さえ見出せずに逃げるようにまた別の悩みを私に相談しに来た」
感情を排した淡々とした話し方が続く。それなのに一言一言がはっきりと聞こえる。彼女は何を思っているのか、ジェイドには分からなかった。
「…逃げているのではありません。解決すべき順序というものがあるのです…それに慎重になるのは悪いことではないはずです」
「ええ、仰る通りです。ですがあなた方のそれは“慎重”ではないでしょう。だってそれなら脅迫まがいの勧誘を受けているさなかに簡単に侍女を攫われるなんてこと起こるはずありませんからね。“平民の侍女”が主人の弱点になることを知らない貴族はいないのですから」
夫人は言葉を詰まらせた。図星、以上に何かに心を刺された気がしたのだ。
「…確かに危機管理が甘かったのは認めます。ですが…こんな状況になったのは私達のせいだと言うのですか?…海賊の襲撃計画も会議での不当な取り決めも…私達のせいで起こったというのですか…!それはあまりにも不当で恣意的な判断ではありませんか…!」
夫人は身を乗り出すように、声を荒げた。バランスを崩さぬように、ジェイドが腕を支える。
「私が中途半端だと言っているのは、それですよ。自分で言っていてまだ気がつきませんか」
明らかに棘があった。思わずジェイドは割り入ろうとした。
「ヴァイオレット…!もう十分だ」
しかし彼女は止まらなかった。
冷静を纏って夫人へ声を届け続ける。
「不利な状況からは目を背け、簡単な方へ逃げようとする。そうして事態がもっと悪くなれば状況を始めた者が悪いからだと言う。改善するチャンスは幾らでもあったはずなのに、それを無視したことを仕方がなかったと言い訳をする」
夫人は口を動かしても何の言葉を発することも出来ないでいる。彼女にとって簡単な言葉、『そうじゃない』とさえも言いあぐねている。
「そうやって逃げるなら、戦わないなら、いっそ自分達のことだけを考えて生きれば良いのに、それをすれば心が痛む。だから中途半端なのよね」
ヴァイオレットは手綱を軽く引き、黒馬を立ち止まらせた。
「そんなあなた方のせいで、港の住人は三か月も海賊の存在に怯え続け、あなたの大事なヘナはリーダーの側で不自由に息をしている。善良どころか自分好みの花畑に閉じ籠っている、利己的な享楽主義者だ」
力強い声が響いた。
風が木々を揺らし、木の葉が宙を舞った。夜空の光を纏い、薄暗い陰の中に輝くように舞い降りた。
「本当はあなた自身で気づいて欲しかったのよ。そうじゃないと、この件を解決したってまた同じことを繰り返すから。だけどそれで良い?それでまた傷を負う人いたとして、どうせ目に入らないから良いんだって、そう思うの?」
夫人は答えなかった。肯定を意味しているのではない。沈黙を選択したのでもない。
『そうじゃない』という言葉はすぐに出てくる。だがそれは嘘になると気づいてしまったのだ。
『それで良い』と思ってはいないが、目に入らないからといって負の状況を無視をするのは実際今までやってきたことだ。それに気づいてしまったのに、認めることができない。目を背ける癖は、彼女一人でつけてきたものではないのだ。
「マルベリー」
落ち着いた声でその名を呼んだ。
迷いながら瞳を向ける彼女に、ヴァイオレットは振り返らない。
「スターチスの名は関係ないでしょう。あなたがどうしたいのかって、たったそれだけのことなのよ。このままヘナを助けたって、彼女の目を真面に見ることはできないわ。だからもう、曖昧でいることに甘えていないで。自分の意思を、主張しなさい」
マルベリーは呼吸を忘れた。
じっと手のひらを見つめて息を吐いた。
無理に正されていた肩の力が抜けた。
「…私は侍女のヘナも夫のルフも領民も守りたい。私もルフも皆を愛しているの。それは本当なの」
太陽が顔を出すにはまだ早いが、夜の暗さは消えかかっている。マルベリーの表情は暖炉の前でココアを飲むように穏やかだ。
「私…あなたが言ったことまるで聞いていなかったのね。そういうところだと思います…私はヘナを助けることを選んだくせに、あの時逃げられるチャンスをふいにして彼女をもっと傷付けた…利己的で中途半端…本当にそうね。あの時の言葉で気づくべきでした…」
「罪のこと?」
ヴァイオレットが聞く。
「覚悟のことよ」
マルベリーはゆったりと答える。
「私は愛する人々には不幸になってほしくありません。そして私自身も、不幸になりたくありません。私たちは善良にはなれない。ですから覚悟を決めます。領民のために、侍女のために、ルフのために、港を脅かす海賊を、あなた達に倒してほしい」
「あなたは?」
「私は…私はこの件が解決したらルフと話します。そして不当な交易の取り決めについて抗議だけでは済ませません。今更ですが認めてはならない問題だと気付かされたからです。何をしてでも撤回を認めさせます。もちろん、できる限り善良な方法で」
朝露に濡れた若草色の目は、活きいきとしている。
ヴァイオレットは振り向いた。
「よくできました」
見守るような温かい眼差しは、彼女の成長を歓迎するかのようだった。淡い暗さの中に見えるその優しい笑顔が、マルベリーの目頭を熱くした。温かい気持ちの高揚が、彼女に選んだ道の確信を与えた。
ヴァイオレットの目配せで、ジェイドは彼女の隣に馬を進ませた。
「は…」
その先に道は続いていなかった。その代わりに、朝を待つ海と眠りについている港の清々しい景色を見下ろせた。潮風が髪を煽る感覚が崖の淵に立っていることを忘れさせ、マルベリーはまるで熱を冷ますような凛々しい風に包まれてこの景色の中を飛んでいるような気分になった。
「ここを降りれば港です。どうしますか?」
ヴァイオレットの左側に自然の坂道が現れた。人が行き交った形跡のない、草の生い茂った細くて勾配が急な下り坂だ。
助け出された頃の夫人なら“進んでください”としか言えなかっただろう。しかしもう彼女は自分を取り戻している。彼女は冴えた目をしている。そして誇りを持った表情で港を見ている。
「ここは私の領地です。私が先導しなければならないでしょう」
マルベリーはジェイドの手から手綱を奪って馬の腹部を圧迫した。合図を受けた馬はすぐに地を蹴り、坂を下った。常人なら振り落とされるところだろう。だが実力で副団長まで登り詰めたジェイドはすぐにバランスを取るどころか、マルベリーが落ちないように支えてみせた。
遠い水平線の向こうに真夜中の空が沈んでいき、左の山の陰から暁色の漏れ光が見える。星々は輝きを残しながら淡い空に消えていく。
マルベリーはその全てを取り込むように呼吸をし、心のまま軽やかに風を切った。