6. 物置に隠された真実
真っ暗な部屋には窓や換気口などはなく、正常な呼吸ができないほど埃っぽかった。そしてその中にうずくまる人の影が見えた。
警戒して剣に手をかけるジェイドを静止して、ヴァイオレットは靴音を立てないように中へ入った。
ハンカチで光を覆ったランタンを置いて、暗闇に倒れている何者かを照らしヴァイオレットは言う。
「この光が見えますか?——スターチス夫人」
「‥‥‥っ」
女性の懇願するような目が淡い明かりに照らし出された。彼女は口を塞がれ、手足を後ろで縛られている。身動きが取れず、体力を消耗しきっているようだった。
それでもヴァイオレットに口枷を外され、目の前の柔らかな橙色の灯りを見つめると、安堵したのか涙を浮かべた。
「…あなたたちは…?」
夫人は途切れ途切れに言った。
「大丈夫。私たちはスターチス伯爵に頼まれてあなたのことを調査していた者です」
「警備兵では…」
「私は公的な人間ではありませんよ。彼は騎士団に所属していますけどね」
ヴァイオレットは夫人の拘束を優しく解きながらそう言った。夫人はしっかり息も吸わないまま言葉を返した。
「…ありがとう…私…もうだめかと…」
夫人は助けが来た事実を受け止め、安堵したようだった。
「もう大丈夫です、夫人。私たちが助けます」
ヴァイオレットは確認させるように改めて言った。
「こうなった経緯を教えて頂けますか」
ヴァイオレットが夫人の体を支えて目を合わせると、彼女は震えながらも言葉を絞り出した。
「‥‥発端は一か月前、視察のためこの町に訪れたときです。皆さん歓迎してくれて、花束やお手紙を貰いました。翌日になって、その中に不気味な紋様の入った手紙があることに気づいたのです。そこにはこう書かれていました…
『親愛なるスターチス伯爵夫人へ。
“ヘナ”という平民の女性に心当たりがあれば、我々が指定する場所へ一人でお越し下さい。彼女の命はあなたの行動にかかっています。どうか妙な素振りを見せないで下さい。
P.S. 紅茶に三つも砂糖を入れるのは健康に害でしょう。』」
「海賊の仕業ですか」
「そうだと思います。ヘナは私の侍女なんです、でもそれ以上に…20年来の友人でもありましたから…だから必死に馬を走らせました。もちろん誰にもそのことを告げずに。そしてあの洞窟に辿り着いたのです。そうしたら…」
マルベリーの唇が渇く。
その夜、彼女が洞窟に足を踏み入れたとき、すでに三十人近いマントの集団が待っていた。
マルベリーは全身に寒気が走った。恐怖して後退りさえできなかった。
『これはこれは、スターチス伯爵夫人。本当に来ていただけるとは、感激ですね』
賊の一人が彼女の手を取った。反射的に手を引っ込めたマルベリーだが、甲斐なく、手首を握られてしまった。
その女は彼女を強引に小屋の中に放り込んだ。ほとんど何もない部屋だった。あるのは状態の悪い机と椅子だけ。マルベリーに見えたのはロウソクの明かりで揺れる五人分の影だけだった。
『ヘナは…ヘナはどこに…!』
マルベリーは地べたに座り込んだまま。
『そう心配するなよ。お前の目の前にいるじゃないか』
意図を理解した彼女はすぐに地面を手探りした。ぐっと手を伸ばしたところで何かに触れた。それが何かは明かりがなくとも彼女には分かった。
『ヘナ…?…ヘナ!聞こえないの…!ヘナぁ…』
彼女の体はまだ温かく、心臓の音もしていた。だがマルベリーには聞こえなかった。自分の涙に溺れながらひたすらにヘナの顔をなぞった。
『死んではないですよ。ヘナさん』
今度は女の声がした。
マルベリーはヘナを抱えたまま振り向いた。五人の賊の顔は隠れているが、ろうそくに合わせて揺れる影はまるで笑っているかのように彼女には見えた。
マルベリーはしゃくりあげてしまって声を出せなかった。
『それが死ぬのはあんたが要求をのまなかった時だ』
『…要求って…』
『我々が欲しいのは伯爵家の情報。その都度指示に従ってくれればいいんです』
『何故ですか…』
『検討ぐらいつくでしょう?』
(こんな人達に情報を渡せばどうなるか…!けれど…そうしなければヘナが…)
駆け巡る思考にマルベリーの頭は割れてしまいそうだった。そして彼女は動かないヘナの重みを感じたとき、目を閉じて言った。
『…吞みましょう』
あまりにも多くの思いを押し殺してその言葉を発した喉は、息が通らないくらいに痙攣していた。
「私は夫と領民を裏切りました。全てを裏切ってヘナを選んだのです。…おこがましいとは分かっています。ですがどうか…!ヘナだけは助けてください…!」
マルベリー伯爵夫人は地べたと顔を合わせるまで頭を下げた。
「…その裏切りに“罪”を感じていますか」
後ろに聞こえた声に、ジェイドは唾を飲んだ。
視線だけを動かしてヴァイオレットの表情を見ようとしたが、やはり躊躇した。
「夫人」
その声が含んでいる感情はジェイドには読み取れなかった。ヴァイオレットは背を支えてゆっくりマルベリーの体を起こした。
「罪ばかりを感じているなら、その行動には何の意味もありません。裏切ったと言えど、それが自分でなく誰かのための選択なら、その人のために全力を尽くすべきです。あなたが今すべきなのは、地面に涙を落とすことではなく、これが大切な人のため選んだ道だと自覚し、罪と覚悟を背負って前進することですよ」
ヴァイオレットはいつもの笑顔を向けた。
しかしジェイドには、ランタンの明りに柔らかに照らされて陰影がかかったその顔が、澄み切れていないような何かほろ苦いものが混ざっているようなそんな風に見えた。
「この事態を収拾するにはまず、人質を取り戻すのが先決ですね。ヘナさんは今どこにいますか」
「…海賊のリーダーと一緒にいます。もう逃げ出さないように…」
マルベリーは濁った回答をした。
「ではそのリーダーはどこに?」
「それは…分かりません。ですがもうすぐ帰ってくると思います。隣の部屋からそんな話しが聞こえました」
ヴァイオレットは口元に手を置いて考え込んだ。
「ジェイド、隙を作ればどうにかしてくれる?」
「その点を不安に思う必要はない。任せてくれ」
「まさか戦うつもりですか…!お止めください…!それではヘナが…!」
「大丈夫です、ここで始めるつもりはないですし彼はとても強いから。それに少なくとも私は、こういうこと初めてではないんです」
ヴァイオレットはマルベリーの手に自分の手を重ねた。
「ここへ来たのはあなた達を助けるため。あなたを見つけたように、ヘナさんのことも必ず助け出します。だから、信じてください」
マルベリーは清々しい大波のような風に貫かれた気がした。
その時地面が振動した。どうやら残りの賊が帰ってきたらしい。
「ご苦労様です賊長」
「ハッ賊長か、妙な名だな」
「ならボスと?」
「面白くねぇ冗談だ」
声の代わりに床を鳴らす雑音が大きくなっていく。
突然、足音が止まった。静まり返った小屋の中に得体のしれない緊張感が走った。
「明朝絶つ。それが、我らの這い上がる時だ」
唸るような低い声が染み渡った。仲間達は終始無言で、微塵も動かない。殺気ではない、強い執念のような重い何かが空間を支配する。
その棘は壁越しにまで伝わり、夫人を蒼白にした。ジェイドは扉の向こうを睨み、彼女の傍に付いた。それが普通の反応だ。
しかしヴァイオレットだけは強張った顔をしていない。それどころか口角を上げ、まるで笑っているようだ。いつもと違うのは一つ、その目つきから香るのが自信からくる余裕ではなく、挑戦的な意思であることだ。
「今のうちに逃げましょう」
「ああ」
「…逃げる?…へ‥ヘナはどうなるのですか?置いていくなんて私には‥‥」
夫人はしがみつくようにヴァイオレットの袖を引いた。
「どの位置にいるかも分からないこの状況ではヘナさんを救出できません。今はあなたを逃がすことを優先します」
ヴァイオレットは膝をついて彼女の両手を取った。
「ですが…!私が逃げたと知れたらあの子に何をされるか…」
「大丈夫です。あなたがいなければ人質は彼女だけ。彼らだってそう易々と害したりしません。ですから今はあなたの避難と、伯爵への報告が優先されるべきなんです」
夫人は無意識に手を握り締めていた。
「…分かりました」
足元のふらつく夫人をジェイドが抱え、やっとのことで外に出た。