26. 王国を選んだ理由
白い翼の鳥が列をなして晴空を泳いでいる。
潮の香りが満ちた風に身を委ねて、波切る船の隣を過ぎていく。
「うわぁ…」
向こうに港が見えてきた。オレンジ色の屋根と活き活きとした緑が混在したその港町は、スターチス領とはまるっきり雰囲気が違う。
「すーっごい!すごいよ!聞いてたとおりだ!やっぱ綺麗だね!」
デイジーは甲板から身を乗り出してはしゃいでいる。風に煽られないように体を支えているのはもちろんヴァイオレットだ。
「聞いていた通りって、海商さんとも仲が良かったのね」
ヴァイオレットは手帳に紐をかけた。
「それがさ、教えてくれたのジェイドさんなんだよ!えっとなんて言ってたかな‥そう!副団長の‥いや警備主任だったかでこっちの港の警備部隊との連携を取らなきゃいけないらしくて、この前来た時にまたきれいになってて驚いたって言ってたよ」
「いつの間にそんな話をする仲になったの?私が取り持った時は嫌な顔我慢していたじゃない」
「この前ふわっふわのケーキをわざわざ持ってきてくれたから許してあげたの。それに釣られたわけじゃないけど、アルファス家の特製だって言ってたし、そんなの言われたら仕方ないじゃん!」
「ジェイドがケーキを?フフッ似合わないわね」
「でしょ!何かの冗談かと思ったよ!でもあのジェイドさんが冗談なんてその方が想像できないもんね!」
「そうね、そうに違いないわ」
ヴァイオレットは軽やかに笑った。それが心からのものなのかは分からないが、邪な感情ではないことだけはデイジーには分かっている。
「ヴィオさん、前から思ってたんだけど何でそんなに優しくしてくれるの?私のことどうしてそんなに…」
彼女がヴァイオレットと話すとき、その目に映っているのは別の誰かかと毎度一瞬だけ錯覚してしまう。それは彼女の眼差しがつい半年前に知り合った友人に向けるにしては、デイジーには少し何か違うような気がするのだ。
「どうして?あなたのことが好きだからよ」
ヴァイオレットは戸惑いもしない。
「なんか‥なんて言うか違う気がするよ。ジェイドさんとは昔何かあったけど思い合ってるんだなって分かるし、ネラさんとは似た波長みたいなのを感じるけど、でも私とはそうじゃないでしょ?ヴィオさんが助けてくれたからそういうところが好きだから、私もヴィオさんの助けになりたいと思ってるけど、2人みたいに絆があるってわけじゃない」
「やっぱりあなたは賢い子ね。だけどね、絆というのは、相手への信頼や情に惹きつけられて結んでしまう自由を縛る暗示のことを言うのよ。私は誰も信用していないし、だから誰との間にも絆なんてものは存在しない。それはジェイドもネラもあなたのことも同じ。だからね、あなたのことが好きなだけ。本当に理由はそれだけよ」
人の心を温める優しくて素朴で真っ直ぐな声。だがどこかに空虚を感じる。
「ヴィオさん私今回は引き下がらない!私器用じゃないから、もう知らないふり続けらんないよ!」
デイジーの思いを支えるように、波が穏やかになった。口を結んだ甘い顔が凛とした青い目を向けている。
「分かった」
ヴァイオレットは根負けしたように笑った。
「だけどその答えはあなた自身が見つけるべきかもしれないわ」
「なんで私?」
「あなたの抜けている記憶の中にヒントがあるからよ」
「抜けてるってなんで…知ってるの?」
デイジーは動揺を隠すのが下手すぎる。わざとかと思うほどに目を泳がせて後退り、手すりに背中をぶつけて悶えている。
「初めて会った時、あなたのお店のことを聞いたけれど覚えているかしら?20歳のあなたに10年前に店主が代替わりしたかと聞いたのだけど、それが分からない様子だった。それにそのあと、自分が店主になったのが5年前くらいだと思うと答えたわ。曖昧に言ったのはその時の記憶に自信がないからよ。つまり、あなたは5年より前のことを覚えていないの」
「そっかぁ、ヴィオさんに隠し事はできないねー!そうなんだよ、全部が全部ってわけじゃないんだけど覚えてないことが多くってさぁ!あんまり生活に支障ないから真剣に考えてこなかったけど」
「それなら知りたくないかしら?その消えた記憶の中に何があるのか、何故私があなたを特別に扱うのか」
「知りたい!でも私が見つけるっていうのは無理だと思うよ?何をどうして良いかも分かんないんだもん」
「だったらこれは良い機会ね」
ヴァイオレットは波を覗き込んだ。その先には雄大な港が出迎えている。
「デイジー、ハーデンベルアに鍵があるのよ。私でさえまだ知らない答えもね」
「あ!もしかしてこっちに連れてきてくれたのってそれが理由だったりする?」
「理由の一つではあるわね」
「じゃあもう一つは?」
船が揺れた。乗客たちはバランスを崩し思わず手をついた。しかしヴァイオレットは遠くを見たまま、姿勢を崩さない。
「そろそろ、私は煌びやかな抗争の舞台に戻らないといけないからよ。そのために高貴な血に染まらなければならないからよ」
「貴族に戻るとか‥そういうこと?」
ヴァイオレットは頷いた。笑った口元が硬く見える。
「でもヴィオさん前に言ってたよね?相手が自分の存在すら認知していないのは有利なことだって。なのにそれじゃダメなコトなの?」
「ええ、それじゃあダメなの。今回は私自身が直接決着をつけなければならない因縁なのよ。昨日までのように生ぬるくはないの。私の過去も未来も人生もぶつけて相対しなければならないの。だから、隠れているわけにはいかないのよ」
「固い決意!って感じだね。私には一生できそうにないや。だけど応援はしてるからね!人生はかけられないけど、ちょっとはお手伝いするからさ!そのときは任せてよ!」
拳を突き上げるデイジーはまるで瞳に火を宿している。
「あなたはあなたで記憶を探す為に頑張らなきゃいけないの、分かってる?」
「分かってる!でも、ヴィオさんを手伝うって決めたのも私だから、どっちもやらせてほしいな!」
デイジーのこの満開の笑顔は、どんな闇をも消してしまいそうだ。だからこそヴァイオレットにはとても真似できないだろう。
「やっぱりデイジーね」
本音が漏れるように呟いた声は波の音に飲み込まれた。
「?どうかしたの?」
「さっき何か‥思い出したような‥」
デイジーは顔の中心に力を集めるようにおかしな表情をしている。
「あそうだ!ジェイドさんだよ!ヴィオさん、ジェイドさんにハーデンベルア王国に来ること言ってないよね!?そのこと後で知ったらジェイドさんまた拗ねちゃうんじゃない?」
「フフッまたすぐ会えるんだから、大丈夫よ。それよりほら、もう着くみたいだから戻らないとね」
「じゃあ帽子だけ取ってくるよ!」
デイジーはパタパタと甲板を走る。船のおおらかな揺れを楽しむようにくるくると足を運んでいった。
ヴァイオレットはまた手帳を開いた。風でページが捲られないように特製の金具を取り付けている。
“ヴィルリース・オリコフラグ”
“抹消された記録?”
“ハーデンベルア”
“生存? 偽装の可能性は…”
ぎっしり整理された文字列の中で、この四つに大きく印が付けられている。
(あの国の何処かに、死んだはずの“皇帝の姉”がいるかもしれない…)
「確証がなくても、これに全てを賭けるしかない」
ヴァイオレットは会話を弾ませていたときとはまるで別人のようだ。
表情は強張り感情は消え、眼光鋭く港を注視している。不自然なほど美しい姿勢が、静けさと切れるような空気を生み出している。それはまるで荒い波風をも支配するように。
建物に囲まれた港内を進み、ゆっくりと船が溜まった。下船する客達が順番に案内を待っている。
「ヴァイオレット!」
人が入り乱れる中に、大きく手を振っている人がいる。その男性は装飾や飾り気のない服を纏っているが、佇まいからして位が高い人だろう。骨格や顔立ちから、年齢は20代半ばといったところだろうか。嬉しそうに笑う整った顔はいたずらっぽく少年のようだ。
「ヴィオさんすっごいハンサムさんがこっちに手を振ってるよ」
「フフッそうね、迎えにまで来なくて良いと言ったのだけどね」
ヴァイオレットの表情がいつもより柔らかい気がした。本心のように見える笑顔ではなく、本心が滲み出たように見えた。
「ジェイドさん…!やっぱりここにいなくて良かったかも…!」
船留場の足場にヒールが触れるとしっとりと綺麗な音がした。
「久しぶりだね、ヴァイオレット。元気そうで良かった」
帽子を胸に当てているこの紳士は、近くで見るとよりハンサムだ。
「おっと、そちらのお嬢様を紹介してくれるかい?」
「ええ、こちらがデイジー・メイズさん。帝国の港町の花屋の店主です。デイジー、こちらはコーネル・ラークスパー・ワトル・ティルティウス様。ハーデンベルア王国の第三王子様よ」
「え…えぇーーーっ!!!」
精一杯の丁寧なお辞儀が吹き飛んだ。
「ウソだっ!!いやこんな冗談はないよねぇ‥?でも本物なわけもない?どっどういうこと!?」
「騒ぎ立てるとは殿下に対して無礼です!礼儀をわきまえて下さい」
コーネルの後ろについているもう一人の紳士が、眉間に皺を寄せてデイジーの足元を見ている。
「すっすいません!!」
「まあまあ、落ち着いてよロス。この子じゃなくて、事前に言っておかないヴァイオレットが悪いんだから」
「だってサプライズの方が楽しいじゃありませんか?」
「確かに、それもそうだ!」
「楽しいのはお二人だけです!そんなことより殿下、もう時間です早く行きましょう」
「分かった分かった、それじゃあ荷物を預かるよ。馬車はすぐそこなのだけど、足元に気を付けて歩いてね」
使用人らしき男たちがどこからか現れて、ヴァイオレットのトランクを預かった。
「ちょ…ちょっと!ヴァイオレットさん!!」
袖が遠慮がちに引かれた。デイジーが困った顔をしていた。
「あの…ヴィオさんはお知り合いみたいだし良いと思うけど‥私みたいなのを紹介しちゃダメだよ!私はお花屋さんだけど特権階級じゃないし、一緒にいたら迷惑かけちゃうと思うよ」
「そう…それならまず着替えましょうか」
デイジーのいかにも気まずそうな様子をヴァイオレットは全く気にしていないようだ。
「クロークス様、お洋服をお願いできますか?」
ロスと呼ばれていた紳士はそう話しかけられて、迷った様子をとった。
「頼むよ」
「分かりましたよ」
だがコーネルの指示にはきちんと従う。側役としては手本のようだ。
ヴァイオレットはデイジーの手を取ってどこかへ向かい出した。
「ヴィオさんっ!?」
「しーっ。信じて」
空き家なのか人のいないキレイな建物に連れ込んだ。厚いカーテンの中でされるままに着替えると、とても触りの良い感覚が身を包んだ。
「うん、良家のお嬢様ね」
大鏡に映るデイジーは深い青のドレスを身に纏っていた。髪もふわりと整えられ、誰が見ても町娘とは思いもしないだろう。
「どう?これなら遠慮することないでしょう?」
「見た目が変わっただけだよ…私は相応しくない…」
それでもデイジーは俯いてしまう。ここまでしてもらって申し訳ない、不相応なことはするべきではない、そんな常識的な考えに止まってしまう。
「相応しくないから近づくことを止めるより、相応しくなるために努力すべきだと私は思うわ。それはとても美しいことだから、あなたのきれいな心にとてもよく似合うと思うの。だけどもしもその相手があなたを傷つけるものやあなたにとって価値のないことなら、そうしなくて良い。だからあなたを俯かせる選択出ないのなら、このドレスを着ていたって脱いだって構わないわ」
ヴァイオレットの言葉には説得力がある。彼女の人生が遠くに見える。彼女はいつも、手を引くより新しい選択肢を与えてくれる。後悔と憎悪と切なさを隠して、あなただけは間違えないでとそう言うように。
迷いや後ろめたい気持ちに整理がついて、デイジーは爛漫さを取り戻した。
「でもなんでヴィオさんは侍女の格好してるの?普通逆じゃない?」
「じゃあ、交換する?」
「ごめんドレス着せてもらえてめちゃくちゃ嬉しい!もうちょっと堪能してたい!」
「フフッそうだと思った」
建物を出ると、通りの向こうにベージュが装飾された馬車が待っていた。
「お待たせしました」
「おぉ!随分印象が変わったね!もしやこの生地に使っているのは流行りの——」
「殿下!時間です」
コーネルは話し出したら止まらない。それを毎度止めるのもクロークスの役目だ。
「分かったよ!それじゃあお嬢様方、参りましょうか」
ヴァイオレットはコーネルの手を取り馬車に乗り込んだ。
「あっありがとうございます‥」
デイジーも後に続こうと真似をしてみるが、初めてのエスコートにとんでもなく緊張してしまっていた。
馬車の揺れが細かくなってきた。振動を減らすために馬は少しばかりゆっくりと足を進める。
「デイジー、起きて」
「ぅあっ?」
ぼやけた視界に2人の紳士とヴァイオレットが回った。
「ほら、見て」
小さく揺れる車窓から丘の上に佇む大屋敷が覗いた。
灰色にも青に見える滑りの良い屋根に、陽光に包まれた白い城壁。晴空を邪魔することなく草原の上に横たわった屋敷は、上品かつ繊細で優麗なのに自然と調和している。
「きれい…お城だ‥!」
「厳密には宮殿かな。叔母上が使っていた別荘だったのだけど、今は誰も居なくてね。君たちの宿泊先にちょうど良いと思ったんだよ!」
「とっ泊まって良いんですか?王家の皆さんの大事なおし‥宮殿なんじゃないですか?」
「良いんだよ。叔母上は賑やかなのが好きだったからね。特に君のような元気な声が」
コーネルの眼差しは悲しくて優しい。視線の先にあるその宮殿にどんな想いを馳せているだろう。
「とっても素敵な人なんですね」
「ははっ!そうだ!そうなんだよ」
純粋なデイジーの言葉が、コーネルには嬉しかった。
馬車が止まった。
デイジーはまたぎこちなくエスコートを受け降りた。そして目の前の景色に思わず飛び出した。
「ヴィオさん見て!白鳥がいる!」
階段の両端に色のはげた滑らかな彫刻の鳥が目を閉じている。
「素手で触っちゃだめよ」
「はーい!」
「殿下、お先にご案内してよろしいですか?」
「ああ頼むよ」
クロークスはデイジーをエスコートし、階段を上った。両脇の植物は整っていた形を留めてはいないが、それがまた良い装飾となっている。
正面玄関の大扉がゆっくりと深い息を吐くように開かれた。
「わあぁ!」
扉の向こうには長い廊下が待っていた。
高い天井に連なる埃を被った上品なシャンデリア。日焼けしたカーペットが受けるのはいくつもの大窓から注ぐ柔らかい陽の光。豪華絢爛な宮殿ではない代わりに、神秘的な何かが住み着いているようだ。
「埃っぽくてごめんね。月に一度掃除させてはいるのだけど、あまり維持できなくてね。本当は君たちが来る前にもう一度綺麗にしておきたかったのだけど、それはしない方が良いかと思って」
「ええ、ご配慮に感謝致しますわ。それに私たちにはこのままの方が心地が良いと思います」
「それなら良かった」
廊下を進んだ先で、クロークスは二つの部屋の鍵を開けた。
「ヴァイオレットさんのお部屋はこちらです」
「ありがとうございます」
ヴァイオレットは隣の部屋を覗いた。デイジーの部屋だ。
デイジーは部屋中の物全てに目を輝かせてはしゃいでいた。部屋の窓を勢い良く開けては落ちそうになり、クロークスが慌てている。
ヴァイオレットは静かに扉を閉めた。そしてしんとした廊下にコーネルと二人になった。
「ところで、この宮殿に住まわれていたヴィルリース殿下は今はどちらにいらっしゃるのでしょう?」
「正確な場所は言えないな。だけど、ハーデンベルアでは王族の配偶者も王家の墓場に墓碑を立てることになっているよ」
「いいえ殿下。墓という抽象的な居場所ではなく、私は実在する彼女のお住まいを伺っておりますわ」
「そうかい?だとしたらその言葉の意図が僕には分からないな。帝国の民なら知っていると思うけれど、叔母上はとうに亡くなっているからね」
「公式的な発表がいつも真実だとは限りません。私にはとても耳の良い友人がいるのですが、1ヶ月前、彼女はこの国に嫁いだ皇帝の姉君とその御息女がまだ存命であるという話を聞いたそうです。殿下には心当たりがあるのではありませんか?」
「うーん、僕には思い当たるところがないね。だけどもそんな噂があるのなら、その根源となった人物を探さないといけないね。ご忠告どうもありがとう、ヴァイオレット」
「ではその噂が本当だと証明すれば、殿下もヴィルリース殿下のことについて本当のことを語ってくださいますか?」
「そうだね、その時はもう一度話を聞かせてもらうよ。誰が何の目的でそんな細工をしているのかを調査しなければならないだろうから」
コーネルは冗談ぽくそう言った。ヴァイオレットの問いを本気にはしていないようだった。
「必ず見つけますわ。殿下は既にお分かりでしょうけれど、私はどうしても、引くわけにはいかないのです」
ヴァイオレットは強く目を合わせた。薄く笑みを浮かべてはいるが、その裏側に踏み入れるには勇気がいるような重みがあった。
「殿下、今よろしいですか?」
クロークスがデイジーの部屋から出てきた。
コーネルはヴァイオレットに目配せをした。
「デイジー穣に案内はしたのかい?」
「はい、一通りはご案内しました。ですがあの扉の紋様に一部欠損が見られまして、一度職人を呼んだ方がよろしいかと…」
クロークスの言う扉へコーネルを案内して行った。二人が部屋の中へ消えると、廊下は再び静まり、留め金の緩んだ窓に当たる風の音だけがした。
「生きている証拠‥そんなものがあるかしら」
(ネラが殿下の心から聞いた話が本当なら、皇帝の姉君とその御息女の生存は間違いないようだけれど。だけどそれを言っても証拠にはならない。だからと言って、ネラを彼に会わせる訳にはいかないわよね‥)
ヴァイオレットはそのカタカタという音に誘われるまま、窓を開けた。
その向こうにあったのは、広く開放感のあるしかし美しい庭園だった。整備はあまりされていなく、妖精の住処のように不思議な雰囲気を持っている。
「かと言って、新たな証拠を見つけるのはもっと難しい。私が動ける範囲が限られ過ぎているわ。殿下を説得する方が可能性はありそうだけれど、そうなると他に決定打になる何かを考えなければならないわね」
少し上から見下ろせるその庭園には、男が一人働いていた。庭師のような格好をしたその男は、積み重ねた薄い木箱を抱えて運んでいる。
「さぁどうしようかしら」
風に乗ってカサブランカの香りが飛んできた。
庭師の男が何かに躓き木箱が宙に投げ出された。
ダンッ——
急に倒れそうになるほどな眩暈に襲われて、咄嗟にヴァイオレットは窓枠に手をついた。
真っ暗な部屋の扉が閉ざされる光景。大きな陶器がバランスを崩した瞬間。必死に握っても動かない手。
ヴァイオレットにとって悪夢のような過去の断片的な記憶が瞬間にフラッシュバックしたのだ。
動悸と目が回る感覚が全身を支配する。それでも足に力が入らなくなる前に抑え込もうと、必死に窓枠を握りしめた。
白い手袋の掌と指先の辺りに血が滲んだ。
こんな状況で明るい足音が近づいて来る。
「ヴィーオさんっ!ヴィオさんもお部屋入ってみよ!ホントはヴィオさんのお部屋も見てみたいだけなんだけど‥ふふっ!」
ヴァイオレットから言葉が帰って来ない。
「あれっヴィオさん?大丈夫?」
デイジーが顔を覗き込もうとすると爽やかな顔で振り返った。
「ええ、あの人が木箱を落としてしまうところが見えて驚いたのよ。私彼を手伝いに行ってくるわ。殿下とクロークス様が戻ったらそう伝えてくれるかしら?」
「分かった!ヴィオさんの荷物も中に入れてもらうねー!」
「ありがとう、お願いね」
パタパタと戻る足音を背に、ヴァイオレットは玄関扉に向かった。押し殺した深呼吸がまるで黒い感情に震えているようだ。
(...どんなに必死に祈っても.願いはいつも踏み躍られた…そんなのどうだって良かったのだけれど...)
背筋が伸びてその後ろ姿は美しい。一方で重心の安定しない身体を支えるように、歩幅は小さく余裕がない。
「ウィル‥ジェーン‥悲しいままじゃ終われないわね」
小さく漏れたその言葉を褪せたカーペットだけが聞いていた。




