23. 炎の対峙
「火事だ!退避しろ!——」
(火事だと?)
足音しか存在しなかった静寂が破られ、暴れる炎に騒然が広がっていく。
すでにどの窓からも不穏な明かりが見える。この祉聖塔にも、四方を囲む館から火が燃え移ろうとしているのだ。
「ヴァイオレットここを出ないと」
エスコートのように待つ革手袋に、勢いよく右手が滑り込んだ。
二人は廊下の角に置き去りの番兵の様子を見に走ったが、彼らはまだ気を失ったままだった。
肩を強く揺さぶっても残りの二人が意識を取り戻さない。そうこうしている間に、階段に火の影が映ったかと思えば炎は一瞬にして駆け上がり、もうこの廊下を走っている。
炎に目が眩む中、駆けつけた番兵らが慌てる間もなくジェイドの指示に従って仲間を担ぐ。
「二人を頼んだ。我々は上階の確認を急ぐ」
「「了解!」」
まばらな炎が一つになってしまう前にと番兵らは急いだ。小さな瓦礫は橙色に姿を照らし出されている。
「君も早く——」
振り返るとヴァイオレットが剣を抜いている。
反対側の窓に大きく揺れる火が映った途端、黒ずくめの二人組が現れた。
視線までははっきりしないが、装備の一部が見え隠れしている。ジェイドはアドゥールの“影”だと直感した。
(まだ留まっていたのか——)
視線が合うのを感じて一秒も経たず、その鋭い刃がジェイドの目前に迫った。端正な長剣は軽々受け止め、吸収した力ごと一気に跳ね返した。
“影”が再び動き出す前に、二人は炎の蔓延る階段へ急いだ。ここを下りきれば“影”はもう追いつけない。それが突然、何かを思い出したかのようにヴァイオレットが向きを変えて上へ戻り始めた。
「待てヴァイオレット!奴らのことは諦めるんだ!」
「違うわ!“影”は炎の中戻って来た。この一番上にまだ誰かがいるということよ!」
脱出のため最上階に上った“影”たちが、数分そこに滞在した上に戻ってきた。脱出できなかったのはすでに火が回っていたからか。しかし火の手が上がったのは彼らが上階に行き少し経った後だ。筋が通らない。
残るのはもう一つの可能性だ。塔の頂上つまり外に繋がる部屋の鍵が開けられなかったのだ。最上階にある部屋は祈りの間それだけだ。
他の部屋とは違い、この部屋だけは内側からも施錠ができる。計画通り外の鍵を開けるだけなら侵入は簡単だっただろうが、部屋の中にいた高貴なる誰かが内側の鍵を閉めていたせいで、それが阻まれてしまったのだろう。その誰かの姿が見当たらない。それが意味するのは、避難の仕方が分からないのか怪我を負わされたか、とにかくまだその部屋に隠れているだろうということだ。
最後の段に足をかけて、ヴァイオレットは駆け行く。“影”達が彼女の背中に黒い手を届かせようとしていることにも構わず、ただ前に進むことを優先した。執念深い彼女の目付きは決して騎士道の表れではない。
そして暗がりの廊下の端、壁が迫るのが目前で見えると、体の勢いを空中に逃がし直角に方向を転換した。
ドンッ——!!
すぐ後ろにいた影は対応できずに、まんまと壁に衝突した。
だが距離をとっていた“影”にその効果はない。ヴァイオレットは剣に手をかけ振り向いた。“影”の刃を正面から受け止める覚悟だ。しかしその心配は無用だった。“影”の後ろにジェイドが見えたのだ。
彼が突いた剣は“影”の腕をかすめ動きを一瞬鈍らせた。初めて全身を一度に認識できた、骨格からしてこの“影”は男らしい。束の間、彼はジェイドの二突き目に応対したが、流石に手負ではその相手で手一杯なようだ。
(流石に傭兵レベルが限界のようね)
ヴァイオレットの視界に一層暗い隙間が入った。最上階への階段がそこにある。足が速くなるヴァイオレットの目に人影が映った。
その人物は最後の段を降りると辺りを見回すように振り向く。
「何故ここに——」
この暗さのせいで表情も目の色も分からないが、そのフォルムにその仕草、ジェイドは確信せざるを得なかった。
同時、炎で輝く金の刺繡がついた白いドレスの裾が、短く愛らしいウェーブがかった髪が、ヴァイオレットに思い起こさせた。
「聖女様——!」
「カルサ…——」
その時二人の後方で風を切る音がした。
咄嗟に我に返ったが一足遅く、ヴァイオレットは“影”の刃を受け止めるのが精一杯、ジェイドは反射的に打ち飛ばしてしまった。
倒れた“影”は好機を悟り、顔の見えない聖女に標的を移した。
黒い影が聖女に手を伸ばし、首に巻くように振りかぶった短剣が彼女の首へ加速した。
「キャ——!」
だがその鋭い刃は、聖女の顔前で平剣に受け止められた。弾き返したその剣はヴァイオレットが握っている。
しかし息が切れたままでは耐えられそうもないと、ヴァイオレットは“影”が再び迫ってくる前に攻撃を打ち出した。
「どうなっているのよ‥早く守りなさい!私の騎士は一体——!」
聖女がこの危機にやっと現実を感じたのか混乱して今にも勝手にどこかへ走り出しそうとする。
彼女が勝手な行動をすれば余計に不利な状況になることは明らかだ。ヴァイオレットは咄嗟に聖女専属の警護人を探したが、見渡す限りその姿はない。
隙を見て彼女は聖女を引き寄せ、自分の制帽を深く被せた。何か文句を口走る聖女を抱え、前に走り出すと同時に声を張った。
「ジェイク聖女様の護衛だ!急いで救出を!」
「っ了解!」
戦場では戸惑いや躊躇は命取りだ。ヴァイオレットへの心配を無視し、ジェイドはこの場の誰も比べ物にならないくらいに速く駆け抜けた。炎と刃のかち合う音を後ろに階段を駆け上がる。
最上階に火の手はなかった。そのためほとんど何も見えない。焦げた匂いはせども、ジェイドには人がいる感触がしなかった。
「うぅ…」
うめき声がした。ジェイドが慎重に音の根源を探すと、一か所だけ陰が動いて見えた。
彼は手探りでその人物の所在を見つけ出し、倒れている男の容態を確かめた。腹部と脚が濡れていて、床にもその液体は広がっている。
「聖女様は無事だ。お前もここを出るんだ」
ジェイドは慣れた手つきで男を背に縛った。月明りの下に見えるその制服は護衛騎士のもので間違いない。
彼は高い階段を四歩で跳び下り騒がしい炎の前で剣を抜いた。
ジェイドが状況を把握する前に胸に人が飛び込んできた。咄嗟に剣を手放し受け止めた。
「ジェイク!悪いが聖女様を頼む」
金属音と火の中を跳びながらヴァイオレットが叫ぶ。
「君は!」
「効率的に考えろ!早く行け!」
ジェイドは迷った。彼が本当に助けたい人は、今支えている女ではなく必死に戦うヴァイオレットだ。だがここに戦力にならない者がいることは邪魔でしかないということも分かっていた。
ジェイドはため息にも似た呼吸をし、聖女を抱えた。そしてヴァイオレットが影と炎を退けて作った束の間の道を全力で駆け抜けた。
一方目撃者を三人も逃がしてしまった“影”たちは、さらに躍起になってヴァイオレットに襲い掛かってきた。
彼らには退路が塞がれようが煙で呼吸ができなくなろうがもはや関係ないようだ。ただ己の死を前提に、目の前の番兵を道ずれにすることしか頭にないのだろう。
その猛威に絶体絶命と思えたが、ヴァイオレットは粛々としている。
髪を解き右頬の際で剣を構える。凛とした佇まいは先程とは明らかに様子が違う。
ヴァイオレットは跳び出し、一人目の“影”との距離を一瞬にして詰めた。
刹那、“影”は彼女の髪の隙間に紅に燃える瞳を見た。“影”は咄嗟に体を捻ったが、彼女の広い剣先は布を切り裂いた。
反撃に“影”は肩を開きナイフをヴァイオレットの首を目がけた。しかし到達目前で体が痺れて倒れ込んでしまった。ヴァイオレットの柄頭がみぞおちにめり込んでいたのだ。
間髪入れず、二人目が彼女に突進してくる。決まった構えでやはり首を狙ってくる。
ヴァイオレットはそのまま剣を振り上げナイフを弾き飛ばした。そして反撃の隙も与えず、ブーツの甲が側頭を蹴り飛ばした。
彼ら二人は完全に気を失った。だがヴァイオレットに一息をつく暇はない。
二階への階段は炎が大きく、もうどうやっても通れない。塔の周囲には火を消そうと人が入り乱れている。応援が来たと叫ぶ声もする。
「随分と早いじゃない?」
窓際から覗いているヴァイオレットは非情にも見えるほど冷静な表情をしていた。
「悪く思わないで」
すぐに彼女は片方の“影”の腕に刃を当て血を鞘に集めだした。
その間に気絶している“影”たちの所持品を漁ると、返しのついた鏃のようなものとロープが組み込まれたクロスボウのような道具を見つけた。
「良い物を持っているじゃない。お抱えの発明家でも雇っているのかしら」
ヴァイオレットは一つをロープだけ抜き取り本体の木の軸はへし折って炎にくべた。
こうしている間にも呼吸の仕方を誤れば体が内側から焼けてしまう。もたもたしていたら炎に身を包まれそうだ。
鞘を回収すると“影”の傷口を縛って、二人の“影”にロープをかけて人がいない木陰に下した。
そして取っておいた木片に火をつけてその傍の木に投げ入れ、その周辺に血を撒き散らした。
「早く見つけてもらうのね」
ジャケットを捨て、ヴァイオレットは大判の本ともう一方の“影”の道具を持って上階へ急いだ。
聖女がこもっていた部屋に押し入り、そこから塔の頂上に出ると、教会本部の外壁の向こうの穏やかで静寂な夜が目に入った。
だが肌に触れる冷たい風は塵と煙の臭いを含んでいる。ヴァイオレットは奪ってきた道具をクロスボウを持つように構えた。
「ふぅ…」
深呼吸をして、向こうの屋根瓦に照準を合わせる。
周りの館は全て塔より低い三階建てだ。ここから脱出するには十メートルは離れた一階分下の屋根に飛び移り、人の少ない裏手の塀を超えるしか方法はないのだ。
月が再び雲に覆われると、ヴァイオレットは指にかかるくらいの小さなレバーを引いた。
ヒュンッ——
鏃が屋根に刺さり、歯車が回ってロープが張った。
ヴァイオレットは意を決して空中に強く跳び上がった。体が下に落ち始めると今度はレバーを逆に倒し、ロープがものすごいスピードで手元の機械に巻き取られていく。若干上向きに引っ張られる力は凄まじく、手袋を締め付けるロープの跡が深く深くなる。
ロープが巻き取られて屋根に足が届くと、彼女はその勢いのまま瓦を蹴上がり、もう一度空に飛び出して、先の塀を悠々と超えた。
星々の中で、彼女はまるで魔法のように夜空を駆けている。その顔には不安も願いも緊張もない。ただ瞳に町の無数の屋根を映し一点を捉えている。
投げ出された反動と重力の応酬に耐えながら構えた道具のレバーを引き、その鏃はどこか店の屋根に刺さった。
疾風のごとくヴァイオレットはその先に引き寄せられていく。瓦がはっきりと目に入ると彼女は道具とロープを手放した。本体が先に瓦に激突し鏃を外して飛んでいった。
ヴァイオレットは上手く受け身を取ったが、勢いは殺しきれず棟を超えてしまった。このまま中空に投げ出されれば地面に叩きつけられる。彼女は必死に手を伸ばしなんとか棟を掴んだ。地面に落ちたのは瓦の破片だけだった。
ヴァイオレットは倒れるように寝転がって呼吸を整えようとした。心臓の鼓動の荒ぶりはまだ治まりそうにない。
彼女は目に光を感じた。また月が出ている。
「そうだったわね」
鼓動の音が回想を巡らせた。
「想定外を生み出しては標的にそれを押し付けて…。収拾に失敗した時には…家紋にまで影響が及ぶか…あなたの僕になるか…。だけどあなたの仮面は完璧で…私も誰もあなたの仕組んだことと気づかなかった…」
目を閉じると重たい何かが心臓にまとわりつくように感じる。
「あぁ悔しい」
震えた唇に気づいて心を押し殺すように肺に空気を取り込んだ。
ヴァイオレットは月の中に懐中時計をかざした。時刻は12時34分。夜明けにはまだ早いが、休んでいる暇はない。




