22. 潜入と異変
「待たせた」
ジェイドは静かに近づいてきた。いつも通りの真面目な顔をしているが、余程急いで来たのか髪は少し乱れている。
「遅かったじゃない?ほら着替えて」
ヴァイオレットは制服一式の入った鞄を押し付けた。
「服を奪われた番兵は?」
「嫌な言い方をしないでくれない?あの人達なら今頃寮でぐっすり。それより気になるのはあなたの方よ。屋敷に入ろうとして怪しまれたりしなかった?」
「ああ、怪しまれたいうことはないだろう。アドゥールと産業大臣の密談の約束を聞いたことがあってな、その確認の為の使者を装ったんだ」
「堂々と正門から入ったの?ジェイドって慎重派かと思えば、意外と大胆よね。だけど確認されたらそれが偽物だってバレてしまわないかしら?」
「それなら大丈夫だ。元々、使用人は顔を見てはいけない決まりらしい。それに釘は刺しておいたからな」
「流石に抜かりないわね。というかジェイド、さっきからどうして着替えないの?」
ヴァイオレットに横道の影に押し込まれるも、ジェイドはモジモジと着替えださない。
「?どうしたのよ?」
距離を近づけてきたヴァイオレットに、ジェイドは耳を赤くしてぼそぼそと言う。
「…外を見張っていてくれないか」
「え?」
あまりにかわいい理由を察してヴァイオレットは拍子抜けした。
「なに、恥ずかしいのね?」
「頼む」
ジェイドの赤い顔で真剣にそう言った。
「はいはい、乙女なんだから」
ヴァイオレットは束ねた髪を悠々と揺らして表通りに出た。
「間に合ったか?」
「あと2分よ。着替えに時間かかりすぎじゃないかしら?こういう服は着慣れているでしょう」
「すまない、騎士服を着るのとは違うんだ」
「そう?ならこれを付けてみない?」
ジェイドの力の抜けた声を眼鏡が遮った。
「視力は悪くないんだが」
「知ってるわ。これはミズロの特注眼鏡。このレンズ越しにはあなたの目は青く見えるの」
「色が変わるのか」
「そうよ。だからこれをかけている間は、あなたは緑眼の騎士ジェイドではなく、青い目の番兵…ジェイク。その服を身につけていることに負い目を感じる必要はないでしょう?」
「ああ、そうだな。そういえば君も茶髪なんだな」
ジェイドは眼鏡のフレームを持って目に付くほど深くかけた。
「あら、今さら気づいたの?」
「灯りが届いていないんだ。色はほとんど分からない」
ヴァイオレットはクスクスと笑いながら眼鏡の位置を直した。
「君は、元のままで良かったんじゃないのか?俺とは違って特徴が知れ渡っている訳でもないだろう」
「月が出てきたら困るもの。顔を見られて覚えられたらいけないでしょう?」
「この月が建物の中を照らすほど明るいとは——」
「良いじゃない、潜入する時って変装するものだから」
「…そうなのか?」
「そうじゃないの?」
湧き上がる笑みを落ち着かせて、ヴァイオレットが懐中時計の蓋を開けた。
「…30秒前」
彼女が軽く頷いて見せると、二人は教会前の通りに姿を現した。
正門の前に張り付いている番兵に近づき、敬礼をした。
「青い月の涙」
ヴァイオレットがはっきりとその言葉を口にすると、目の前の番兵が敬礼を解き2歩前に出た。
その後ろの、背丈ほどの門を開け2人は敷地内に入っていった。
「合言葉まで…」
ジェイドが後ろで感嘆の声を漏らす。
「意外?」
「いや全く」
ジェイドはどこか楽しそうに言った。
渡り廊下が右の本館に差し掛かろうとしたところでヴァイオレットが唐突に言った。
「影も残さないでね」
「ああ」
静かに周囲を警戒し、ヴァイオレットが向きを変えて祉聖館の廊下へ入った。
突き当り角に差し掛かって、彼女は立ち止まった。彼女は回廊に立つ柱の影に隠れるように合図した。ジェイドが慎重に先を覗くと、2人の番兵が交差しているのが見えた。
「…合図して」
番兵の視界に入らないように、前にいるジェイドがタイミングを見る。
番兵が一人になるとジェイドは右手を傾けた。同時に、二人は風も揺らさないように素早く通路を進んだ。
「急がないとな」
「焦らなくても大丈夫よ。交代時間まであと12分。それまでに着けばいいんだから。それより見つからないことの方が重要よ」
「それはそうだが…」
「ねぇあの紙、持っているわよね?」
「ああ」
ジェイドは懐から畳んだ偽の命令書を渡した。
「ありがとう」
今度はジェイドが念入りに確認して角を曲がり、階段を上る。
「ヴァイオレット。聞いても良いか」
「重要な話なんでしょうね」
「俺にはな。ずっと君を見ていて考えたんだ。君は何故危険を冒してまで、自らこんなことをするんだ?君なら駒を動かすだけで、同じことができるはずだろう」
「ええできるわ。だけどそうするのは情報の収集や拡散のように簡単なことの時だけ。だけどせっかく彼らに存在さえ気づかれていなかったのに、もしもこんな危険で重要な仕事を任せて、何時誰の命令で何を教会から盗もうとしたと外部に漏れれば、全て台無しだわ。そんなリスクを負うべきかしら?」
「いいや。だが同じことだヴァイオレット。君が選んだ方は失敗が死に直結するものばかりだ。その方がリスクが少ないと言うならば、それはまるで仲間の裏切りが前提のようじゃないか」
「言わなかったかしら。ジェイド、私は誰も信用していないわ。もちろん仕事を任せている友人も私自身でさえもね」
「例外はいないのか?」
「どうかしら、私をずっと見てきたというあなたなら気づいているんじゃない?でも今は、そこを曲がったらすぐに階段を上がって」
角に差し掛かって、後ろに下がったヴァイオレットの代わりにジェイドが先を確認する。
「…了解」
合図を出して階段に足をかけたジェイドが振り返ると、ヴァイオレットはしゃがみ込んで床を注視している。その指先が不鮮明に床に写っているのが彼には見えた。
「ヴァイオレット、さっきから何をして——」
「何でもないわ。行きましょう」
ジェイドは不服な顔をしながら階段を一気に駆け上がった。
三階には小さめの窓がある。だが灯りもなしに正確な形を捉えるのは、たとえ暗がりに慣れた目でも至難の業だ。
予想通り、左から二番目の扉の前に居るはずの二人の番兵は隅の暗がりに隠されていた。
「気絶しているだけのようだ。交代の二人はここで待つか?」
「いえ、もう来てしまったみたいよ」
壁に揺れるランタンの灯の影と共に、二人組の番兵が現れた。彼らは交代するはずの番兵の姿がどこにもないこの事態に当惑した。その隙に後ろを取られたことに気づいた時には、首に重い衝撃が走り、意識が飛ばされていた。
「さすが、副団長ね」
「君こそ流石だ」
この番兵たちもまた同じ場所に隠した。
二人も陰に身を投じた。
今夜は上空の風の流れが遅く、厚みはないが雲は多い。遮られた満月の微弱な光はこの階では薄まった陰に過ぎない。
呼吸の音を立てず、空気に振動を与えなければ、その存在を見破られることはない。
そして待つこと3分40秒、扉が開いた。
(来た)
“影”は手早く鍵を閉め終わると廊下の奥へ消えていく。ここに侵入するのは初めてだろうに、手慣れている。
僅かに響く二つの足音の中で、後から聞こえる方だけがほんの少し狂っている。ヴァイオレットはその異変を聞き逃さなかった。
拳一つ分の厚さの大冊を抱えながら、音を立てずに階段を上り続けるのは体に負荷がかかる。どんな訓練を積んでいても、その影響を完全に隠すことはできない。つまりそれは彼らが“仕組まれた命令”通り盗取を完遂したという証しなのだ。
音が完全に消えると、二人は扉の前に急いだ。
「入らなくて良いのか」
「ええ、危険な賭けをする必要ないわ。中の音が響くということは入り口の扉に隙間があるということ。そこから階段のどこかに落とすのが一番自然で簡単な残し方でしょう?」
「場所だけなら自然だが、そこにあれば命令書自体が不自然だろう」
「なら、ヒントは少しだけにしましょ」
ジッと音がした瞬間、彼女の手元に突然小さな火が現れた。火は命令書に移り、その細かな文字を照らしながら繊維を茶黒く浸食していった。
指先に迫った火に艶やかな唇が吐息を囁くと、ぼんやりとした陰の世界が戻った。
「ほらうっかり燃やし損ねたみたい、って見えないわね」
眉の動きも口の開きもはっきりとは見えないが、ジェイドには彼女が笑って見つめていると分かった。
「だけど、筆跡を見る分には問題ないし、大事なキーワードは残っている。これだけあれば、ちゃんと調査できるでしょう?まあ、何者かに侵入されたというのに、これを見逃してしまうような人たちなら、意味がないれどね」
しなやかな右腕のシルエットが扉の上部に伸びた。
「そうだな。流石に事件が起きていれば、そんな不注意をする兵もいないだろう」
「あら、皮肉なんて珍しいわね」
「そうだな」
歯切れの悪い返答はいつものジェイドらしくはなかった。ヴァイオレットも彼の顔は見えないが、見えなくても固まった顔つきで理由を隠していることは分かっていた。
「行こう」
用は終わったと階段に戻ろうとするジェイドの背に手が触れる。
「待って、少しだけ」
ヴァイオレットは反対へ歩き出した。
「今度は何を——」
そう言いかけて追いかけるジェイドの足が止まった。
「どうしたの?」
「今何かが」
ボッ——
前方の窓が急に明るくなった。
慌ただしい足音が響き、番兵が叫び声がした。
「火事だ——!!」




