21. 緊迫の初演技
皇都に構えるにしては立派な青い屋根の伯爵邸を、月影から覗いている男がいる。彼は時計の長い針が38を指すとともに門の前に現れた。そして棘のある声で言った。
「アドゥール伯爵はいるか?」
「ご用件は」
門番は会釈もせずに毅然として対応した。
「大臣の使いだ。確認を取りに来た。」
ジェイドは苛立ちを含んだ低い声をぶつけた。
「…少々お待ち下さい」
門番は互いに目を合わせると一人が屋敷内へ向かった。
「お待たせ致しました!ご案内します」
走って戻った門番が急ぎ門を開いた。
「結構だ。…不愉快だな」
長身の外套の男というだけで結構な威圧感がある。
「失礼致しました…!」
ジェイドは門番の渾身の一礼を無視して突き進んだ。
邸宅内に客を出迎える使用人はいない。アドゥールはこの家の誰も信用してはいないのだろう。
客人の顔を見ることを禁じられているのか、出くわした使用人達は皆深く頭を下げている。
そんなことを気にするよりも、ジェイドは正しい順路に集中していた。迷うそぶりを見せてはいけない。足を止めず、中央階段の左の通路に進んだ。
ヴァイオレットの情報は確かだった。突き当りの右側に隠れるように階段があった。
(左奥の階段から上がる…)
出た廊下には等間隔に同じ扉の部屋があった。ジェイドは三番目の扉の前に立ち、ノックをするところだった。が、ギリギリでその手を下した。
ヴァイオレットが言っていたのだ。『本来の“大臣の使い”はノックをしない。それが一種の合図』なのだと。音の無い扉の前で、ジェイドは厳かに視線を上げた。
ガチャッ——
中にアドゥールの姿はなく、メイドが壁際に並んでいるだけだった。もたれ込んだ純革のソファから、葉巻の臭いを覆い隠す香水の悪臭が広がった。
「申し訳ございません。旦那様は只今手が離せないようでございます。恐れ入りますが、今しばらくお待ち下さい。」
メイドの一人が開きっぱなしのドアから主人を呼びに行き、もう一人がワインとチョコレートを提供した。
アドゥールが来ないままおよそ20分が経ち、秒針を刻む時計の音が微笑みを貼り付けたメイド達の不安を増幅させていく。
その時、重厚なノックの音が聞こえた。しかし入ってきたのは先程のメイド一人だった。彼女は万年筆を差出し、これはジェイドのものではないかと尋ねた。蓋の端に“V”の文字が刻まれている。
(この女性が潜り込んでいるヴァイオレットの“友人”ということか)
これは紛れもないジェイドへの合図なのだと確信した。
彼は万年筆を奪うように受け取り、溜め息をついて言った。
「これ以上は待てない。どうせ確認をしに来ただけだ、帰らせてもらう。」
勢いのままにドアを開けた。慌ててメイドは深くお辞儀をした。
だが仕事に忠実なメイドは彼の後に付こうとした。
「お帰りをご案内致します」
「結構だ。それよりも首を切られたくないのなら、この無礼な対応について口にしないことだな」
ジェイドは強引にメイドを退かせた。“友人”のメイドが駆け寄る音を聞いて、彼は屋敷を出た。
ジェイドは屋敷の塀の死角に入ったところで胸ポケットの万年筆を取り出した。蓋を取るとやはりそこにペン先はなく、紙片だけが入っている。そこには“庭師 荷車 裏”と書かれている。
「お兄様!」
突如腕が引かれた。
少女に月明かりが降りかかると、フードの中に見覚えのあるくっきりとした目と、外套のからはみ出された上質なドレスが見えた。
「ヤケイを見に連れて行ってくれるって本当?」
天真爛漫を演じる彼女は、前にヴァイオレットの頼みでジェイドが貧民地区から連れ出した少年、ブルーの仲間で、『ビー』と呼ばれていたあの少女だ。
「ああ、そうだな」
ジェイドは間髪入れずに答える。
平民が増えて人通りの多い場所へ来た頃、二人は声を小さくして本題を話し始めた。
「ヴァイオレットの言っていた協力者がまさか君とはな」
「おどろいてたわりに良い演技してましたね。そんなことより中継者っていうのはずっと前にいるあの人ですか?」
少女の仕草に似合わない随分と大人びた口調だ。
「ああ。持ち手の青い荷車を引いている50代後半の庭師の男だ」
ビーは目を凝らして前方を観察する。男はポケットのあるベストやズボンを身に着け、布袋や木箱がいくつか荷台には載っている。
「やっぱどこに持ってるか分からないですねー。ビビの言ってた通り二人目と合流するときじゃないと無理みたいです」
「分かった。この辺りの土地勘はあるか?」
ビーは自信に満ち意気込んだ表情をして言う。
「ビビに叩き込まれたおかげで通りの番号まで覚えてますよ!」
「それは良かった」
ジェイドは誇るように微笑んだ。その笑みの先にいるのは、やはりビーの影に見えるヴァイオレットの方なのだろう。
「あの荷車で通れる道は限られている。あの橋を左に曲がればハレスサックル広場に出る。おそらく連絡場所はそこだろう」
「了解です。じゃあ…先回りといきましょう!」
ビーは深呼吸で準備を整え、はしゃぐように走り出した。
「お兄様!ねぇ今の見た?」
「走ると危ないぞビビアン!」
横道に入った途端、ビーはスピードをぐんと上げ積まれた樽を軽々とかわし、ドレスを着ているとは思えないとんでもない速度で壁の間を走り抜けていく。体の小ささが有利とはいえ、それは騎士の大会で優勝したジェイドが追い付くのに精一杯になるほどだ。
急にビーが止まったかと思えば、物陰にまだ幼いが目つきの鋭い少女が隠れていた。この少女もあの時ジェイドが見た仲間の一人、『シエロ』だ。
「命令書は?」
「もらった。」
「一人は荷車のおじさん。4番からとび出してよ」
「わかった。」
ほんの三秒の滞在でまた走り出す。
大勢の入り混じるが聞こえてくると、足を遅めて外套や衣服の汚れをはたいた。そして薄暗い横道から人の行き交う広場に出たのだが、どことなくジェイドの手の繋ぎ方がぎこちない。
「危ないと言っただろう」
「でも楽しかったわ!」
二人は街灯下のベンチに並んで座り、庭師を待った。ビーはどこに持っていたのかいつの間にか小さな飴玉の袋を抱えている。
「君以外も皆ああなのか?」
「ああって?走るのが速いことですか?」
「普通のことのように言うんだな。はっきり言って今のは異常な速さだ。身のこなしもそうだ。平民の子供のする動きではない」
「私平民じゃないですよ?孤児だから。裏通りの子どもは逃げ足が速くないと食べていけないんですよ。でも私は特別速いんです。ビビの訓練がきいたんですね」
「彼女が君らをスカウトしたのはそれが理由か。そこらの諜報員より君達の方が優秀になれると考えたのだろう」
「優秀までは期待されてないと思いますよ?私たちの中でまともに戦えるのはシエロくらいだから戦とう力はないですもん」
琥珀色の飴玉を一つ小さな口に頬張る様子は、まだ子どもなのだと実感させる。
「…その子供は今、何歳だ?」
「あの子は私の一個下だから9歳?ですけど。問題ありますか?」
「一個下…十分問題あると思うが、受け入れた方が良いだろうな」
「あそうだ、問題あるといえば“ビビアン”ですよ!誰の名前か知りませんけど、勝手に使ったら危険じゃないですか?」
「ああ、あれは即興だ。君の名前が‘ビー’だと聞いていたからな」
「えっ“ビビアン”って顔に見えます?」
「違和感はない」
深い意図のない言葉だが、ビーは何となく照れくさいのを誤魔化そうと下手な澄まし顔をしている。どこまでも鈍感なためにジェイド自身は気づいていないが、彼の心はその様子に懐かしさを覚えた。
彼女が飴玉を食べ終えたころに、手押し車の中継者は現れた。
「到着だ」
「やっぱり連絡場所はここで合ってたみたいですね」
二人は少し遠回りをして手押し車の側へ移動した。
すぐに平民の格好の女が中継者の男に話しかけた。紙切れが手渡された。
「お兄様?今シエロがいましたの、ご挨拶してもよろしくて?」
「あまり離れるんじゃないぞ」
「分かっていますわ!」
ビーは元気よく走り出した。まるでお転婆なお嬢様を体現するように可憐に足を絡め、荷車にぶつかった。庭師の男は慌てて令嬢らしき少女に駆け寄る。
「私のドレスが破けているわ…!」
彼女が気を引いているうちに、シエロがとび出す。前を見ずに走っていた不注意な子供らしく女の方ににぶつかった。シエロは膝をついて転び、女は尻もちをついた。
「ごめんなさい…!」
「…いえ、あなたこそ大丈夫?」
女は優しくシエロの手を引っ張り起こした。
「うん…!ありがとう」
シエロは顔にかかった短い髪をはらって言った。彼女の二重ポケットの中にはもう抜き取った命令書がしまわれている。
「シエロー!ほら早く行くよー!」
広場から通りに繋がる所から少し大人っぽい緑目の女の子が声をかけた。小さな男の子が隣にくっついている。
「まって!」
シエロはパタパタと走り出した。
中継者の女はすり替えられた命令書をポケット深くに入れ込んでその場を去った。
「申し訳ないお嬢様…弁償しますから…」
ビーの泣き真似に庭師はオロオロとしている。
「いや、その必要はない」
ジェイドの出番。ビーを自然に引き離すのがここでの役割だ。
「ドレスは破れてはいない、それはただの汚れだ。さあもう帰るぞ」
「はぁい…」
またぎこちなく繋ごうとする手をビーが甘えるように握り締める。
「すまなかったな」
ジェイドは銀貨と引き換えにこの場を後にする。
「いえこちらこそ…」
庭師が掌のその一枚に呆気にとられているうちに、二人の姿は広場から消えていた。
ヴァイオレットは一人、教会本部近くの物陰に潜んでいた。
彼女はすでに教会番兵の制服を着て外套を羽織っている。
雲がかかる月の高さを確かめて、静かに懐中時計の蓋を開けた。
0時、34分前。
突然、彼女は後方を警戒した。
タッ…
微かな足音の主が現れた。




