2. 冷雨の記憶
窓の外の騒がしい音で目を覚ました。
「やっぱりちょっと食材が足りないんじゃないの?」
「どいたどいた!急がねえとパンが焦げちまう!」
「あんた!暇なら代わりに港に行ってきとくれ!」
まだ日も昇りきっていないというのに、エプロンを付けたままのパン屋の店主や網が絡まったままの漁師、人々は慌ただしく動き回っていた。
「…お祭りの準備で大忙しね」
(それにしても、いつもよりも気合が入って見えるのは気のせいかしら?)
霊迎祭とは、年に一度開かれる死者を迎え入れ挨拶を交わすお祭りだ。
王都で行われるものを除けば、この国で一番の盛り上がりを見せるため、騎士や貴族、稀に皇族までもがお忍びで参加し、幅広い身分の者たちが交じり合うという。
日が傾いてくると、町はさらに多くの人で賑わった。出店には透明で綺麗な飴細工やおじさん自慢の串焼き、遠国のデザインが入ったアクセサリーなど、目を引くものがたくさん並んでいる。
行き交う人の中には上質な布を纏った紳士や、高価な装飾を着けた髪を可憐に揺らす少女もいた。
「そろそろかしら」
部屋の窓からランタンの明かりが付き始めたのを見て、ヴァイオレットは支度を始めた。
外出の目的は当然祭りではない。
彼女はライム色に白を重ねた町娘らしい質素なドレスを整え、高価な髪飾りの代わりに小さなスミレのネックレスを胸元に光らせた。
カランカラン——
「確か…リコリス広場だったわね」
ヴァイオレットがそこに着いた頃には屋台からだんだんと人が集まってきていた。
あの男も既にここにいるはずだ。かつての友であり、絶望を呼んだ傍観者。当の本人が何を思っているかは分からないが。
霊迎祭の夜は、この広場の鳴りやまない音楽の中で家族や友人はもちろんお互いに知らない者同士でも一緒に踊る。
「ちょっとねえさん待ってよー!」
「いらっしゃい!ダンスの前に一つ買っていかないかい?」
「始まるまであと十分ってところだな!なんだ?また賭けるか?」
その時、三発の花火が上がり、広場には待ってましたと言わんばかりの歓声がこだました。
その合図をもとに数人が踊り始めると、次から次へと中央へ集まり、軽快な足音や弾むような手拍子が広場を包んだ。そしてその中に、ひと際目を引く二人がいた。
マントで顔を隠してはいるがステップを踏む度に良質な衣服や本物の宝石の付いたアクセサリーが見え隠れしている。一応変装姿の様だが、それが逆に彼らの身分を証明している。
「気づかないふりも大変ね」
中央から少し離れた広場の隅を見回す。
屋台から出た人や踊る順番を待っている人そんな人達を和やかに見つめる人。それぞれ多様な様子だったが、ヴァイオレットはその中にある一人の男を見つけた。
「……ビンゴ」
さっぱりとした白髪に鮮やかな黄緑色の目で、中央の踊りをじっと見つめている。男はそこで踊っている人々というよりその中に何かを視ているようだった。
ヴァイオレットは真っ直ぐに男のもとへ歩いて行った。
「こんにちは」
ヴァイオレットは‘純粋な町娘’のように気さくに声をかけたが、男は目も合わせようとはしなかった。
「こんにちは」
同じトーンで繰り返した。しかし、男も同じように何も答えなかった。
そこで今度は、少し煽るような声で言った。
「あら、旧友との再会だっていうのに目も合わせてくれないなんて、あんまりじゃない?…ジェイド」
彼はぎこちなくだがやっとヴァイオレットの方を向いた。そして彼女の目を見た瞬間、まるで亡霊でも見たのかのような驚いた顔をした。
彼の頭の中では目まぐるしいほど考えが廻っていることだろう。
目を見開いて固まっている彼を見て、ヴァイオレットは少しだけ笑ってしまいそうになった。そして沈黙を終え、ジェイドが口を開いた。
「……アイリス…どうして君がここに……いや…まさか…」
「驚いた?安心して、私は本物よ。霊迎祭だからって、私を幽霊だなんて言わないわよね?」
まだ状況が整理できていないような彼に、ヴァイオレットはいたずらっぽくそう言った。またもや沈黙が続いた後やっと彼は声を出した。
「アイリス…君は確かあの時、晦冥の森に連れていかれたはずだ…なのにどうやって…それに今まで一度も‥‥」
彼の視線は絶えず震えていた。
「確かに、あの森は魔物の住む領域といわれるほど、一度入ったら生きては戻れない危険な森よ。でも助けてくれたのよ。ただの通りすがりだというある人がね。そのおかげで、私は今あなたに会いに来られたの…」
ヴァイオレットは懐かしそうに夕日の霞んだ夜空を見つめている。
「そう‥だったのか…アイリス、すまなかった。俺には君に話しかける権利すらないことは分かっている。だが、それでもどうか悔やませてくれ、本当にすまなかった…!」
「‥‥私がどんな返事をしても、あなたは自分を一生許さないつもりでしょう?そういう人だったもの。それなら私はあなたの謝罪をどう受け取ったらいいのか分からないじゃない」
「だが俺は本当に最低なことを…」
「最低じゃないわ。あなたにも守らなきゃいけないものがあったのよ、それは最低なんかじゃないでしょう?」
慰めるように笑って言った。
だがジェイドの心が救われることはなかった。彼には自分の過ちを正当化することはできなかったのだ。 ヴァイオレット絶望の底に落とした裏切りを。
7年前、皇城でそれは起こった。
舞踏会の幻想的な雰囲気を切り裂くように、冷たく無関心な声が響いた。
『アイリス・パルドサム、貴殿との婚約を破棄する。』
声の主は皇家特有の威厳ある黄金の髪に冷たいライトブルーの瞳をしている。この帝国の第二皇子、リビウス・ウィン・ラナンキュラスだ。
彼の後ろには聖女が不安そうに隠れ、そして二人の視線の先には動揺し表情を崩したアイリスがいた。
アイリスは褪せた紫の瞳を不規則に揺らして、この状況を理解できないでいるようだった。
そして、断罪が始まった。
自分の身に覚えのない聖女への大罪が婚約者の口から吐き捨てられる。信じていた人達に糾弾されて、アイリスはどんなに傷ついただろう。
彼女の言い分を聞こうとする人は誰も居らず、取り押さえられる姿を嘲笑い非難する声に彼女は涙を溢れさせた。
『誰か……』
アイリスは絶望を堪えて、まるで最期の言葉かのように掠れる声でそう言った。
一瞬、ジェイドは彼女と目が合った。必死に助けを求めているのだと感じた。だが、彼は目を逸らした。この時から7年もの間、後悔に苛まれるとも知らずに。
彼は非情なわけではなかった。
ジェイドにとってアイリスは幼い時に知り合い、初めてできた大切な友人だ。交流の少なくなってしまったあのときもそれは変わらなかった。
しかし、彼は卒業後に第三騎士団へ所属することが決定していた。それが辺境伯家と皇帝との間で交わされた確約だったために、皇家に逆うようなことはできなかったのだ。彼は一族を守ることを選んだ。
ジェイドは理不尽に連れていかれる彼女をただ見ているしかなかった。心臓が張り裂けるような痛みに駆られても、黙っていることしかできなかった。
その翌日、ジェイドは彼女がまだ伯爵邸に留まっていると信じ向かった。だが到着する前に門番の話を聞いてしまった。
『おい見たか?』
『何をだよ』
『ほら、昨日のあの怪しい荷車だよ』
『あぁ、あれか。庭の手入れのための道具が入ってるとか言ってたな。それがどうしたんだ?』
『バッカ、普通あんな時間に運んだりしないだろ?どう考えても怪しいから俺、中を少しだけ覗いたんだ。明かりがなくてほとんど何も見えなかったが、そこに…女が倒れてたんだよ。しかも金髪の…!』
『———っ!…おいおい嘘だろ…この邸宅内で金髪の女性って言ったら、アイリスお嬢様しかいないんじゃ…』
『そうなんだよ!俺たちここにきて間もないが、金色の髪なら見間違えるわけないだろ!だからおそらく‥お嬢様は———』
『バカッやめろ!そんなことあるわけないだろ。いい加減にしとけよ!』
『…おう』
『それで?その馬車どこへ行ったんだよ』
『晦冥の森さ』
『…だったらやっぱりお前の見間違いだよ。義理堅く寛容なことで有名なあの“パルドサム”だぞ。しかもお嬢様はとても愛されてるそうじゃないか。いくら昨日騒ぎがあったって、お嬢様を森へ送るなんて想像できないだろ』
『そうだよな…!俺昨日は徹夜だったから寝ぼけてたのかもな』
『やっぱりそうじゃないか、ったくそんなんだからいつまで経っても昇進できないんだよ』
『お前に言われたくはないさ、この前だって————』
突然の衝撃にジェイドの頭の中は真っ白になった。そして地面に落ちた雨粒の跡を見つめたまま、その場に座り込んでしまった。
何故、声を上げる勇気さえ持てなかったのか。ジェイドは何度も自問した。
雨音が激しくなるにつれ、後悔と罪悪感が倍にも増して彼を襲った。そのときにはもう、明日の事など頭の片隅にもなかった。
「…やはり君に何をどう償っても償いきれない。だが……本当に、すまなかった」
彼はヴァイオレットの前に立ち、深々と頭を下げた。その両手は型が付くほど握り締められていた。
「顔をあげて?あんな事になったのは、あなたのせいじゃないでしょ?それにあのことを、私のことを忘れないでいてくれただけで十分よ。ほら、人は良くも悪くも変わるけれど、私は友達だった小さい頃のあなたがまだあなたの中にあると思うわ」
明るい声でそう言うと、彼はぎこちなく頭を上げ、ようやくヴァイオレットの目を見た。
「アイリス‥‥」
7年間背負い続けていたものから解放されたように、二人が出会ったあの頃のように、彼は軽やかに微笑んで見せた。
その目には堪えきれなかった涙が浮かんでいた。体の内側からじんわりと温かいものが広がって、子供の頃のように心に身軽さを感じた。
人々の声や音楽が、うっすらと二人の静寂を埋めた。ジェイドはその不思議な時間に数年ぶりの心地よさを覚え、できるならこのまま一歩も動きたくないと思った。
しかし、同時に彼には聞きたいこともたくさんあった。そして考えに考えて、やっと口を開いた。
「…君は今この町に住んでいるのか?」
「ふふっ随分考えてその質問なの?」
「しっ仕方ないだろう?今の君のことは何も知らないんだ…」
「ふふっごめんなさい。えぇ、今はここに住んでいるの。それで小さなお店もやっているわ。お客さんもたくさん来てくれるのよ」
「そうか……よかった…それなら良かったよ、アイリス」
「あぁそういえば伝えそびれていたけれど、私の名前はもう『アイリス』ではないの。今の私は“ヴァイオレット”。そう呼んでほしいわ」
「…ヴァイオレット…よく似合うな」
彼は密やかに笑ってそう言った。その中には何か想いと寂しさが秘められているようだった。
「ええ。私も気に入ってるの」
ヴァイオレットは誇らしげに上を向いた。