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18. 傷跡(悲劇の果て)

 ついに舞踏会が始まった。貴族たちの腹の探り合いはいつも通りで、表面上は騒動の影響はさほどなかった。


 しかしアイリスは既に疲弊していた。華やかなパーティーのどこにも彼女の居場所はなかったのだ。

 パルドサム夫妻は当然の如く実娘であるクオレの傍を離れず、一緒に居るはずだった婚約者も親友も戻っては来ず、ただ何事もない顔をして待っているしかなかった。


『どうして…信じてくださらないのですか』


『先程もはっきりと言ったはずですよ。忠告を聞かなかったのはあなたです。』


 リビウスの態度は冷え切っていた。丁寧な言葉遣いにも、アイリスに対する敬意の念は少しもこもっていない。


『ですが私は決してカルサを陥れようなどとは思ってもおりません…!』


 アイリスは必死だった。このような行事でもなければ、彼はもう顔を合わしてはくれないことに気づいていた。


『発端となった事件。あれは本当にあなたが被害者であると本気で思っているのですか。』


『まさか…自作自演だとでも…?』


 アイリスの表情がさらに硬直してゆく。


『そのくらいあなたの信用度は低いということですよ。』


 リビウスはため息をついた。アイリスは彼が目を合わせようともしていないことに気づいた。


『婚約者として何をしても構わないとは言いました。ですが今回のことだけは、第二皇子としても見逃すことはできません。』


『ですから本当に私は…』


 届かない言葉を何度も繰り返して、アイリスの心は崩壊寸前だ。そのとき、伝言でも頼まれたのかカルサが1人近づいてきた。


『カルサ…』


 アイリスは急いで距離を詰めた。そして懇願するように言った。


『カルサ信じて、お願い。本当にそんな気はなかったの…それに脅迫文を送ったのも私じゃない。誰かが…私に罪をかぶせようとしているのよ…』


『誰かって誰よ…適当なことを言わないで』


 カルサは目線を下げたまま呟くように言った。


『でも…でも一度筆跡を調べて——』


 カルサが彼女らしくない強い口調で遮った。


『いい加減…!もうやめて、何の恨みでこんなことをするのか分からないわ。それにもう耐えられない。騒ぎになったことだけじゃないでしょう…!すれ違えば冷罵して、わざわざ呼び出してまで貶める言葉ばかり…私もう耐えられないわ!』


 彼女は俯いたままで表情はまるで見えなかったが、その場にいた全員が理解した。アイリス・パルドサムは聖女カルサを陰湿に苛めていた《《悪女》》だと。


 しかしアイリスだけは困惑した。当たり前に全く身に覚えがないからだ。アイリスを含めこの場の全員が信用している彼女がなぜ嘘を言うのか、訳がわからなくなっていた。


『な…何を…何を言っているの…?そんなこと一度もしてないわ…なんで…どうしてそんなこと言うのよ……』


 頭が重く熱くなっていく。その痛みに耐えかねて俯いたとき、足元を隠すヘザー色のAラインが見えた。


 灰色に近い褪せた青紫。どのタキシードにも合わない場違いな色だ。そしてアイリスは思い出した、カルサが着ているドレスが『薄い青』だということを。その色ライトブルーはアイリスが着るはずだったのに、完璧にカルサのものになっている。彼女の色になっている。そしてリビウス皇子の隣にいれば、初めからそうあるべきだったようにすべてが調和している。

 アイリスの中で全てが繋がった気がした。


『もしかして..もしかして最初からあなたは…あなたが仕組んだことだったんじゃ…』


 しかしそれを訴えることはできなかった。


『見苦しい。』


 リビウスが耐えかねた様子で止めた。


『え…』


 アイリスは見たことのない高圧的な態度に主張を続けることができなくなってしまった。


『もう沢山だ。…アイリス・パルドサム、この場で貴殿との婚約を破棄する。』


 カルサを背に庇い、アイリスを見下ろす、皇子の冷たく無関心な声が響いた。


 そこからは一瞬の出来事だ。

 アイリスはいくつもの身に覚えのない罪で断罪され、地位剝奪を宣言されて城から引きずり出された。 諦める方法しか教え込まれなかったアイリスに抵抗の余地はなかった。懇願するように叫んだ精一杯の主張でさえ、侮蔑と嘲笑に一蹴されてしまった。


 その後常に付いていた監視役に連行されて、伯爵邸の玄関扉の前で降ろされた。扉の前で待っていた二人のメイドが、アイリスの肩と背中を支え中へ連れて行った。

 アイリスは微塵も抵抗しなかった。彼女の表情は外套に隠れていた。はみ出た色褪せたブロンドが肌を刺す冷たい夜の風に煽られた。


キィィ…


 倉庫の扉が開いた。

 投獄される罪人のようにアイリスは背を押されて、亡霊のような足取りで中へ進んでいった。

 物音でもしたのか、メイドの一人が屋敷の方を振り返った。アイリスも視線を追った。彼女は閉まる寸前のドアの隙間から、二階の部屋のバルコニーへ続くガラス扉が激しく揺れているのを見た。

 だがその虚ろな目は驚きも疑惑も悲しみも、何の感情も映し出してはいなかった。


 しばらくして、男が扉を開けた。雲が月を隠していた。

 屋敷の灯りはとっくに消えていたが、先程の部屋のガラス扉にランタンの灯りが揺れていた。

 男が指示を呟いて、アイリスは自ら荷台に倒れた。男が準備をして離れている間に若い門番がこそこそとやってきた。薄っすらとした灯りでアイリスの姿影を見つけるとすぐに走り去ってしまった。その灯りに反射して荷台の端に細い剣が転がっているのがアイリスの視界に入った。


 荷馬車は冥界の森に進みだした。


 不規則に揺れる荷台の上で、アイリスはあることを思い出していた。

 励ましをくれたリビウス殿下、優しいエスコート、穏やかなティータイム、救われた言葉。

 凍った思い出を温めてくれたカルサ、隣にいて笑顔を取り戻させてくれたカルサ、この世で唯一アイリスを信じると言ってくれたカルサ。

 その日々を信じていたくてずっと勘違いだと言い聞かせていたこと。


 学園のあの階段でカルサが宙に放り出されたとき、あのとき、カルサは笑っていたのだ。地面に加速しながら、確かに笑っていた。


 絶望と虚無に支配された虚な目を閉じ、アイリスは孤独に死を待った。





 微かな希望に縋りたくて、残酷な最後の迫る足音に耳を塞いだ。そして結局信じていた全てに裏切られ、砕け散った心で死を受け入れることが最後の祈りになってしまった。


 まさに悲劇。


(けれど、私たちの人生はそこで終わらなかった。私の場合はあなたのおかげ。あなたはどうなの?ヴァイオレット…)


「クライマックスには間に合いましたね。ロイファー夫人」


 突然後ろの席から声がした。

 このボックス席で彼女を待っていた貴婦人は、オペラグラスを覗いたまま答えた。


「ヒロインが嘆きの歌を歌っているのが聞こえませんか」


「あらご機嫌よろしくないようで、この演目は好まれませんでした?プレミアものだったのですが」


 茶髪の淑女は笑っていた。


「オペラは全て嫌いです。ヴァイオレット、わざわざこんな所まで呼び出して、何のようですか?」


 夫人はグラスの先を見続けて言った。


「オルデヒア様は皇女派の筆頭貴族でしたでしょう?」


「皇女様に会わせろと言っているのですか?」


「ええ。()()()()に力をお借りしたくて」


「また危ないことを」


 オルデヒアはため息をついた。


「断るという意味でしょうか?」


「そうだと思いますか?」


「いいえ。あなたは必ず恩を返すと言ってくださいましたし、何より、()()()()()()()()()()はずですからね」


 舞台の青年が、赤いマントの男に剣を捧げた。男はそれを月に掲げ、青年に歓迎を歌い始めた。半音足りない演奏が、青年の苦しみを代弁している。


「そうでしょうね。繋ぐのは構いませんが、今は無理ですよ。時期が悪い上に時間がかかることですから」


「ええゆっくりで構いません。誰にも気取られぬように慎重に取り計らっていただければ」


「いつ頃を想定しているのです?」


「半年後が理想ですね」


「分かりました。ではまた連絡を寄こしてください」


 情緒の無い言葉の応答に、ヴァイオレットは首を傾げた。


「オルデヒア様、何だか今日は素直ですね。何か企んでいるんじゃないかと不安になりますよ。何せあなたは、()()()真っ先に手を切った方ですし」


 後ろからクスクスと声が聞こえ、オルデヒアは眉を下げた。


「仕方ないでしょう。皇女派が劣勢であったのに巻き込まれるわけにはいかなかったのですから。それに、私が()()なのはあなたのせいでしょう」


「私の?」


この演目(こんなもの)を見せるからです」


 この演目は‘忠臣カランセの裏切り’。家門を守ろうと自らがした裏切りによって、主も家族も親しい人をみんな失ってしまった主人公カランセが、教会の中で悲嘆に暮れるクライマックスを向かえていた。


「そうでした、ごめんなさい」


 ヴァイオレットは黒いレースの装飾の巾着にオペラグラスをしまった。


「では、今夜は失礼します」


 ヴァイオレットは扉の取っ手に手をかけた。

 カランセ’の懺悔の歌声が響く渡る中、オルデヒアが唐突に口を開いた。


「ヴァイオレット。もう知っているかもしれませんが、皇女宮のメイドが一人失踪したそうです。第一皇子殿下が再び隣国へ行ってしまって、牽制が強くなっています。だから本当に慎重になった方が良いと思いますよ。それと、フィオリア殿下を守るという約束、(かだ)えないでくださいね」


「もちろんです。あの皇子を追い込むには必要な戦力でしょうから」


 オルデヒアは微動だにせず、オペラグラスを覗き続けていた。そんな背中を見て、ヴァイオレットは今度こそ扉を開けた。


「ご機嫌よう」


 バイオリンの音色が激しく響き渡った。




 この帝国は四つの派閥に分かれている。


 一つ目は、第一皇子派。皇子は前皇后の嫡子で隣国の第二王女と婚約している。後継者候補として最も有力な人物。


 二つ目は、皇女派。皇女は皇后の子でオルデヒアの兄と婚約している。病気がちなために支持は弱いが、第一皇子の庇護のお陰で候補としての地位を守り、派閥を固められた。

 しかし、皇子が一時的とはいえ隣国へ渡ってしまったことで、第二皇子派からの牽制が強まった。その上、社交界の中心を守っていたオルデヒアも妊娠の影響で社交界に顔を出せなくなり再びその地位が危ぶまれている。


 三つ目、第二皇子派。皇子は前皇后の実子で聖女カルサと婚約しており、パルスリス公爵家とパルドサム伯爵家を筆頭に勢力を拡大している。


 そして四つ目、ヴァンドルディ公爵家が代表的な中立派。




 ヴァイオレットは第二皇子リビウス・ラナンキュラスと聖女を追い込むために、()()を集めているところだと言っていた。(オルデヒア)も、皇女殿下もそのうちの一人だろう。

 皇女殿下が後継者に選ばれれば、実質あの方の負け。そうでなくても、あの方の勢力を削ぐことは『追い込む』には必須事項。


 しかしこの前の指示はまるで意図が分からない。


 あの伯爵が教会に恨みを持つ連中と手を組んだという噂を広めてほしいだなんて。けれど彼女のことだからまた何かの下準備なのでしょう。

 信じて進むわアイリス。我がエイルハルト侯爵家の命運を握っているのはあなたなのだから。




 オルデヒアはオペラグラスを外し、椅子に背をもたれかけさせた。


 舞台の上では、哀惜と祈りの光を纏った‘カランセ’が自らの心臓を貫き、幕を閉じた。観客の喝采を前に、オルデヒアは目を閉じた。

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