1. 幕開けの契機
信じることは破滅を招き、
愛の為に人生は奪われる。
全てを失った日、そう思い知らされた。
『アイリス・パルドサム。婚約を破棄する。』
蔑むような冷淡な視線が突き刺さった。
彼は淡々と破棄の理由を述べている。だが、どれも身に覚えのない罪ばかりだ。
彼の背中に身を隠しているかつての友が憂いの目で私を見ている。
『…信じて…お願い…』
懇願するようにその手に触れようとした。
しかし彼女はそれを拒み、あろうことか今までに受けたという偽りの被害を暴露した。
場が騒然とした。
だが混乱していたのは私だけだった。
皆は露ほども彼らを疑わず、その‛嘘’を信じた。
愛した人も信じていた人も、膝をついた私に手を差し伸べてはくれなかった。
初めから味方などいなかったのだ。
大勢の侮蔑と嘲笑の言葉が首を絞めていく。
衛兵に腕を掴まれ罪人のように連れて行かれる。
涙を流しても助けを求めても、その掠れた叫び声は誰の耳にも届かない。
呆然としたまま邸宅に連れ戻されると、父と母から激しく責め立てられた。
せめて彼らだけには捨てられたくないと、必死に無実を主張した。
だが何の意味もなかった。
『お前が我々家族の一員であったことなど、ただの一度もありはしない。』
それが最後に聞いた言葉だった。
目が霞み何も考えられなくなった。
耳鳴りに音が掻き消されていった。
息の仕方が分からなくなった。
気が付けばたった一人、風の冷たい森の中に運ばれていた。
人影もランタンも履いていたはずの靴さえ、そこにはなかった。
本当に独りになってしまった。
月も見えない暗い土の上では何も感じられず、涙の枯れた虚ろな目が静かに閉じた。
‥‥‥っ
冴える感覚と共にぼやけた天井が目の前に現れた。
目覚めたばかりの紫色の瞳は、爽やかな窓の景色を見つめた。彼女の名前はヴァイオレット。今はそう名乗っている。
昇り始めた太陽の明かりが、時計塔の屋根を照らしている。
「……なんて良い夢かしら」
その言葉に本心は一つも混ざっていない。それもそのはずだ。あれはただの悪夢ではなく、実際に起こった彼女の“過去”なのだから。
そんな自身の感情とは裏腹に雲一つなく気持ちいいほど青い空を見て、彼女は笑った。
バサッ
ベッドを降りて窓を少し開けた。
そしてウェーブがかかったプラチナブロンドを優しく梳いて、質素で上品なドレスを身に纏い、店を開いている下の階へ降りていく。
カランカラン
開店の表札を出した後は、お客が来るまで店の片隅で新聞を片手に紅茶を飲む。今日の彼女の表情は、いつもの穏やかさとは何か違っている。
本屋,時計屋,パン屋が民家と入り組んでいるこの通りに、慌てた足音が聞こえる。
スカートを翻して走るその少女は、夕日に反射したショウウィンドウの前に吸い寄せらせるように足を止めた。
「‘ビタークレス’…?」
看板には艶のある黒でそう書かれていた。
大きなガラス窓の奥に花や装飾品、骨董品や異国の衣服、綺麗な女の人の絵画が見えた。
気がついたら彼女は扉を開けていた。
カランカラン…
「わぁ……」
店内は一層不思議な雰囲気で満ちている。
彼女は商品の一つ一つに見とれて進んでいくと、店の奥には女の人がいた。
彼女はアンティークな椅子に腰かけ新聞を読んでいる。小さなテーブルからはハーブティーの良い香りが漂ってくる。彼女の優雅な所作がこの店の店主が誰なのかを物語っていた。
「待ちくたびれたわ」
ヴァイオレットは呟いた。けれど少女には聞こえなかった。
「えっと…今何て…」
少女が声を漏らすと、ミステリアスな紫色の瞳がゆっくりと彼女に向けられた。
彼女は一瞬、その夜空のような深い色に吸い込まれそうになった。
「気に入ったものはありました?」
ヴァイオレットは柔らかにそう言った。すると少女はハッとしたように身を引いた。
「あっ…そうですよねっ勝手に入ってきたのにすいません…えと…もう帰ります、失礼なこと言ってごめんなさいっ!」
少女は勢いよくお辞儀をするとまた慌ただしく扉に向かおうとした。店主が朗らかに声をかける。
「待って、あなたが“お客様”じゃなくても構わないの。少しだけ付き合ってくれないかしら」
「いえ今私ほんとに何も買えない…くらい…」
少女は店主の前に積まれた艶めくクッキーに目を奪われてしまった。よく見ると小さなチョコチップのスコーンも並んでいる。しばらく悩んだが、少女は食欲には勝てなかった。
店主の対に座ると、少女の前にハーブティーが出された。
「お口に合うと良いのだけど」
少女は頷いて、鮮やかに自分の姿を映すカモミールティーを一口だけ味わった。
「じゃあ、自己紹介をしましょう!私の名前はヴァイオレット・ビタークレス。もう分っていると思うけれど、このお店の店主よ。でも、お客様によっては相談にのったりもするの」
「相談…ですか?」
「ええ、あなたを招待したのもそれが必要と感じたからなの。もし良かったら、あなたの“悩み”も聞かせてもらえないかしら?このクッキーのお礼だと思ってね」
ヴァイオレットは冗談まじりにそう言った。
「えっとじゃあ、結構真剣な話で申し訳ないんですけど…実はある騎士様を探していて」
「あら、恋のお悩み?」
ヴァイオレットが興味ありげに聞いてきたので、彼女は少し恥ずかしくなって答えた。
「いっいえそうじゃないんです!その…えっと私、向こうの大通りで花屋をしてるんですけど、1週間くらい前に貴族っぽい女の人と一緒にその騎士様がいらっしゃって。『この花の名はなんだ?』って聞かれたから、『それはポピーですね!いろんな色がありますけど、この赤い花が一番人気なんですよ!』ってお答えしたんです」
デイジーは絵に描いたように表情をコロコロ変えて話す。ヴァイオレットは思わず緩んだ口元をティーカップで隠した。
「それで、その日はそのまま帰られたんですけど…その翌日!店じまいの準備をしていた時にさっきの騎士様が仲間を引き連れて来たんです…それでお店の物ほとんど押収?されちゃって…」
声の張りや明るさが段々消えそうになっていく。
「精一杯声をかけたんですけど全然聞いてくれないし…どうしたらいいのか分からなくなっちゃって、お店にあったものみんな持っていかれちゃって、なんか『次は店主と話をつける』とかわけ分かんないこと言われちゃうし…」
デイジーはガックリ肩を落としている。今にも泣きそうに目が赤い。
「あらあら、ひどいわね」
「はい…だから今は取りあえず働き先を探しているところで…」
「それで『何も買えない』って。でも、だったらなぜその騎士に会おうとしているの?今の感じだと、真面に取り合ってくれそうにないけれど」
「それは…最後の頼みっていうか、お花をあげようと思ってるんです」
「花?」
「えっとさっきの質問をされる前に、『アイリスの花はないのか?』って何回か聞かれたんです。でもヘリオトロープから渡ってくるのが3日後で、『ない』って答えたら、ちょっと残念そうにしてらしたから…だから、よく分からないけどお花のことで騎士様を怒らせてしまったのなら、そのアイリスの花を渡せばどうにかならないかなって思ったんです…すごく欲しかったみたいだし」
「アイリスね…」
ヴァイオレットは小さく呟き、何か考えていた。
「あっでも、その話しをしたとき一緒にいたお嬢様がすごく嫌な顔をされてたんでした。やっぱりダメですかね…」
「…そうね、さすがにお花では解決は出来そうにないわね」
「やっぱり…でも、それじゃ私どうしたら…!」
デイジーの胸にまた不安が押し寄せて来た。涙はもう結界寸前だ。そんな彼女とは裏腹に、
「そんな顔しないで?」
ヴァイオレットはそんなデイジーの顔を覗き込んで、笑顔で言った。
「でも——」
「大丈夫。私が解決してみせるわ」
「大きな力に立ち向かう方法はたくさんあるのよ。あなたがされたように真っ当な主張が届かないなら、私の力を借りるべきよ」
「でも…私さっきも言いましたけど報酬にできるものなんて持ってないですから…」
「報酬、ね。私も初めに言ったのだけど、相談事にお金は取らないわ。だから、」
彼女は握りしめられていたデイジーの拳にそっと温かい手を重ねた。
「私に任せて」
ヴァイオレットの濃い紫色の瞳には不安は一切浮かんでいなかった。そして自信に満ちた笑顔でデイジーを真っすぐに見つめていた。
それが分かった途端になぜだかデイジーの中の不安は消えていった。デイジーにはヴァイオレットの金色の髪が初めて見た時よりも輝いているように見えた。
「本当に良いんですか?」
「ええ、もちろん」
「…じゃあ、おっお願いします!」
彼女にすべてを預けられて、デイジーは少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
結局そのあとも三時間デイジーはお店に滞在したが、彼女にはその時間が妙に居心地が良かった。
あんなに揺らいでいたデイジーの心もすっかり落ち着き、ヴァイオレットを信じる自信さえ湧いていた。
カランカラン—
「さてと、」
すっかり日が落ちて人の声もしなくなった頃、ヴァイオレットは店を閉めて、二階の自室に戻る。軽い足音が床に響いた。
机の上には新聞の切り抜きや手紙の束が溢れ、サイドテーブルには染髪料の小瓶や黒皮の手袋が置かれている。
「騎士ね」
ヴァイオレットはどこか楽しそうな真剣な顔でそう呟くと、紙の束から一組を取り出し机の上に並べた。
<広場に新しい噴水が作られたとき、聖女様が…>
<護衛は交代で二人の…>
<全騎士武闘大会を制したのは…>
新聞の切り抜きや無数のメモを一つ一つ分けていく。
「…あった、<皇都祭><カルサの動向記録>…」
(やっぱり霊迎祭には行くみたいね)
三枚のメモと切り抜きをボードに刺し、ランタンを手に窓辺へ向かった。
半開きのクローゼットの中には大緑色のワンピースやくすんだ外套、マーメイドラインの美しいドレスと、ただの平民には持ち得ない着装品が並んでいる。
「夕方には閉めるつもりだったのに」
ヴァイオレットは鉢植えが一つあるだけの小さなベランダに干していたタオルを取り込み、夜空の空気を目一杯吸った。
空には青みを帯びたどこまでも深い紫が輝いている。
ヴァイオレットは笑みを浮かべた。
「デイジー、あなたのおかげ‥‥あなたのおかげでやっと歯車が回り始めた。…さぁ、そろそろ報いを受けてもらいましょう」
その瞳は星々の輝きを奪ってしまいそうな程、恐ろしいまでに強く空を捉えている。