退役勇者はお腹が空いた
食べたい食べたいお腹がすいた。
「あっクソガキ! 商品を食うんじゃねえ!」
「またあの子か。可哀そうなことだ」
食べたい食べたいお腹がすいた。
「大丈夫よ。ここではお腹いっぱい食べられるから」
「でもその前に神様にお祈りしましょう。主のお恵みに……」
食べたい食べたいお腹がすいた。
「勇者さまっそんなものを食べてはお腹を壊しますよ!?」
「生まれの卑しさと育ちの悪さがもろに出るな」
「悪食怪物勇者さま」
食べたい食べたいお腹がすいた。
「どうか、どうか私たちを助けてください……!」
「勇者様のお力で! 魔王をどうか倒してください!」
「人々に平和を!」
食べたい食べたいお腹がすいた。
「貴様が魔王かっその首もらい受ける!」
「なんと弱弱しい生き物か。その程度で我を倒さんとするか。か細い希望に縋りつくか。今すぐに死に絶える方がはるかに幸福だろう」
食べたい。
「……ああ、なんてということか。件の勇者はその小娘か。10かそこらの幼子ではないか。こんな子供を担ぎ上げ、前線に送り出すか、人族」
食べたい。
「……あなた、とっても」
おいしそうね。
******************************
王国の郊外、かつて農業地帯として栄えた土地にある1軒の屋敷。二人住むだけにはもったいないほど大きな屋敷で、私は同居人を探していた。
「トロワ、トロワー、どこー?」
「はいはいどうしましたかレミーマさま」
「お腹すいたー」
どこからか現れたトロワは私の言葉に顔を引きつらせた。お昼ごはんには早い時間だということはわかっているだけに、申し訳ない気持ちになる。
「レミーマさまのお腹は異次元なんですかね……」
「ごめんね、いっぱい食べて」
「こちらこそすみません! レミーマさまは育ちざかりですもんね! 腕によりをかけて作りますから!」
とりあえず、と林檎を三つ寄こすとバタバタと台所へと向かっていった。
くうくうと、お腹がなる。
きゅうと縮んだ胃を慰めるように私は林檎にかじりついた。
果汁があふれる、質のいい林檎だ。
でも、満たされない。
窓から見える屋敷の周りには私とトロワで作った畑が広がっている。広大な土地だが、今は何とか管理できている。開墾の時と収穫の時だけは王都や最寄りの農村から人手を借りてきているが、それ以外は私の手だけで何とかなった。
壁に掛けられた豪奢な剣は、もはやただのインテリアと化している。握ることも振るうこともなく、今の私が握るの台車の持ち手で、振るうのは鍬だ。
私が勇者になってから5年。
魔王を封印し、勇者をやめてから1年がたった。
勇者レミーマ・フォールポートは今や無職の大食らいだ。
物心がついた時には親も兄弟もなく一人でいた。
家も着るものも食べるものもなく、いつもひもじい思いをしていた。家がなくとも、屋根があれば雨は免れる。着るものがなくても、ごみを漁れば身体に巻き付けるものが出てくる。でも食べ物は駄目だった。ごみを漁って食べられるものがあれば御の字。何もないことも多いし、野犬や猫、カラスや鼠に先を越されることも多かった。
私はずっと、お腹がすいていた。
なんでも食べた。生ごみも虫も、鼠もカラスも、猫も野犬もなんでも食べた。何度もお腹を壊したけれど、そのうちなんでも食べられるようになった。
なんでもした。ごみ箱を漁った。物乞いをした。店先から奪って逃げた。
教会の炊き出しがあると聞けば、街を超えて数か所回った。お腹がすいたと言えば、優しい大人がご飯をくれた。
食べられるときに限界まで食べた。いつ次食べられるか、わからないから。
林檎が一つなくなった。
9歳のころ、人攫いに遭った。
誰も私を探す者もなく、人から人へと売られ、何の因果か王国の下女として働くことになった。
働くようになってからは、慎ましくも3食食べられた。
給金は私を売った誰かのもとへ流れているようだったけれど、幼いおかげで周囲からもかわいがられ、お願いすれば少し多めにご飯をもらうこともできた。
それでも足りなくて、私はずっとお腹がすいていた。貧民街で一人暮らしていた時よりか、マシだけれど。
10歳の時、私は勇者になった。
当時王国は魔獣の侵攻、魔王軍の侵攻に悩まされていた。そうして魔王討伐のための軍隊を編成することとなった。
人を癒す奇跡を行使する聖女。王国において無敗の剣士、隠里から選ばれた密偵兼暗殺者。魔術に精通した魔導士。一騎当千、粒ぞろいの王国騎士たち。
けれど勇者がいなかった。
勇者とは勇気ある者で、強い身体と心を持つ、魔王を倒すためにいる存在だ。
勇者を勇者と選ぶのは、王国に伝わる“主の矢“だ。
主の矢にあたった者が勇者となり、勇者には主からギフトという特殊能力が贈られる。ギフトの内容はその時々によってまちまちである。
そしてなんの因果か、王国の下女として洗濯をしていた私のもとへ、“主の矢”が飛んできたのだ。
10歳孤児の下女レミーマ・フォールポートは、救国の勇者レミーマ・フォールポートとなった。
二つ目の林檎がなくなった。
そこからは怒涛の日々だった。
いきなり大きな軍隊の真ん中に放り込まれたと思ったら、勇者さま勇者さまと期待に満ちた目で見られ続ける。
何をすればわからなかったので、わかることだけをした。
私は食べた。
ひたすらに敵を食べ続けた。
魔獣を、魔物を、魔界植物を、魔人を食べた。
私に与えられたギフト、“大食”。
“大食”のギフトを与えられ、私はなんでも食べられるようになった。毒があっても全く効かず、どんな固い殻、鎧も嚙み砕き消化した。そして食べた相手の能力を一時的に行使できるようになった。
魔犬を食べれば鼻が利くようになり、魔兎を食べれば耳がよくなった。毒蛇を食べれば口内から毒を出すことができるようになり、怪鳥を食べれば空が飛べた。
私はお腹がすいていたから、喜んでなんでも食べた。
周囲は私に次々に魔物を食べるように願った。そして平らげる私を見て褒めそやし、喜んだ。
そしてその日、私たち勇者一行は魔王を半永久的に封印することに成功した。
軍の大半を失い、生き残った仲間は数えられるほど。大勝利、とは口が裂けても言えなかったが、それでも人族の初めての勝利だった。
私は魔王の手足、腹を食らい、四肢を失った魔王は魔術師により封印された。
魔王は封印され、魔物たちは侵攻をやめた。人族の王国には平和が訪れ、勇者一行は歓待され、それぞれ願ったものを手に入れた。
14歳になっていたレミーマ・フォールポートは大して願うことがなかった。
家族もなく、住む場所もなく、持っているものは名前だけ。名誉の価値を知らず、権力の使い方も知らない。
「おなかいっぱい、ご飯がたべたい」
それくらいしか思いつかなかった。
そうして元勇者レミーマ・フォールポートは、住む家、一生食うに困らないだけの恩給、食うに困らないだけの広大な畑、そして自ら志願してきた料理人トロワを与えられ、悠々自適に暮らすことになった。
三つ目の林檎がなくなった。
手のひらについた果汁を舐めとる。甘くておいしい。
でも、それでも満たされない。
「レミーマさまー! 軽食できましたよ! 今日はお外で食べましょうか!」
私がどこにいても聞こえるように、大きな声でトロワが呼ぶ。
「……今行く!」
トロワの声がする方へ走り出す。彼女が言っているのはきっと畑の一画にある東屋のことだろう。最初はどうしてあるのかわからなかったけれど、畑仕事の途中で休んだり、こうして外で食事をするのも、案外楽しい。
清潔な屋敷で生活できて、返り血のついていない服を着ることができて、飢えることなく三食、あるいはそれ以上に食事を摂れる。そのうえ仕事と言えば自給自足のための畑の管理だけ。こんなに楽に生活していていいのかと思うほど、優遇されている。
貧民街の孤児が、今やお国からお金をもらって贅沢な暮らしをしている。
でも、貧民街にいた時と変わらないこともある。
「レミーマさま、オレンジジュースと紅茶、どちらがいいですか?」
「紅茶。……サンドイッチ?」
トロワの持った大きな籠からは香ばしいパンの匂いがする。
「ええ、レタス、パストラミハム、トマト、チーズのサンドイッチにたまごサンド、ローストビーフとスライスオニオンサンド。それからイチゴのジャムサンドも」
「……えへへへ」
ついつい嬉しくなって口元が緩む。トロワと暮らし始めて早1年。私の食べる量や好みを把握してきたトロワの料理は、いつも私を喜ばせる。
昔ならこんなおいしい料理は食べられなかった。
今では私のための料理人がいてくれる。こんなに贅沢なことはない。
東屋のベンチに腰かけトロワと向かい合いながらサンドイッチを食べる。食べているのは私だけでトロワは紅茶を飲んでいるだけだけど。
心地よい風が吹き、畑の野菜の葉が揺れる。あたりに高い建物もなく、青い空をふかふかの入道雲が浮かんでいるのがよく見えた。
穏やかで、緩やかだ。
居心地がよく、食べ物もおいしい。
けれど、満たされない。
「食べたい食べたいお腹がすいた」
気が付くと口遊んでしまう。
どれだけたくさんパンを食べても、どれだけたくさん肉を食べても、トロワのおいしいごはんを食べても、まだ、足りない。
パンから飛び出してしまったローストビーフを行儀悪く食む。ソースで汚れた口元をトロワが拭った。
まだ足りない。
私は勇者であったとき、もっとおいしいものを食べてしまった。
忘れられないほど、おいしいもの。
とっても、とってもおいしかった。
「食べたい食べたいお腹がすいた」
きれいで強くて、とってもおいしい。
「お腹がすいた」
また食べたいな、魔王。
********************************
トロワは昼から買い出しのため街に行っていていない。
彼女のテリトリーである台所へと忍び込み、胡椒壺のふたを開けた。
「くちゅんっ……」
鼻をくすぐるスパイシーな香り。壺の中に指を突っ込み、指先についた粉末を舐めた。ぴりりと舌を刺激する胡椒。おいしい。
胡椒も山椒も唐辛子も好きだ。刺激的で舌にのせるとドキドキする。香辛料があるだけでアンモニア臭い深海魚も泥臭いドブネズミも美味しく食べられる。勇者になってよかったと思えることの一つが。高級品である香辛料を買うことのできる財力を得たことだ。貧民街で泥水を啜る子供はきっと一生口にすることはなかっただろう。
肉や魚をつまみ食いするとトロワにすぐばれてしまうため、今は香辛料だけで我慢する。人差し指に灰色の胡椒。中指には真っ赤な唐辛子。薬指には黄色い芥子。舐めとると口の中に刺激が広がる。おいしい。
繊細な料理よりも、味の濃い料理が好き。
ふわふわと蒙昧とした味は食べた気がしない。ばちばちするような刺激が欲しい。濃い味、強い匂い、噛み応え。全部が欲しい。ケーキよりも固いバゲット、コンソメスープより激辛スープ、淡白な鶏肉より鹿肉。
ちゅう、と指を吸う。
おいしい香辛料。でも足りない。もっと欲しい。
もっともっと刺激が欲しい。
食べたい食べたいお腹がすいた。
いつも私は思ってた。
勇者をやめてから、お行儀の良いご飯しか食べてない。
子供のころは死肉ばかり食べていた。
勇者になってからは、生きた肉に食らいついていた。
そして今は、また死肉を食べている。
一人きりの屋敷は広すぎた。ばれない程度のつまみ食いをやめ窓を開ける。
トロワとサンドイッチを食べた時よりも風が強い。入道雲は目まぐるしくその形を変え、西から吹く風は森の向こうから香りを運ぶ。
「…………?」
久しく嗅いでいなかった匂い。
熱い風に乗って流れてくる匂い。臭い。
魔物のにおい。
壁にかかった剣をひっつかみ、私は窓から飛び降りた。
庭を抜け、畑を抜け、西の森へと走り出す。トロワからは一人で勝手に外に出てはいけないと言われているが、もう止まれなかった。
西の森の奥から流れる、少し湿った熱い風。風に運ばれ鼻孔をくすぐるのは泥臭い刺激臭。魔物特有の独特な臭い。
森の向こうに魔物がいる。
魔王を封印してから魔物たちの侵攻はやんだ。けれど彼らは根絶されたわけではない。人族のテリトリーを侵さなくなっただけで、彼らはどこかで生きている。根絶やしにすることを人族が願っても、それをするには戦力が足りな過ぎた。
もう魔物は人族を襲わない。街や畑に侵入することもない。魔王が封印されたことで、無言の不可侵条約が結ばれた。
そうして私は彼らを食べる機会を失った。
鶏や豚、牛や鹿。食べられる肉はたくさんある。けれどそのどれも物足りない。
魔物の肉の独特の風味が、固さが、刺激が忘れられない。他の何も代用品にならない。
香辛料を塗しても、あの刺激臭にはかなわない。
生きた鹿に食らいついても、竜を食いちぎる高揚感にはかなわない。
世界に平和が訪れた。
私のおかげで。仲間たちのおかげで。
世界に平和は訪れた。
けれど私には耐えがたい飢餓感が訪れた。
何を食べても満たされない。
ひたすら森を駆け抜けた。うねる木の根も、生い茂る葉も気にならない。風の吹くまま、匂いの方へただただ走り続ける。
まもなく匂いが強くなった。
「っは、あ」
木々の開けた森の中に、猪の群れがいた。
黒い毛並みに黒い蹄。紫の牙からは毒が滴る。
つい1年前まで散々見てきた魔獣、魔猪だ。
茂みから突如として現れた私に、魔猪の群れはおおわらわとなった。ある魔猪は慄き後退し、ある魔猪は怒り地団太を踏む。けれど私にとってはどれも同じだった。
「おいしそう……!」
私は手近な一匹に躍り掛かった。
ふと、鼻先に水滴が滴った。
よくよく見れば真っ白い入道雲は色を変え、青空を重い灰色の身体で覆ってしまっていた。堰を切ったように振り出す雨で手や顔を洗った。
久しぶりに満たされていた。
毛皮は固く、泥臭い。臓腑も同様で泥の匂いが取れない。けれど引き締まった肉は噛み応えがあり、太い骨は髄液までしっかり味わえる。首の付け根にある毒袋は最高のスパイスだ。
「おいしかった……!」
口の端についていた血を舌で舐めとる。
こんなにもおいしいのに、勇者としての旅をやめてから一度も食べることができなかった。今まではご飯がひとりでに来てくれていたのに、彼らは人族のテリトリーへ来るのをやめてしまった。
お腹も心を満たされたところで、あたりを見渡して悲しくなった。
ところどころに黒い毛が落ち、地面にまき散らされた血を雨が洗い流していく。
せっかく久々の魔獣だったのに、すべて食べきってしまった。
彼らは増えるのが早い。1,2匹残しておけば、増えてまた来てくれただろうに、1匹残らず一度に平らげてしまった。
ショートケーキを食べるとき、トロワは最後のイチゴを食べる。
「楽しみは取っておきたいじゃないですか!」
笑顔でトロワは最後にイチゴを一口で食べていた。
私にはそれができない。食べたいと思ったら食べてしまう。我慢ができない。
幼いころに身に着けた、食べられるときに食べる、という習慣は食うに困らなくなっても私の身体に染み付いて抜けなかった。
そのせいでこのざまだ。
おいしいものはなくなってしまった。
そっと手を合わせる。
「ごちそうさま、でした」
王国の下女として働いていたころ、優しい先輩が教えてくれた。食べ物は等しく主の恵みだから、感謝して食べるように、と。
魔猪も竜も、怪鳥も魔人もみんなおいしかった。おいしいけれど、抵抗もして一般人は食べることができないのは、きっと主がもったいぶっているからだろう。こんなにも美味しいのだから、きっと魔獣たちは主のとっておきのごちそうなのだ。
悲しいかな、とっておきの主の恵みはなくなってしまった。
ギフト“大食”は、食べものの能力を一時的に使うことができる。魔猪を食べたおかげで私の口からは毒が出るが、戦う必要がない今となっては無用の長物だ。
口の中で舌を動かし、あふれてくる毒を啜る。これはこれでおいしい。
ざあざあと、雨が強くなってきた。
返り血だらけになった服をトロワが見たらきっと怒る。雨で全部洗い流れると良いけれど。
彼女が返ってくる前に屋敷に戻ろう。なんでもない顔をして、いい子のふりをして出迎えればいい。きっとつまみ食いしたこともバレてはいまい。
踵を向け、歩き出そうとしたところで、別の匂いがした。
魔猪の血でも、雨の匂いでも、木々の匂いでもない。
シンと冷たい、鍾乳洞のような匂い。その中からする微かな甘い香り。
甘い香りは旅の間に何度も嗅いだ。魔術師が魔法を使うときにする匂いだ。
そして鍾乳洞のような匂いは魔人の匂い。
ごくり、と喉が鳴った。
魔猪でお腹はいっぱいになったは。心も満たされたはず。なのに満腹感は春の日に雪が解けるように消失していった。
「食べたい、食べたい、お腹がすいた……」
気が付けば口遊み、あたりに意識を向けた。鍾乳洞のような匂いは遠ざかっていく。私から逃げているのだ。おいしいご飯は、私から逃げている。
食べたい。食べたい。
だって魔人は、魔猪なんかより、竜なんかより、ずっとおいしいのだ。
私は再び走り出した。
土砂降りの雨の中、泥が跳ねるのも気にせず駆け抜ける。
逃げる魔族の足は決して遅くはない。けれど魔猪を食べたばかりの私には遅すぎた。あっという間に距離は縮まり、鍾乳洞の匂いと甘い匂いが強くなる。
数分で背中をとらえた。黒いマントを羽織った魔族だ。背格好は私よりも小さい。黒いしっぽが誘うように揺れる。親とはぐれた子供かもしれない。小さな子供が一人で出歩くなんて不用心だ。どんな理不尽な危険が襲い来るとも知れないのに。
冷たい鍾乳洞の匂いと甘い匂い、それから焦る吐息の匂いを吸い込んだ。
「おいしそう……!」
こんなにもおいしそうな匂いは早々ない。魔猪はおいしい、竜も、怪鳥も美味しかった。けれど魔人はもっとおいしい。肉はほどほどに柔らかいし、食べづらい鱗や分厚い皮もない。けれど流れる血に毒素があり、それが天然の味付けになる。角もしっぽも羽根も美味しい。
いろんな魔人を食べてきた。
王国の端にある穀倉地帯を襲った魔王軍の一団がいた。従えていた魔獣もいたが、それ以上に魔人がおいしかった。初めて人型の魔物を食べた。日々魔物を食べ、おいしさに目覚める中、彼らは別格だった。魔獣狩りは仲間に任せて、私は魔人をお腹いっぱい食べた。
魔族のテリトリーの中腹あたりで集落を落とした。そこには働き盛りの魔人も幼い魔人も老いた魔人もたくさんいた。みんなとてもおいしかった。
魔王城の四天王も美味しかった。みんな元気で生きがいい。仲間たちの何人も殺されたけど、最終的にはみんな私のお腹の中に入った。仲良しみたいだったから、お腹の中でもきっと寂しくないだろう。
ごくりと唾を飲み込んだ。伸ばした手がマントの端を掴む。
小さな魔人は簡単に泥の中に倒れこんだ。
「食べたい、食べたい、お腹がすいた」
けれど一番は変わらない。
あれほどおいしい食べ物は、後にも先にも彼しかいない。
白い肌に金色の目。黒い髪に立派な角。
右腕を食い、左腕を食い、腹に剣を突き刺してから両足を捥いで食べた。
薄い脂肪は甘く、鍛えられた肉は噛み応えがある。甘い香りを裏切るスパイシーな血に、程よい硬さの骨。
何もかもがおいしかった。
封印するため、完食は許されなかったが、きっと臓腑も脳も、極上の味がしただろう。
「ま、待て! とまれ!」
舌ったらずな声で魔人は私を制止しようとしていた。けれどその程度では止まれない。私はもうこのおいしそうな魔人を味わうことしか考えていなかった。
邪魔なマントをはぎ取ろうと、泥の中から魔人を引き起こして、はたとする。
幼い魔人に、どうしてか見覚えがあった。
白い肌に、金貨のような金色の目。柔らかな黒髪に小さな黒い角。
そして何より、食欲をそそる芳醇な香り。
「我には毒があるぞ! 腹を壊すぞ!?」
「ま、おう」
小さくおいしそうな魔王は、精一杯威嚇するように、牙を見せつけた。
*************************************
濡れ鼠になって屋敷に帰ると、すでにずぶ濡れになっているトロワのブーツが置かれていた。雷を落とされることを覚悟する。
「ただいまー……」
「レミーマさま! いったいどこへ行っていたんですか!?」
小さな声だったのに、遠くからトロワの怒号が飛んでくる。そしてどんどん足音が近づいてきた。思わず身体を震わせる。
「レミーマさま! 勝手に外に出てはいけないとあれほど申し上げたではありませんか! 百歩譲ってどこに行ったかとか置手紙くらい残し、て……」
「うん。ごめん」
トロワも心配してくれたのだろう。普段屋敷か庭か畑にしかいない私の姿がないとくれば、探す先もわからないだろう。私も外出する気はなかったのだ。あのおいしそうな風が吹くまでは。
さらなる怒号を予期して身体を縮こまらせていたが、どうしてか怒号も何も飛んでこなかった。
「トロワ……? ごめんね……?」
「レ、レミーマさま……それはいったい何ですか?」
トロワは震える指で私が担いでいるものを指した。濡れそぼったマントは重いので森の中に捨ててきて、今は頭の角も背中の羽根も隠すものはなく露わになっている。
「ごは……魔王」
「まおう…………」
つい食欲が先走って言い間違えてしまったが、優しいトロワは笑いもしない。
「魔王。西の森にいた」
「……それは、勇者さまたちが封印したのでは……?」
「うんタマズサが魔術で洞窟の岩に封印した」
偏屈で意地悪な魔術師タマズサ。旅を終えてからは王都に工房を設け、潤沢な恩給を研究費として使っていると聞いている。
「どうして封印が解けてるんです……! まだ1年しかたっていないんですよ……!」
「うん。不思議だね。私も手足を食べたのに、今の魔王。手足あるし」
私はおいしく食べた四肢。生まれてから今までで、一番おいしかった思い出のごはん。どうしてかおいしい四肢はすべて揃っている。
ただ魔王は縮んでいた。2メートルはあった大柄の魔人であったのに、今では私よりも小さい。10歳前後程度に見えた。
「は、早く封印しなおしてもらわなきゃ……! 王都に連絡を、」
「待ってトロワ」
「なんですレミーマさま!?」
「ダメ。これは私が飼う」
顔を真っ青にして右往左往していたトロワの動きが止まる。
「かう……?」
まるで油を差し忘れたブリキの人形のようにトロワは私と気絶した魔王の顔を交互に見た。
「あのね、トロワがよく言うでしょ? おいしいものは最後に取っておきたいって」
「え、ええ?」
「あのね、トロワ。魔王ってすっごくおいしいの」
「は?」
「だから、魔王は取っておくことにしたの。食べるのちゃんと我慢して、一番おいしくなるまで待つの」
今まで私は食べられるときに食べ、食べたいときに食べてきた。けれどこれからはきっとそれでは駄目だ。私の近くへ来てくれる魔物は限られる。それをすべて残さず食べていたら、きっとあっという間に魔物たちは全滅してしまう。そして全滅してしまったら、私はもうおいしい彼らを食べられなくなる。
好きな時に食事がとれるよう、人族は小麦やイモを育てた。
好きな時に肉が食べられるよう、鶏を、豚を、牛を育てた。
ならば私も、好きな時においしい肉が食べられるよう、魔物を育てるべきなのだ。
「大事に大事に育ててね、大きくなったら食べるの」
「は……」
「それから魔猪とか魔犬も育てたい。好きな時に食べられるように、育てて増やして」
この屋敷の近くでそんな自給自足ができたら、こんな素敵なことはない。
ぐったりとした魔王の匂いを嗅いでいると、目の前のトロワが崩れ落ちた。
「え、え、トロワッ、トロワ!?」
ぐったりした魔王と、倒れてしまったトロワを担ぎ、私は二人をベッドに運んだ。
優しくて大好きなトロワ。
おいしくて大好きな魔王。
刺激が少なくて、物足りなくお腹が空く毎日が、変わり始める予感がした。