一章附記 少女たちの『徒然草』
『舞姫の時間』読了後にお楽しみ下さい。
「花は盛りに、 月は隈なきをのみ見るものかは……ねえ咲耶。どう思う?」
隣の机に座って、教科書を開いた琴美が小さく声に出した。
ここは図書室。大きな声を出すのは禁止。
どう思う、の部分だけ、少し声が低かった。
「どう思う……って?」
二年生一学期の期末テストまで、あと三日。
とっくに部活は休みになった。用のない人はすぐに下校しなさい、と先生に言われたけど、帰りのホームルームのあと、テスト勉強しよう、と琴美に誘われた。
一足先にホームルームの終わった2組から琴美がやってきて、教室の出口で待ち伏せされた。私が図書室へ行こうと荷物を手に教室を出たら、そのままついてきた。
……なんだろう。しっかりと補足されている、というか、逃がさない、という意思を感じるというか。悪い予感がした。
図書室には十人ほど生徒がいて、テスト勉強をしていた……勉強道具を持ってきてはいるものの、読書に熱中している人も何人か。
奥の静かな一角まで行って荷物を置いた。私はそのままカバンから勉強道具を取り出す。席はたっぷりあるので、余裕をもって座るのか、と思っていたら、私が座ったすぐ左に琴美が座って……「どう思う」。
古典のテスト範囲になっている徒然草。
一三七段。
花は満開の頃だけ、月は雲のない満月だけを見るべきものだろうか?
そう疑問を投げかけて始まる有名な段なのだと、センセイに教わった。
花が散ったあとを見上げ、ああ、ここで美しく咲いたのだろう、と心に描く。
天気のよくない夜には家の中で、雲の上に美しい月があるのだろう、と思いを馳せる。そこを汲み取れる感性あってこそ、深い風情が味わえるのではないか……大体そんな内容だ。
「ちょっと素敵かな、って思うけど、やっぱりお花見は満開の日がいいかな。すこしめんどくさい感じ」
私の言葉に琴美がくすっと笑った。
「……だよね。月も花も、私は一番綺麗なところが見たい。月も花も、きっと一番綺麗なところを見せたいはずだから」
「琴美?」
「絵を描いていても同じなんだよね。満開じゃないときの美、っていうのも確かにあるのはわかる。でも、そういうのは今じゃないっていうか。もっと落ち着いてからでいい、みたいな。今は一番綺麗で、一番すごいのがいい。誰にも負けないくらいに」
徒然草の一三七段は、この後、恋の話に入っていく。
「恋は相見しを……」と続くのだ。
――思いが遂げられて、互いに愛し合える恋は確かに素晴らしい。でも、果たせなかった約束を思うこと、結ばれなかった愛しい人の記憶、幸せなあの日の思い出……そうやって一つ一つの恋を大切に思える人こそが、恋の醍醐味をわかる人である――と。
琴美の言葉に、強くて、どうにも曲がらない芯を感じる。
「どう思う」と告げたときに、少しだけ低くなった声。
琴美は、私と向き合うために、ここに来た。
だから、私も退かない。
「……私も、やっぱり一番がいい。私のだもん」
ふぅ。
琴美のついた息の音がはっきり聞こえた。
「だよね」
さっきと同じ、一オクターブ低い声。
結城が付け足して、ほんのりと笑顔になった。
「私と同じだね……いっつもこうだね。咲耶とは」
やっぱり、こうなっちゃうのかぁ……あーあ、と頭の中でもう一人の私がやれやれ顔になった。
でも、予測してたことだ。
琴美なら、きっとこうなって、こう言ってくる。
「琴美……そういうことなの?やっぱり」
「……うん。欲しいものは、欲しいって言わないとね」
琴美の気持ちはわかる、んだけど、ちょっとどうなの、と思う私がいる。頭の中からそれが出てきて、後を続けてしまった。
「でもさ。そもそも、琴美のこと、私ずいぶん心配したよね。電話したり、メッセージ送ったり。学校ちゃんと来れるようにって、美しい友情発揮してたと思うんだけど」
こんな牽制で、どうにかなる相手じゃないのはわかってるけど。
琴美の笑顔がにっこりになった。
「うん、咲耶。それは本当に嬉しかったし、助かったよ。ありがとう……でも」
でも。
「神田先生の行動に影響したのって、咲耶のお父さんの通知だったよね?それ考えたら、プラマイゼロかなって。いや、むしろマイナス?私が今ここで焦ってテスト勉強してるの、どうしてかしら……」
「……勉強しないでお絵描きしてたから」
「はずれ」
「むぅ」
「答え、わかってるでしょ?」
◇
静かな図書館にシャーペンの音だけが響く。
しばし沈黙が流れて、また琴美が声をかけてきた。
「ね、ところでさ。咲耶、結局のところ、先生とどこまでいったの」
「……」
合間をシャーペンの音が埋めている。
「私は、キスまでしたんだけどな」
「……神田先生とよね?」
「……」
「……」
「……」
琴美が小さく笑っている。
「……いいかげんにしなさいよ、私だって」
「なに?咲耶」
あぶない。
いくら相手が琴美でも、言っちゃいけないことがある。
特に、センセイに迷惑をかけるようなことは禁物だ。あぶないあぶない。
「……この続きは期末テスト終わってからにしましょう。秋には文化祭……そのあとは修学旅行もあるし」
先に帰るね。うちで勉強するから――筆箱と教科書をしまって、そう言って鞄を持ち上げた。
肩越しに琴美を見る。
――琴美のいたずらな目がこっちを見ていた。
一章付記 『徒然草』 了




