第二章 曙光篇 #1-1 啓一くんは試練番長一年生
それは30年の一度の大型台風が、上陸するしない。散々、やきもきさせて、結局、関東を直撃した、ある平日の朝のことでした。
高速連打乱れ打ちで、凄まじい雷雨が家全体に降り注ぎ、外に出た途端、体ごと闇空に飲み込まれてしまいそうな強風が、ごうごうと吹き荒れて、家にいても生きた心地のしない嵐の下。
いつもなら雨戸を閉め切り、布団で爆睡している啓一くんが、今朝はまだ朝の七時だというのに、生まれて初めて着たスーツ、ネット動画を参考にし、見よう見まねしめたネクタイ姿で、耳にはスマホまで当てているのです。
啓一くんはこれらを、いったいどうやって手に入れたのでしょう?
さかのぼること昨夜。
啓一くんが、覆面猊サーとの死闘を制し、悪を葬り去って帰宅。毒両親に弟毒嫁美代子さんの悪だくみをあばき、二階の秘密の部屋に戻った時のことでした。
「なんだってー」
啓一くんの口から素っ頓狂な声が出ました。ドア横の、いつもの食事台に。スーツ一式に革靴、中には防水カッパ上下の入った、見るからにブランド物の革のリュックなどが。買い過ぎた時にマイバックの代わりに使う、スーパーの段ボール箱に入れて置いてあるのです。
ひょっとしたら、今日のシンポジュウムを、親父が見ていたのではないか?
それにしては、あのケチな親父が、サイズの合う服が少ない俺のスーツなどを、よくこの短時間で揃えられたな。
その時の啓一くんは、このスーツにまつわる数奇な運命など、まだ知る由もありませんでした。
見られたくない現場を、そうとは知らず、一部始終見られてしまった。以前の啓一くんなら、羞恥と怒りで、しばらく部屋から出れなかったかもしれません。
ですが、生まれ変わった今の啓一くんは、もう恥ずかしさに布団をかぶることもなく、ちゃんと起きてスーツに着替え。さっきから何度も電話をかけ、つながらずに切り、またかけているのです。
35のいい大人が、初めてバイトの申し込みにいくことへの、親としての精一杯の思いやり、出来ること。
焼け石に水。
父親の無責任に対し、母親が復讐で子供を虐待して、啓一くんの今日があるのですから、長男の15年ぶり二度目のバイト面接に、どう見ても中古のスーツを送る前に。そもそも、最初から両親が啓一くんをまともに育てていれば、こんな面倒くさい事案は起きなかった。
なのですが、修二さんは、啓一、まずは一歩、お前の力で、実社会ってやつに、自分の足を踏み入れてみろ。もしだめでもあきらめるな。なあに、いざというときは、お父さんが「責任を取る」。君をこの世に生み出した製造責任を取り、侍道に殉じ、君を介錯し、私も潔く服役、出所後はお遍路の旅に出るつもりだ。
今日の啓一くんの有様が、自分の悪行の結果だなどと、まったく気づかぬ、他人ごとの悪天然ですし。
愛情をこめて育てた息子がこうなるなんて、お母さんは夢にも想像もしなかったろう。
ヤホーコメ欄等の「暖かい世論」に支えられ、違った意味で「愛情をこめて」、こうなることを「夢見て」育てた母房代は、自分を愛してくれずに家政婦扱いした、今も仮面同居のクソ男へのうらみ、罪を、啓一くんにすべて背負わせ。
悪いのは百%ひきこもり息子で、可哀想なのは産んで育てたお母さん。
「被害者」としての盤石な立場、世間一般の常識からの圧倒的支持で、謝罪どころか反省もせず。房代さんは、食事や小遣い、今朝の孫にも衣装等。啓一くんが断れない小技で、こんな息子でも母の愛というものはと、ことあるごとに「耐える母」を演じて、啓一くんを苛立たせます。
そうやって甘やかすから、怠け癖が治らない。深い事実を知らない、母房代の姉、清子叔母さんの単細胞を「小技効果」で激怒させ。清子叔母さんは、何の権限もないのに、二階の秘密の部屋前まで来ては、
「おい甘ったれのひきこもり! いつまでもお母さんをいじめていると、あたしがただじゃおかないぞ!」
いじめているのは、お前の馬鹿妹の方だ!
完璧に「悲運な母」を演じる、そのあまりのあくどさに、ぶち切れた息子に暴力をふるわれ、さらに自分の被害者感をアップさせる。
世の中には、そういう事案が絶えませんが、啓一くんは、母親も、その姉の叔母の顔を見るのも嫌でしたし、見た目は歩く凶器、半魚人でも。心は優しい平和主義者ですから、両親に暴力を振るったなどはありません。
逆に啓一くんの方が、真実を何も知らない子供頭大人の部外者たちに、どうせ反撃できないだろう。高をくくられ、自分の精神的ストレスを、悲運の殉教者にぶつける見えない暴力に、今までなすすべなく耐えてきたのです。
だが、それはもう過去、終わったことだ。反面教師。月尻氏は裏は悪だったが、表は俺の心の扉を開き、すべての苦しさを捨てさせてくれた、ある意味、俺の心の師だ。
<おはようございます。ゲーマンプロジェクト。花井です>
俺はもう誰にも自分を恥じることはない、。さあ社会に出よう、金を稼ごう。啓一くんが決意も新たにすると、ようやく派遣会社に電話がつながりました。
<おおおおおおお>
啓一くんが電話をかけたのは、仕分け倉庫のバイトを申し込んだ時以来、実に15年ぶりです。時をかけるバイトとでもいうのか、前回は公衆電話、今回はスマホでの通話です。
<おおはようございます。うんうん! えっと僕、今日の10時からの登録説明会に申し込んだ内海なんですが、このような悪天候なので、ひょっとしたら中止ではないかと思い、電話してみたんですけど>
啓一くんは緊張で、どもったり、痰をからませたりしながら、必死にいいました。出来たら中止で、もっと天気のいい日に仕切り直してほしい。いくらなんでもこの天気ではむりだろう。そうなら今すぐこの窮屈なスーツを脱ぎ、ベッドに飛び込みたい。啓一くんが家を出る前からリターンニートしそうになると、
<ああ、はいはい受けたまわっております。へえ、悪天候なんですか。弊社はすでに全員が出社しており、内海さまをお待ちしておりますが。うーん、今日以外ですと・・そうですねー。この後は10日先まで説明会の予約が埋まっていまして・・日払いのお仕事は大変人気ですので、今日いらっしゃらないと、あとはお給料が、月末締めの、翌月の払いのお仕事の紹介しか出来>
啓一くんは、弾かれたように立ち上がり、
<まーや帝国民NO1の男、いきまーす!>
喉も裂けよと叫びました。
<・・・お、お待ちしております。ツーツーツー>
今まで人生、全戦全敗だった俺は、昨日に続き、今朝も派遣会社に圧勝してしまった。啓一くんは謎理論で奮い立つと電話を切り。都合よくリュックに入っていた、台風でも出社可能な本格的な雨具を着て、革靴はビニール袋にしまい、「防水」と書かれたリュックに入れました。
そうして、前回は一般人の度肝を抜くまーや応援服。今回は生まれ初めて着たスーツで下に降りて行くと、いつも両親のどちらかがいる居間は無人でした。
普通の家庭なら、息子が就職して、スーツで初出勤するような記念日なら。いやがる息子を説き伏せ。クッキングパパから抜け出たような、陽気で堅気の妹などがお兄ちゃんをはやし立てながら、全員で幸せ記念撮影したりするのでしょう。
ですが、啓一くんの、15年ぶり二度目のバイト申し込みは、今までの人生同様、一人だけの孤立無援の出陣です。でも、この方が気が楽です。大卒の初出勤ならともかく、22年浪人生の人生二度目のバイト申し込みなど、人知れずにそっとがいいに決まっています。
「な、なんだってー!」
また啓一くんの口から素っ頓狂な声が出ました。下駄箱の上に小銭ばかりで1060円と、「交通費 父より」とレシート裏に、無駄に達筆で書かれた紙が、セロテープで張り付けてありました。
しかもこの小銭は、派遣会社の最寄り駅までの交通費とぴったり同額で、いかにもケチな修二さんらしい思いやりですが、なぜ修二さんは啓一くんが今日、派遣の登録に行くことと、会社の最寄り駅まで知っているのでしょう?
思い起こせば前夜、夕飯を食べているとノックがし、
「啓一、私の気持ちだ。これも使え」
突然、修二さんの、大人が子供にいうような、上から目線の声がしました。啓一くんがお皿を下げる時に見てみると。そこにはスマホと充電器。「プリペイド式です。切れる前に自腹でチャージすること」。レシートの裏に、無駄に達筆で書かれた紙が、セロテープで張り付けてありました。
飼い殺しのペットへの餌でも、背に腹は代えられない。使えるものは、なんでもいただく。
啓一くんは小銭をひったくると、長靴をはいて、新しい人生への入り口でもあるドアを開けました。
「うわー!」
外に出たとたん、啓一くんは荒れ狂う暴風雨にふき飛ばされそうになり、玄関は大きな音を立ててばたーんと閉まりました。
啓一くんは家を振り返ることなく、新たな一歩を踏み出しました。幸い、バスも電車も遅れはあるが、動いているということです。
これはもう、俺に後戻りはするなということだ。
ひとつ前のバス停は、雨風をしのげる待合室がありますが、啓一くんの近所の乗り場は、鉄の時刻表がついた、コンクリート製のポールがあるだけです。啓一くんは、暴風雨に吹き飛ばされないよう、電柱につかまってバスを待ちました。
そのままの姿勢で待つこと30分。ようやくバスが来ました。雨風も一瞬だけおさまり、啓一くん以外、体育会系のジャージを着た女子高生二人を乗せただけのバスは、無事、駅に向かって走り出し、
「本日悪天候により、一部徐行期間があり、遅延する場合がありますので」
等のアナウンスが流れたその時でした。
「ちょっと、ナニあのおじさん」
「うわ、マジかよ。こんな雨の中、ずぶ濡れでなにしてるんだろ?」
つられて見た啓一くんは、
「なんだってー!」
うっかり、家と外の区別がつかない、素っ頓狂な声を出しました。
のろのろ運転のバスが、コンビニ前にさしかかった時でした。店舗前の喫煙コーナーから、歩道に父修二さんが猛然と駆けて来て、バスに啓一くんが乗っているのを確認すると。
「獅子は息子を千尋の谷底に突き落とすという!」
修二さんは、お前は突き落とし方が違うだろ!! なことを叫ぶと、
「啓一よ! 私の血を引いているのなら、その千尋の谷底から這い上がってこい!」
わけのわからないことをまた叫び、暴風雨の中、啓一くんに向け、力強くVサインを突きだしました。
あんたがまともだったら、こんな悪天候な中、無理に出かけなくてもよかったんだよ。
啓一くんは心から思いましたが、もういい。見ないふりを決め込みました。
「ちょっと、Vサインおじさん追いかけてくるよ!」
「おじさんがんばれー!」
啓一くんは目を閉じ、寝たふりをしました。
( `ー´)ノ
一話まるごとアップすると、間が開きすぎるので、今後は4、5回に分けて、書いて出しでアップします。