鉄拳制裁
写経は想像以上に辛かった。
辛いと言っても肉体的なものは、ほとんどなく、それよりも精神面で辛かった。
ぬえの様子が視界の端に入り込んで集中出来なかったのも勿論ある。
だが最も耐え難かったのが、写経そのものが持つ性質である。
もう一度説明するが、写経とは一つのお経を書き取ることによってそのお経と向き合い、心を豊かにするものである。
だから、小一時間黙って机に向かい、筆をひたすら滑らせなければいけない。
そう、これは僕の大嫌いな単純作業でもあるのだ。
一応「お経を読んで内容を理解する」という重要なステップも存在するのだが、厄介なことにお経は全て漢字で書かれている。
もしも学生時代の僕を知る人がいるなら(勿論、そんなことなどありはしない)、僕がどれだけ漢文を苦手としているか分かっているだろう。
お経を読んで理解するなどという芸当は不可能なのである。
結果、敗北。
動きの悪い筆と手本を眺めていたらあっという間に時間が過ぎていった。
写経が終わると、聖さんが手本と僕たちがお経を写した紙を回収した。
全員書いてある量はまちまちだったが、一枚だけ白紙が混じっているのが分かった。
ぬえだ。
全員書いてある量はまちまちだったが、一枚だけ白紙が混じているのが分かった。
ぬえだ。
さぼっているのは分かっていたがまさか一文字も書いていないとは、流石に予想外だった。
聖さんはそれを受け取ると、しばらく笑顔のまま固まっていた。
数秒後、思考が固まったのか優しい声で――本当に優しい声で――こっちへ来なさいと言い、ぬえを部屋の外、廊下の奥の方に連れて行った。
「聖さんは何をしようと言うんです?」
気になって近くにいたナズーリンに聞いてみたが、
「ま、じきに分かるさ。」
とあいまいな答えを返された。
その直後、鈍く大きい音、丁度軽トラが突っ込んできたような音がした。
振動の具合も、そんな感じだった。
勿論、軽トラが突っ込むところを見たり、感じたりしたことはないのだが。
そこからさらにしばらくして頭を押さえたぬえがふらふらしながらやって来た。
「鉄のこん棒で頭を殴られたのか?」
ぬえに尋ねると、珍しく弱々しい声で
「違う、素手だ、素手でやられたんだ、いつもそうなんだ。」
と言うと、倒れこんでしまった。
「本当なのか?」
「何が。」
位置も定めずに放った疑問に一輪が応じる。
「いつも、っていうのが。」
「当たり前じゃないか。何かやらかしたら罰を受けるってのが常識ってやつよ。」
「だが罰が少しきつすぎやしないか。」
「そうか?聖さまも十分手加減してくれるから、どんなに強くても木が一本折れるくらいだぞ。」
「あぁそうかい。」
時々妖怪の常識という奴が恐ろしくなってしまう。
「どうした、やけにげんなりしているじゃないか。」
「ものの弾みで罰を受けるようなことをしてしまった時のことを考えると憂鬱なんだ。そんな力で殴られたら頭がかち割られるに決まっている。」
「あぁ、それは大丈夫だろう。聖さまだって藤乃が人間だってことくらい分かっている。それに、聖さまはいつも後遺症みたいなのは残らないようにしてくれている。」
そう言って、一輪は僕の背後の方に指をさした。
振り返ると、さっきまで倒れていたはずのぬえが他の仲間と楽しそうに話していた。
「恐ろしいほど頑丈なんだね。」
「手加減してくれるからさ。」
しかし、いずれにせよ痛いことには変わりなわけだから、何としても罰を受けるようなことは避けなければならない。
そう心に刻んだおかげか、昼からの修行――どれも途中で投げ出したくなるほど辛かったりつまらなかったり――では、自分でも驚くほどお利口さんになれていた。
なかなか話が進まない。
これじゃオチまで考えてあっても意味がない。




