其の一 土の町 上篇
高い山々から朝日が昇る少し前の群青の山並み。その中をのこのこと進む影が一つ。
虫のような脚の上にお皿を重ね、その上に発条と電灯と煙突付きのボウルを乗せ、仕上げに安楽椅子を飾ったような見た目の金属の塊。
それが椅子の上の主人を寝かせたまま器用に山道を進んでいた。
「主人、起きて下さい。山並みもだいぶ穏やかになってきましたよ。おそらくけものの類も近くにはいません。現在の位置は昨日より西に…」
発条仕掛はおかっぱ頭、くすんだ色の着物と被布という所謂和装を身にまとった、幾つだか、彼か彼女か一見分からない主人にその甘ったるく、がさついた音で喋りかける。
そんなものに目を覚まさせられた椅子の上のフーゴは、かなり不機嫌そうな目をこすりながら、自分が乗っているそれを蹴とばしつつ
「老師、うるさい」
と、一喝。
「けものがいないんだったら起こさなくていい…」
ぷしゅー、と不機嫌そうな音を立てて、老師と呼ばれたそれは黙って再び進み始めた。
「老師、門みたいなのが見える。たぶん一里も無い」
「そうですか。…寝ないのですか?」
「…………私が二度寝してるのを見たことがあるのか?莫迦」
「はいはい。で、寄りますか?」
「寄ろうとしてるから言ったんだ。なんだ?そろそろその腐った脳みそに油を注さないと駄目か?」
「そんなことないのは主人が一番わかっているでしょう」
そんなやりとりをしながら、一行は朝日が差し込み始めた山道をまた、のこのこと、降りていくのだった。
○
朝日が昇りきったころ、一台とその一台から降りた一人は大きな、かろうじて立っているようなぼろぼろの門へと歩いていた。
「検問は無し…建物は土でできててだいぶ古い…通りに人の気は無し…まだみんな寝てるのか…寝坊助」
「朝日が昇ったばかりなんだから当たり前では?」
「うちでは朝日が昇る頃には饅頭が湯気を上げて蒸しあがっていた」
「ここのあさごはんは饅頭じゃないのかもしれません」
「とにかく寝坊助。…お嬢さんでいいか?」
「お嬢さんにして何かおまけしてもらえるとは限らない、兄ちゃんにするほど治安は悪くない、と見ましたが」
「じゃあお嬢さんにする」
二人の会話が終わった丁度その時、丁度大きな鍋を乗せた屋台を引きながらつやつやとした顔の太った中年の男が建物の中から出てきて、どうやら店の支度を始めた。そして一行に気付くと、
「おお、旅人さん、早いね。随分とがちゃがちゃしたもんと一緒だけど、朝飯に粥はどうだい?この町で朝飯売ってるのはうちだけだから、ここを逃すと他はないよ!」
声を掛けてきた。
(粥か)
(粥です)
(老師、粥が主食なのか、ここでは)
(そうみたいですね)
(一刻も早くこの町を出たい)
(この辺はみんな粥が主食でしょうし、慣れるのは大切ですよ、ご主人)
(………)
結局フーゴは、一枚の薄っぺらい錫の塊と引き換えに粥をいただくことにした。
「はいお待ち。椅子に座って食うんだったら、店の中で食っておくれな」
「店?これじゃなくて?」
「この時間なら家に持ち帰る奴の方が多いからな」
「普段は店でみんな食べてるのか…。この建物?」
屋台の後ろの、土の建物をフーゴは指差して言った。
「ああ。でもそのがちゃがちゃは多分入らないからな、路地にでも置いといてくれ」
「…どうする?」
「主人はどうしたい?」
「…寒いから中が良い」
「御意」
老師は店主に言われた通り、邪魔にならなそうな路地の近くに移動し、しゅー、という音と共に脚を仕舞った。
店主はその様子を化け物でも見るような目で見ながら、既に店の中にいる彼女へ粥の入った椀を渡した。
「…な、なんというか、随分と凄いがちゃがちゃだな。喋るのか。食い終わった器はここの棚に乗せといてくれ」
「…うん」
建物の中に入ると、机と長椅子がいくつか。フーゴはその一番手前に座り、手の中にある椀に入った粥をじっと見つめ、観念したように食べ始める。
「どうだい?出来立てだから味は問題無いと思うが?」
(なんで来るんだ…客の一人や二人来るだろうに…)
心の中で悪態をつきつつ、フーゴは笑顔で答える。
「うん。大丈夫。美味しい。でも、もう少し、塩気があった方がいいかも。うん」
「そうか。塩、いるか?」
返事に困っていたところ、丁度表に人が一人いる。これぞ神の救いとばかりにフーゴは言葉を繋いだ。
「あ、お客さん」
「おお、いらっしゃい、早いね、いつもので…」
粥に目線を戻すと、一瞬にして剥がれる笑顔。
(粥はやっぱり嫌いだ…)
それをなんとか店主の男にばれないよう、フーゴは歪みそうな顔を隠しながら必死で粥を食べていた。
○
その頃老師は、フーゴが苦労している顔を思い浮かべながら店の外で周りを伺っていた。
(人はぽつぽつとしかいませんね。しかも全員男だ。子どももいない…。建物は主人の言ってた通り全部土で出来ている。修繕されても良いはずなくらい古い。道中、けものは近所にいなかった…)
ブーン、と電灯を青く光らせた後、老師は先程の店主の元へとことこと歩み寄っていった。
「店主殿、ちょっといいですか?」
「ああ、あんた、喋れるのか。そりゃ、立派なこった」
「ありがとうございます。それでですが、聞きたいことが…」
「お、おう、旅人さんの質問なら答えられるもんは答えるよ」
にっ、と笑う店主。それにつられるように電灯をチカチカと灯す。そして本題に切り込む。
「この町には少し長くお世話になりそうで…。それで、宿を教えて欲しいのと、ここの長に挨拶したいのですが」
予想通り店主の顔が歪み、次の瞬間、電光石火の如く店の中に消えていった。
(兄ちゃんにするべきだったかもしれませんねえ)
そんなことを思いながら、老師はブーンと青い電灯を灯した。