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シフト  作者: 鳩梨
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脱走


 久しぶりのことだった。

 死にたい……そう思った。

 ――違う。死にたい、じゃない。死んでもいい。そう、思った。

 死という終焉に対する恐怖。

 死という休息に対する至福。

 死という概念の、およそそうであるという漠然とした意味。本質。

「うっ、うう……くっ、ぅ…………」

 涙が止まらない。

 悲しい訳じゃない。

 楽しすぎて、というわけでもない。

 訳がわから無い。

 

 『悼みの歌姫』と『無垢の歌姫』の二重唱。

 ピアノの独奏と、女性パートのみに改変されたレクイエム。

 つい一瞬前の空気が、即座に吹き飛んだ。

 使われたのは荘厳さを醸し出すようなパイプオルガンではない。およそどこの学校の音楽室にでも置いてあるだろう黒塗りのグランドピアノ。

 けれど、拙いながらも厳かで、清らかな、綺麗な旋律だった。

 確かに、音楽を生業とし、世界を飛び回りそれで生計を立てるような人達と比べたら、まだまだ未熟かもしれない。

 一度だけ、父親に連れられて世界的ピアニストの演奏会を見に行ったことがあるからわかる。比べるべくも無い。

 けれど、だからこそ。その発展途上の自由さと苛烈さと、穢れを知らない素直な音色は心に響いた。

 本来ならパイプオルガンと幾つかの楽器、合唱団とで構成される部分は、全てピアノの独奏と、モモのソプラノとアゲハのコントラルトでアレンジされていた。

 レクイエムは本来、死者のために歌われる曲だ。そこには「鎮魂」の意味は無い。単に「葬送曲」「死者を悼む」それだけの意味しかない。

 古今レクイエムは多くの作曲者が作曲してきたが、中でもモーツァルト、ヴェルディ、フォーレは三大レクイエムと呼ばれている。――これは兄からの受け売りだ。

 フォーレのレクイエムは「死は苦痛ではない。むしろ、死は至福なのだ」と訴えかけるものだ。

 そんなことを言われても、あたしには何のことやらと全く理解していなかった。ただ、きれいで厳かな素晴らしい曲だという程度の認識しかもっていなかった。そもそも、歌詞は英語(多分)で、読み書きはできるが歌になるとちょいと理解に及ばないあたしの英語の理解力では、歌詞の意味する所など理解できなかった。

 けれど、このレクイエム・オリジナルアレンジは違った。

 依然として、歌詞の内容は理解できない。

 けれど、そんなものは関係なかった。

 子守唄のように流れる歌声。

 天国に吸い込まれそうな予感。

 天子の歌声に包まれているような心地。

 自分を手放しそうになる陶酔感。

 ああ、これを聞いたままに死ねるというのなら、どれだけ幸せだろう。

 本気でそう思える。

 死の恐怖感が、少しずつ、少しずつ、癒されるように、母の胸に抱かれるように、薄れ、消えていく。

 心が動くことを感動というのなら、これは正にそうだ。

 あたしの心に違和感なく入り込み、解きほぐしていく。

 心地よかった。

 けれど、同時に。それだけに怖かった。

 あたしがあたしでなくなりそうだった。

 あたし自身、何でそんな風に思ったのかはわからなかった。

 けれど、涙が流れて。止まらなくて。訳わからなくなって。

 まだ演奏は続いていたけど。

 歌は奏でられていたけど。

 あたしは、第三音楽室から出た。まるで、逃げるように。

 閉ざされた扉のむこう。演奏は、まだ続いていた。


 ここは、校舎の裏庭。

 あたしは第三音楽室からここまで全速力で走ってきてしまった。途中、誰にも会わなかったのは不思議だったけど、泣きながら走るなんて言う奇行を見咎められなかったのだからよかった。

 今は、もう。落ち着いている。

 頬についた涙の跡が少し痒いくらいだ。

 こうして、裏庭に群生している雑草を環のように結んで罠を作れるくらいには落ち着いている。

 はぁ。すごかった。まさかあれほどとは……。

 ううむ。と一人うねってしまう。

 あの二人のたまに聞く、『f/1』のゆらぎとか言うのが出てるんじゃないだろうか。

 ――いや、良くわからずに使ってみたけど。

 とにかく、二人が「歌姫」と称されるのも納得だ。音楽系の専門学校に行けばいいのに、と本気で思うくらい以上に、歌が上手い。

 レンちゃんも、さすがピアノ担当と言われるだけのことはある。上手だった。

 何より、目を瞑り心から歌うような二人の姿はとても綺麗に見えた。思い出しただけでも、ほぅ、溜め息が出ちゃうくらいだ。いかん。惚れるかもしれない。

 ……なんて。

 あー、けど。どうしようかな。

 そんなことを思いながら、ずるずると地べたに、群生する青々とした雑草の上に座りこむ。……スカートが汚れるかもしれないとかは気にしなかった。はたけばいいし。

 せっかく聴かせてくれたのに、途中で逃げ出してしまった。三人には悪いことをしてしまった。一体どこの世界に感動して逃げ出すなんて言う奇行に走る奴がいるのだ。

「ハーイここデース」

 頭の上に手を上げて元気よく呟いてみる。

 ……とても間抜け。ああ、恥ずかしっ。

 体操座りになって膝に顔を埋める。

 あたしは、考えてしまいそうになる事柄を、重そうになる感情を払拭するために、何も考えず思わず。しばらくそうしていた。

 当面の問題は、三人にまともに顔を合わせることができるかだわ。



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